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真嘉比の暗渠

多和田川(大湾・銘苅川)の続きです。
多和田川

真嘉比小学校の北側に真嘉比部落があるのですが、71年のゼンリン地図ではその中に二つの水の流れが確認できます。
マカンミチから斜めに出るような形ででている流れ(南側)は途中で消え、その流れに連続するかのような形で道路になりバイパスの向こう側まで続いています(濃茶で表示)。これは流れが暗渠化されて大湾ガーラへ続いているかと思うのですがどうでしょうか。
真嘉比の二つの流れのうち北側の流れはどこに続いているのかはっきりしません。もう少し東側へ行くとアガリヌカーがありますがなにか関連しているかどうかは不明です。

この地図でグレイアウトされている真嘉比小学校と興南高校は真嘉比側での二つの丘になっています(興南高校は古島宇久増原)。
真嘉比は現在整地されていてこの地図の情報も追えないようになっています。再開発以前の真嘉比は道路が曲がりくねっているせいもあって車があまり通らず落ち着いたいい雰囲気の場所だったのですが。
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多和田川(大湾・銘苅川)

新都心の水の流れの詳細な図がありました。
多和田川
参照元は「銘苅港川原遺跡/那覇市教育委員会」の中の図です。

まず河口側が多和田川(タータガーラ)、その上流の二つの川がそれぞれ大湾川(オオワンガーラ)、銘苅川(メカルガーラ)です。泊側にある流れには名前がありません。
※これまで混乱した呼び方をしていましたがこれ以降統一します。

地形を見ると流れがあったんだなというのは自然と納得できます。
元の図は「1947年頃の地形と遺跡分布」というものなのですが、多和田川の河口が現在の合流地点とは違います。しかし現在の河口地点にも入り江がありますので小さな流れを改修してそちらに合流するようにしたのかもしれません。
泊の方へ向かう流れは黄金森の手前で終わっています。真和志民俗地図ではこの流れは書き込まれていませんが、道はちょうどこの流れに沿うように弧を描いています。

昔のゼンリン地図を見ると大湾川と道路(線路)を挟んだ向かい側の真嘉比に水の流れがあります。この流れは現在見ることが出来ませんが溝程度の流れで暗渠化されてしまっているのでしょう。

真和志南部空撮

上陸前・後の那覇から12月の写真の真和志地域を拡大してみました。


別にこれといったことは無いんですがいままでぐだぐだと書いてきたことが写真で見えるのは個人的にうれしいですね。
旧那覇で使っていた写真は真和志の部分が切れていて空撮写真を使うことが出来なかったのです。高解像度のものがあればと思うのですが探しきれていません。

ライセンスというかコピーライトに関して無知で、今までも野蛮なことをやって来たように思うのですが、一応自治体発行の書籍で使われている有名な写真や米軍撮影のものを出来るだけ使うようにしてきました。そうでない写真で使ったものは多少思い切っています。
戦後の空撮は国土交通省のものがあるのですがさすがにあれは手を出しにくいです。

このブログは旧真和志市(村)地域をメインに旧那覇も扱う方針なのですが真和志地域に関しては写真が少なく手を焼いています。とはいえ目立った建物も少なくただの田舎であった地域ですからしょうがないのかもしれませんが...

65年の大道付近

65年発行の那覇市明細地図を参考に左図を書きました(上大道原中心でそばの地域はすべて書き入れていません)。右は真和志民俗地図を参考にした戦前の道路図です。
上・下大道原(65年)上・下大道原(民俗地図)

原の範囲の白線はいい加減に書いた地番です。道路等と重なっている箇所も現在の区画と同じになっている箇所もありますが違っている箇所もあります。
上大道原の左側、字安里羽佐間原(白い部分)には南北に道が通っていますがこの道路はバイパス的な道です。右の戦前の図にはこの道と重なるような道はありません。
戦前の道は迂回するような形でしか移動できませんでしたがこの道によって部落内を移動するのが容易になりました。
※道路について間違いがありましたので訂正しました(2011.03.03)

安里から松川までで戦前の部落について触れましたが、戦前この一帯は大通り沿いにしか住居が無かったようなので、栄町の登場と戦後の人口増加に対応した区域なのだと思われます。

上・下大道原

上・下大道原(民俗地図)大道(北)
字大道の最北部、上・下大道原です(参考:真和志民俗地図)。
参考:字大道の原名(南)
参考:字大道の原名(北)

上大道原のバイパス側で字安里になっている箇所(交差点付近)がありますがそこはバイパスが出来る前の区画に道路が出来た結果だと思われます。図に書き込んだ道は真和志民俗地図にある道で、茶が現在もある道、緑が消えてしまった道です。
上大道原は安里との境界が道になっていて、原の北側はバイパスにはみ出しています。安里との境界線になっていた道路が斜めに通っていた名残だと思いますが辿れるかたちで残っている道は少なく区画等に痕跡が見られるだけです。

上大道原で面白いのは真和志民俗地図が想定している嘉手納向けの鉄道が既にあった時代以前の区画が鉄道建設に影響されているのがわかる点です。バイパスの向こう側の道と対応するような形の道、分断されて無意味になったので消えてしまった道のようなものも見られます。65年の地図では上大道原の中で行われたバイパス的道路工事の影響を受けて消えてしまった道があり、さらにその道も現代と比較すると消えてしまった箇所がいくつかあります。
また近年の安里高架の架け替えでバイパスも道路拡張が行われていてその影響も受けています。

二又原(松川)

松川の二又原(フタマタバル)です。ここには国場に移転した射撃場(ピンク)がもともとありました。
松川二又原
北から西へぐるっと川に囲まれていて、南は現在の松川小学校のある佐久間森の高台を避けるような形をしています。図では佐久間森のある佐久間原との境界を高低差のある裏道で書いていますがこちらが本来の旧道ではないかと思われます。

沖縄工業高の前は繁多川と大道と松川が接する箇所です。ややこしく入り組んでいますがそれぞれの部落の中心部とはどこからも遠く、はずれた場所になっています。
大道(北)
真和志民俗地図では大道には大きな集落は無く、松川と接する上・下大道原の大通り沿いに小さな集落がぽつぽつとあります。

前原(松川)

松川の前原(マエバル)は沖縄工業高校がある川の側の一帯です。
字松川前原
北は安里川で区切られ、その他の境界も道が境界になっていてわかりやすいのですが、東側の繁多川宮里原との境界はよくわかりません(破線にしてあります)。

ちょうど図の左上が前原です(だいぶはしょって書いています)。前原は繁多川から松川団地付近を通って流れて来た水の流れが合流するそばにあります。
前原の川をまたいで走る境界線は土地利用形式か地形によるものだと思われますが、考えてみても理由が見つかりません。

参考:繁多川の原名
参考:字大道の原名(南)

繁多川の原名

繁多川の原名、宮里原(ナーザトバル)、野座原(ヌーシャバル)、寒川前原(サムカワマエバル)、金城前原(カナグシクマエバル)魚崎原(イユザキバル)、石田原(イシダバル)、繁多川原(ハンタガワバル)です。

読みは真和志民俗地図に書かれてあったものですが寒川前原はスンカーメーバル、金城前原はカナグシクメーバルでしょう。
沖縄の地名は読みの意味が漢字であてられることがありますが魚崎原は読みがイユザキバルでイーユは魚のことですからこの漢字をあてたと思われます。似たような例としては宮古の砂川のもともとの読みはウルカですが、ウルが砂、カ(ー)が川ということで漢字があてられウルカから砂川に変化しています。
その他同じ発音でも違う漢字があてられてさらにそこから変化していったものもあります。あとは豊見城の保栄茂(ビン)とか変化が激しくてまったく意味が分からなくなったものもありますね(笑)。

今度の図もざっくりとしたもので現地の道をきっちり見れば境界等はっきりするところもあると思うのですが大体の図ということでご容赦願います。
繁多川は変化の多く高低差のある地形で、水源が多いので小川もあり、古い道も残っています(識名坂/比地川坂)。この辺は実際に歩いてみないとわかんないとこもあると思っているので暇を見つけて歩いてみるつもりです。

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