浦添は畜産の盛んな地域であったようです。
浦添市史資料編122ページ、昭和9年の「浦添村家畜数調」という表によると、牛約840頭、馬約950頭、豚約2670頭、山羊約2570頭と結構な規模です。
戦前の浦添村は畜産のとても盛んな村で、面目躍如たるものがあった。その背景を考えてみると、
農耕地が広くそして資料になる青草が絶えることはなく、さとうきびのしょう頭部や甘藷のカズラ等の粗飼料が豊富で手軽にはいるのでほとんどの農家が牛・馬・山羊を飼育し、家畜増産の基盤は確立していた。
田畑の耕作や製糖場のキビの圧搾には地区力が大いに利用されたが、昭和16年頃から発動機工場にかわったのでかつての役労牛は肉牛としての供給地となり、阪神航路の船の出る毎に肉牛を移出するようになった。オートバイ乗りの牛馬商の渡慶次某(喜舎場小、天久在)が農民相手に庭先取引をしていた。
牛馬の増産奨励にもなり、唯一の農村娯楽としての闘牛が、牧港、伊祖、城間、宮城、小湾の各字で盛んに行われた。安波茶馬場や隣村で競馬も行われたので馬の頭数もふえていった。
浦添市史第4巻資料編3 p123(省略抜粋編集)輸出される肉牛の数は沖縄県史等でも確認できます。一方乳牛は那覇と同じくあまり普及しなかったようです。
戦後はなぜか肉目的の兎飼育ブームがあったようで家畜の項目に兎という項目があったりします(たしかみなと村など)。浦添市史の123ページには兎で失敗したエピソードにも触れられています。あと沖縄タイムスフォトギャラリーには「うさぎブーム」という1947年撮影の写真があります。
国場の生活史証言で骨を肥料目的で買うという話がありますが、浦添市史にも売った証言が散見されます。
骨小コーヤーが国場・仲井真辺りから来たので、ウヮシティ(豚捨て)ガマに貯めて売ったとのことである。
仲間 p142
魚は糸満の人が売りに来たし、スクガラス売りは泊から、フクターコーヤー(ボロ布買い)、フニヒルヤー(豚の骨買い)は国場・仲井真から来た。
安波茶 p144
国場・仲井真辺りからは「骨小、フクターヤ、ネーミソーラニ」と声をかけ、マッチと交換した。
前田 p145
浦添市史第4巻資料編3(抜粋省略)PR