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松川の原名

松川の原名です。
松川の原名
真和志民俗地図を参考にしていますが、道や川以外の境界線は確かなものではありませんのでご注意。具体的には後原の北、与那覇堂原の川以外の境目、今帰仁原の川以外の境目、松川の西側です。

以前山川カラヤーで山川カラヤーは首里山川町とかいたのですが間違いで、山川カラヤーは与那覇堂原にもありました。
今帰仁原にはカラヤー毛というのもあります。
ちなみに読みは与那覇堂原(ユナファドーバル)、今帰仁原(ナチジンバル)です。

松川は観音堂から続く松川原の高台が北と南の川沿いの低地で挟まれた形になっていて変化に富んでいますね。松川原を中心として端泉社、沖縄缶詰工場、養蚕試験場、酒造所などがあります。
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天久の屋取 2

天久の屋取の続きです。承前。
グダグダ 天久村の御嶽
グダグダ 安里初等学校
天久の屋取
天久の御嶽の位置を参考に部落の大体の範囲を天久誌の集落図でいい加減にマッピング。
南の部落入り口が「前の池」、北が「西の池」、東が「闘牛場」の範囲です。天久誌の部落図はこの範囲となっていますが真和志民俗地図を見ると東原に集落の記号、そして天久村の御嶽で参考にした「那覇新都心物語」では外れに平野(ひらの)という表示があります。

天久の屋取部落は東原の低湿地帯に沿うように10世帯余りが存在し、東原一帯に水田、現在の泊浄水場北の丘のふもと一帯を開墾し畑作を行っていたという。
天久誌 p91

部落は米軍の土地接収にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p50


本部落の周辺に屋取ができるという良い例ではないでしょうか。
しかし天久誌の部落図で屋取がまったく触れられていないってのはやはり寄留民との垣根は高かったんだろうなというのを考えさせられます。特に天久は戦後間もなくバラバラになってしまっているのでしょうがないのかもしれませんけども。

参考:天久の地縁 3(平野区)

新都心そのほか

那覇新都心物語から記述を拾います。

当時の沖縄三大闘牛場のひとつが天久にあり、闘牛を行う時は周辺に階段式の観覧席を設け、多くの人で賑わった。 p19

「那覇市史」によれば銘苅集落は明治42(1909)年に安謝から分立して独立行政をつくり、多和田原、銘苅原、名護松尾原の三つの小字の結合体であった。
三つの小字の中でも名護松尾原の人口が最も多く、往時の戸数が60〜70戸で全戸が農業に従事していた。各戸2000坪以上の畑を持ち、一面にサトウキビが植えられ、のどかな風景が広がっていた。 p21

天久は旧集落から現在の国道58号の西側の天久潮満原と寄宮の農事試験場跡地とにわかれて移動させられた。上之屋の住民も大半は寄宮の農事試験場跡地に移動した。 p27

昭和25年から昭和27年にかけて、名護松尾原の住民の多くが松川後原(現在の松川、田崎病院周辺)に移動し、その他の住民は真嘉比、中部などへ移動していった。 p27

[再開発の]工事を始めることにより、当地区に生息していたハブが周辺の人家へ逃げ出すことが懸念された。そこで、事業地区界全域にハブ拡散防止フェンスおよび捕獲器を設置するなどの対策を講じた。200匹以上のハブが捕獲され血清などをを作るのに利用された。 p60


28ページには異動先の図があるのですが、農事試験場のあたりは<寄宮銘苅区、看護学校寮>と二ヶ所示されています。知事公舎周辺だけではなく与儀に近い辺りにも移り住んだのかもしれません。

最後のハブ200匹というのは当時の天久開放地がいかに自然に還っていたかの証明ですね。食物連鎖の頂点に近い位置にいたはずのハブを支える生物の数は相当のものだったはずです。
しかし自分はハブのことを知らないで結構出入りしてましたねぇ...

安里初等学校

「那覇新都心物語」掲載の「戦前の天久村 御嶽等の配置図」から安里初等学校の周辺です。
安里初等学校
学校の場所は銘苅・穂採謝原(フートゥジャバル/フウトウザバル)です。真和志民俗地図を見るとちょうどこの学校の東側には「森ヌ頂」(ムイヌチジ?)という高台があります。

この学校あたりは字が三つ接している場所で、後方は銘苅、前方(安里側)は上之屋後苗代原原(クシナーシルバル)、58号線側は天久東原と赤松尾原です。

参考:http://www.nahaken-okn.ed.jp/aja-es/rekisi2.html
参考:グダグダ(β) 小学校系統図

沖縄タイムス | 安里尋常高等小 おもろまちに記念碑
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-05-24_18219/

天久村の御嶽

「那覇新都心物語」掲載の「戦前の天久村 御嶽等の配置図」を模写しました。
戦前の天久村
ありがたいのは元図も現在の地図に書かれていることでこの図はただうつしただけのものです。「天久村の民俗地図」という図が天久誌にあるので、その図に書き込まれた御嶽などの位置を元にすれば天久部落の位置も描けるかと思います(そのうちやります)。
細かいことでありがたかったのは「平野」の位置がわかったことでしょうか。

部落は米軍の土地接収にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p39


「平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた」という記述と、図ではどちらかというと部落の北側にある平野の位置がかみ合いませんが、とりあえずは地元民のいうことを信用することにします。
図の右下あたりには安里初等学校があります。

松川周辺の道

那覇詳細地図(65年)にある道を現在の地図に書き込みました。一部は想像で補っているのでその辺はご容赦くださいませ。
あと道の太さが違っている部分がありますがこちらのミスなので同じものとして見て下さい。
松川周辺の旧道
まず松川部落から金城ダムにいたる道が直線化されていないのがわかります。その他では松川団地から川に向かう道もまだ通っていません。

真嘉比川の改修以前の流れが図の左端ギリギリあたりにあります。ちょうど坂下通りにでる手前で曲がっていますがここの流れは改修されて直線になりました。

松川のトゥン

真和志民俗地図には松川郵便局付近にトゥンとかかれた場所があります。
Google Map:松川郵便局

図に書き込んだ道()は真和志民俗地図に描かれているものでトゥンの傍を通る細い道は真和志明細地図(65年)に描かれてあるものです。この細い道は現在使うことが出来なくなっていてトゥンも跡形もありません。
ですが建物の敷地はこの道の形を残しています。

細い線で囲った箇所は真和志民俗地図で、地図の記号説明では丘陵(だいたい毛や森)となっています。図は地形を強調していて濃い色の部分は高台、このあたりは繁多川の高台の裾野付近になります。
真和志民俗地図ではこのあたりに集落の記号は無くその他の記号もない空白地帯なのですがなぜか祭祀に関係するトゥンの記号だけがぽつんとあります。

トゥンについてわかりやすい記述がありました。小禄のことが中心ですが参考になると思います。
小禄 -OROKU- うるく トゥヌ(殿/トゥン)
http://takara.ne.jp/oroku/tunu.html

上間と津嘉山の境界が定まった由来

上間誌から境界決定の伝承についてです。左は南風原と那覇の境界付近、右は上間矢旗原です。
矢旗原
琉球王府時代末期の頃、上間と津嘉山は両村(字)の境界のことで紛争となった。上間は矢萩毛(現南風原高校)の山頂から伸びる先を主張し、津嘉山はそこからさらに200メートルほど南側の水田地帯を東西に流れる小川、クガーラ川を境界にするよう主張した。今では考えられないことであるが互いに自村(字)の土地が少なくなることを望んだのである。双方譲らずついに石合戦となった。
石合戦が行われたのは矢萩毛のふもと、今の南風原高校の正門付近であった。当時は石畳道の小路が一日橋と津嘉山を結んで、この付近は小高くなって石畳道を登るという意味の石登り(イシヌブイ)と名称していた所である。この辺は石がなかったので女性は竹籠で石を運んだ。この話を語った老婆も石運びしたという。
石運びについては津嘉山にも同様の伝承があった。津嘉山出身の筆者の母によれば、母の祖母(1860年生まれ)も石合戦の石運びをしたという。津嘉山は平地で石が少なく、瓶も割って石代わりにしたという。
(略)上間側が勝利したことによって両村の境界は上間の主張する矢萩毛の頂上から尾根伝いに下りて、西側の国場川の流れに沿って定まった。石合戦に勝って境界を上間側に寄せ、村の土地を少なくして公租高を少なくしたという。これが現在の境界である。
はたして石合戦によって村の境界が決まるものか寡聞にして知らないが、一つの伝承として記録しておく。ただ、地割りについては王府は全く干渉せず村(字)の自由に任せたから右の話は本当かもしれない。
上間誌 p80、81


ほんとかどうかはわかりませんが面白い話ではあります。
矢旗原にあった矢萩毛(ヤファジモウ)は国場誌などで見る事が出来たかと記憶していますが小高い丘で現在の地形からは想像がつきません。あと矢旗(ヤハタ)と矢萩(ヤファジ)は似た音ですが語源は同じなんでしょうか。

参考:山川原・淵下原・東原・矢旗原(上間)
参考:矢旗原(上間)

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