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筆山(繁多川)

フディザン(筆山)
高さ約5メートル、直径3メートルの地面から突き出した岩のことで、先のとがった形が筆に似ていることからそう呼ばれた。石田城碑文(1762年)によると金城・寒川(カナグシク スンガー)等の文人たちによる名称で遠くからでも目立つ奇岩であった。学問の神様として地元では御願コースになっているが、現在住宅地で入れないため、近くより拝んでいる。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p10

筆山

この筆山は見たことがなかったのですが石田川(イシダガー/イシジャガー)側のスージを入って行くと案内板があり、約1.5メートルくらいのコンクリート塀に設置されている案内板の向こう側に筆山はありました。案内板の位置からは余程背が高くないと全体は見えません。
図中の赤いポインタが筆山、青が石田川です。写真は下記アドレスより無断拝借。

繁多川11ヶ所めぐり
http://www.nahaken-okn.ed.jp/sikin-es/H15web/hantagawa_meguri/hantagawa_meguri.htm


筆山は筆架山と書かれているのも見ます。

1762年に建立された碑文には「この岡は筆架山(ヒッカーザン)を中心にした景観地で金城、内金城、寒水川、立岸の4集落の風水を守るため、真和志間切の住人は樹木の伐採や採石、お墓を建てないように」と書かれている。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p14


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繁多川の遺念火

「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」には古老から聞いたとされる遺念火(イニンビー)が通った道の図があります。
その一部分を描き出してみました。


シチナンダビラ(識名坂)の遺念火は、古老たちの話によると、一つは金城橋からシチナンダビラを上がって行き、一つはシチナンダビラを下って来て、チョンチョンガー付近で出会い、そこから2つになり、そしてウーエークーエー(追ったり追われたり)しながらシチナンダビラを上がって行く。
メーミチー(前道)を通らずスージグヮーに入って行く、童夢幼児園前からンニフスー(稲干)に出た遺念火は回し郵便局の東側にあった細い道に入り、インチュ毛(石田中グラウンド南方の小高い丘)に上がり、シードゥ(勢頭)を経て真珠道に出て、識名、上間を抜け、真玉橋の方へ向かったという。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p28


図中の青のポインタがンニフスー、緑がインチュ毛です。具体的にどこのスージを通ったかということまでわかるのは面白いですね。
図の右上でシチナンダビラ(識名坂)が切れてしまってますが、チョンチョンガーは図では切れてしまっている坂の途中にあるようです。図の点線部分は廃道です。

チョンチョンガー跡
シチナンダビラ(識名坂)の途中にあり、『球陽』には「真川」(マガー)と記載されている緯線。山側の土手からチョンチョンと水が滴り落ちる様子からこの名がついたといわれている。豆腐造りに利用されていたが、戦後の宅地造成により井泉は消失した。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p6


本には塞がれてしまった井戸の写真がありますので現存はしていると思われます。

ユクイダキビラ(繁多川)

「繁多川100周年記念誌 繁多川」にユクイダキビラが書かれていたので、参考にして図を作成しました(参照:107p)。
ユクダキビラ
「ビラ」は坂のことで、ここは繁多川部落から識名園方面に行く途中の丘になっています。ちょうど現交差点あたりが一番高くなっていて「ユクイダキ」、ユクイダキの坂だから「ユクイダキビラ」で、もとは石畳道であったようですが戦後の墓建設ブームのときに破壊されてしまったようです。

「ユクイダキ」の説明につけられた写真では上のストリートビュー(http://goo.gl/maps/jFhdb)でも確認できる交差点の角から入って行く道が旧道とされています。
作戦道路は沖縄戦時の軍の計画によって作られたようです。ユクイダキから旧道を横切り現松川団地あたりまでの計画だったようですが図の範囲までの開通に留まったようです。未完成区域は現在の道とは重なりません。

三原橋

市民の友1959年4月15日(第102号)に三原橋の竣工記事があります。
別記事を参照すると完成時期は1959年3月だったようです。

三原橋竣工
去る1月14日から○工されていた三原橋がこの程完成した。この橋は日野通りから料亭田づる横を通り、三原に通ずる安里川支流のキブンジャ川に架けられた橋で、今まで三原一帯の住民が都心部に行くには真和志支所や料亭○之家前を迂回しなければならず非常に不便をかこっていたが、この三原橋の完成によって最短距離となり付近住民から喜ばれている。施工者は宮里組(代表者宮里徳喜氏)で工事費は2840ドルで竣工した。
※○は不明文字
市民の友 1959年4月15日 第102号(抜粋)


図は日野通り付近で茶で示された道は旧道です。オレンジが日野通りで強調された青色がキブンジャ川になります。三原橋完成以前は赤い点で示した橋まで大回りしなければならず不便です。
不明文字の「料亭○之家」となっているのは昭和中期のゼンリン地図で確認できる「登美の家」(243-1)ではないかと思われます(下図/交差点角)。この登美の家はゼンリン地図でみるとそばに別館もありますから結構大きかったようです。
登美の家

戦前相当の真和志民俗地図を見るとこの範囲のキブンジャ川には振興橋しか架かっていません。というかこの日野通りからキブンジャ川一帯には集落がなかったようで、真和志村役場(真和志支所)や振興橋付近が一番近い集落であったようです。その集落も旧くからあったものではないと思われます。

話は変わるのですが日野通りの入札記事がありました。日野通りの由来はこの「日野商会」に由来しているようです。
三区の日野通り改修工事
市土木課では3月24日市内三区日野通り(ひめゆり通り大城医院前-日野商会に至る道)の道路改修工事の入札を行った。
市民の友 1959年4月15日 第102号(抜粋)

その「ひめゆり通り大城医院」も先日取り壊されたようです。
記録としてまだ入れ替わっていないストリートビューをキャプチャしておきます。
大城外科(ひめゆり通り)

【追記】1963年の琉球商工会議所会員名簿に登美の家がありましたので抜粋しておきます。名簿内では料亭で5軒しかないうちのひとつですから結構格が高かったんじゃないだろうかと思われます(他は清風荘、那覇会館、松乃下、左馬)

料亭/資本金6,666/登美之家/金城利江/那覇市壷屋町243ノ1

長田原からの陳情

1962(昭和37)年の市民の友、「市民の声」欄から引用します。

寄宮中校うらに道路を新設して欲しい
私ども寄宮中校裏に住んでいるもの78戸の住民は1日も早く道路が新設されることを希望しております。
住宅のある場所に自動車道路もないということは、非常時の際、大きな危険を伴うし、浸水さわぎをたびたびおこすほど環境衛生が悪く、現在のままだと、住宅が急激に増えていく傾向にあって、家屋が密集してからでは道路新設は困難だと思われます。
それにすでに測量も済んでおり早急なる着工をお願いします。
字国場長田原付近一帯住民一同
準備できしだい着工予定
[答]寄宮中校裏一帯の著しい発展に対処するため、市当局としては同地域一帯の土地区画整理を施行するよう計画し、すでに行政主席の認可を得てあります。
したがって寄宮中校裏同地域の道路新設については、この土地区画整理事業と閉校して施行する計画であります。
なお、区画整理の施工については現在、諸調査や測量などが行われているので、準備でき次第着工する計画であります。(都計課)
市民の友 1962年2月1日 第138号

参考:グダグダ(β) 国場の原名

寄宮中学校後方の長田の話です。
この一帯は後年区画整理で大問題になってしまうのですが、1962(昭和37)年当時でも車が入れるきちんとした道路はなかったことが伺えます。とはいえ同時期の那覇はアスファルト舗装されていない道がまだまだたくさんあった時代です。
長田原はもともと畑で雨が降ると水が溢れてくるような土地柄だったようです。

識名部落内の道路拡張

識名部落内の道路拡張工事の記事が市民の友にありました。

道路が一躍二倍に
子供の遊び場も完成
四ヶ月にわたる失対事業による部落再開発工事で、識名部落は車両が自由に出入り出来るようになり部落の人々は、この再開発工事にいたく感謝している。
那覇市識名の道路拡張と中央子供の遊び場の落成祝賀会が[65年]5月8日午後2時半から識名公民館前で(略)行われた。この道路拡張工事は、市の失対事業費8901ドルで失対労務者延べ6165人が就労して、昨年[64年]10月に着工、4ヶ月かかって1月30日に巾4米、延長1650米の道路を完成したもの。(略)
字識名は真和志地区でも旧い部落の一つで殆どが戦前の高い石垣をめぐらしてあるため道路の巾が狭く、これまで一米半から二米ほどしかなく、車の出入りもできず、文化生活上、大変不便をかこっていたのを区民が無償で石垣や家屋の一部を取り壊し道路拡張工事に協力してできたものです。(後略)
市民の友 1965年5月15日 第177号 (抜粋と編集)


旧来の部落内の道路はこんなものだったと。
>殆どが戦前の高い石垣をめぐらしてあるため道路の巾が狭く、
>これまで一米半から二米ほどしかなく


昔の那覇の幅員は大通りが三間、脇道は一間無いし二間、小路(すうじ)と言えば四尺程度に過ぎなかったが、
那覇今昔の焦点 -那覇の今と昔を語る- p96


1間=6尺=1.82m、1尺=30.3cm

泊北方の丘陵

安里から泊の後方(北側)にはいくつか名前のついた場所があります。
左図は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参考にして作成、右図は地図から推定したもの。

那覇市史でこれらに触れられている箇所を抜粋します。

また泊の後方をとりまく丘陵は、東側から白森、黄金森、高真佐理、洋順(えんじゅん)とつらなり、茅原であったり松林であったり芝生だけのところであったり絶勝の地であった。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P37


「那覇市旧跡・歴史的地名地図」ではナンジャンムイ跡は「白山療養園跡」とも書かれています。那覇市史の記述では東側(安里側)から<白山・黄金森・高真佐理[タカマサリ]・洋順>と続くようですからナンジャンムイは白山と考えていいのではないかと思います。
現在は黄金森は公園、高真佐理(タカマサリ/タカマサイ)も公園、ヒータティ毛は泊浄水場跡地です。

【追記】
東の裏の丘がクガニムイ、ナンジャンムイと呼ばれていた。高真佐理の丘とクガニムイ、ナンジャンムイとの連なりとの間が大きく割れ、大溝(ウフンジュウ)と呼ばれるところがあった。そこから農道が泊後原に通じていた
「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」 p11(編集と抜粋)


参考:グダグダ(β) 白山療養園

大原区(寄宮)

真和志小学校北方一帯に存在した大原区です。
大原区は戦後計画的に入植されています。
大原区(寄宮)
大原区の発祥については、1946年8月軍政府から今後軍民那覇港を中心とする輸送計画を樹立し、陸運関係は那覇港に近いところに住居を持つように軍の首脳部から命ぜられたので、当時陸運課長であった宮城善正氏は候補地を天久と安謝に求めたがいかんせん飲料水に乏しいので水を頼って現在の地に来た。ここは旧真和志校の後方の岡で、大石毛という丘陵地のしたの原野地であったがブルトーザで切り開いて平地となしここに陸運関係の120戸の人達が住居を持つようになった。
(略)
大原という名称については居住者から募集したところ適当な名が無く、結局宮城氏が「石なぐの石の、大石なるまでん……」の歌からヒントを得て、大石原と考え、ついに大原と称えるようになった。この大原への移住は那覇近郊への解放の第一号で、その後。知念地区・石川地区・田井良地区より陸運関係の近親者や友人達が次々移動して現在の繁栄を来している。
真和志市誌 p274


田井良は田井等(タイラ/羽地)のことでしょうか。あと二つあげられている知念・石川も収容所のあった地域ですので田井等である可能性が高いと思われます。

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