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大石毛


真和志民俗地図による大石毛の位置図です。この大石は方言読みでウフイシですが、訛りによる変化でウフイシがウフシに変化したと思われます。
大原区(寄宮)から真和志市誌の記述を引用します。
大原区の発祥については、1946年8月軍政府から今後軍民那覇港を中心とする輸送計画を樹立し、陸運関係は那覇港に近いところに住居を持つように軍の首脳部から命ぜられたので、(略)現在の地に来た。ここは旧真和志校の後方の岡で、大石毛という丘陵地のしたの原野地であったがブルトーザで切り開いて平地となしここに陸運関係の120戸の人達が住居を持つようになった。
真和志市誌 p274



今回の大石毛がある大石原(オオイシバル)は真和志民俗地図による特定ですが、何故ウフシバルではなくオオイシバルであるのかというのはよくわかりません。真和志民俗地図では各原によみがながついていて宮城原にはナーグシクバルというよみがながついています。
今回真和志市誌の図を大本とする図と真和志民俗地図をよく見比べてみたのですが大石原と他の原との境界が異なっている箇所があるのに気がつきました。大石原と小又原、大石原と寄増原、寄増原・小又原・洗田原の三つが接する箇所も違っています。

自分のミスも多々あるとは思いますがそのへんもどうかご容赦願います。
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船増原(与儀)

船増原についてです。
与儀集落
与儀十字路の角には原が4つあり、それぞれ宮城原(与儀公園)、宇蘭原(那覇署)、西原(神原中側)、船増原(裁判所側)です。
現与儀小学校後方の与儀集落から国道330号を隔てたところです。

次の図は那覇市防災情報の図に加筆しました。

http://www.com-net.city.naha.okinawa.jp/ant/antinfo/dangerzone/dangerzone2.html
原図は7の「与儀市場一帯(与儀給油所裏側)」です。
浸水の起こりやすい場所を告知しているのですが図だとピンクで囲われた部分、与儀市場の国道側が該当地域です。自分は浸水危険区域は低地だと考えるのですがなぜここが低地なのかわかりませんでした。
ですがガーブーへの流れで書いたように、真和志民俗地図では与儀市場と平行するようにガーブーへ流れ込む水路がありました。

過去に存在した流れを正確に推定できてはいませんが、大体の位置は間違いないと思います。
那覇の古海岸線図から船増原周辺を見てみます。

ケーシンダーの位置が特定できていませんが、過去でも城岳から裁判所(刑務所跡)に至る一帯は水没したことはないと思われる高台ですから、古海岸線図にその辺りの高台を探してみると現在の船増原周辺を考えるのが楽になるかもしれません。
そう古くない昔でもガーブーが横断する与儀公園は湿地でしたし、船増原の浸水危険地帯の低地も過去には海の下だったかも(結論無し/オチ無し)。

城岳(真和志)

以前に書いたものをサルベージ。
以下は引用で、引用先を忘れてしまいましたがたぶん真和志市誌か南島風土記からの引用だと思います。
二つは冊封使の中国人の記録、一つは由来記による記録、最初の概要を述べた部分は書いた人によるものでしょう。

城嶽(ぐすくだけ) <靈嶽>

古へ、樹木鬱蒼として繁り、岳下に湧田の殿(とん)があり、又汪樋川がある。

那覇付近随一の霊所である。支那人修して、霊嶽と唱へ付近に貝塚があって有名である。この地が琉球島の地理のもっとも古い場所であることが貝塚発掘によつてわかると言はれてゐる。

汪楫録に、

霊嶽、城嶽と名づく、那覇港の東南に在り、山甚だしく高からず、樹木鬱蒼山頂に屋一区あり、扁して城嶽と曰ふ。貢船の船子の立つる所とす。壁間悉く建屋助工人の姓名を記すること略々中国に倣ふ。屋中一も祀る所なく、屋後地上に瓦爐を錯置し数十を以つて算す。或は一石を祀り、或は一樹を祀る。神の憑依するところなりと曰ふ。(屋前高松数百株、此処に坐すれば人をして暑さを忘れしむ云々)と叙してゐるところから見ても、城嶽が静粛な清遊の地であったと共に、又海上安泰を祈願する拝所でもあった。

徐葆光の傳信録に

汪使旧録に板屋一区あり、今已(すで)に盡く廃し、惟叢灌一林密篠蕉石を以つて神となし、酒を注ぎて福を祈る、渡海報賽の地となってゐる。

尚琉球国由来記に依れば

古波蔵之嶽「神名アヤフト御イベ」城嶽「神名アヤクヒヤ御イベ」の二嶽は一つの囲いの中にあつて、拝所であり、両方にある。東方は城嶽と云ひ、西方は古波蔵嶽と称す。そしてこの嶽は楚辺の大阿母の管掌であると見えている。


汪楫=清の冊封使、1683年に来琉
傳信録=中山伝信録、1719年に来琉した冊封使の徐葆光による記録
琉球国由来記=首里王府による初の琉球国の地誌 1713年成立

船乗りの拝所だったこと、拝む対象が樹や石だったこと(中国人には異様だったのでしょう)。

ガーブーへの流れ


与儀公園から開南に至る道の側を並走するガーブーとガーブーに流れ込む水路です。参照元は真和志民俗地図です。
Aは王樋川からガーブーへの流れ。一時はせせらぎ通りとして道路脇に常時水が流れていたくらいですからせせらぎ通り以前にも当然水の流れはあったはずです。表通りの裏側にそれっぽい感じの通りがありますが確認はしていません。
また書き込んだ流れの精度も大体こう示されているといった程度です。

Bは船増原から神原中学校を横切って流れ込む流れ。
この図の範囲は刑務所跡(現裁判所)が周囲で一番高い土地でガーブーが一番低い土地になっています。

この二つの流れは現在目にすることが出来ません(与儀はありました2010.03.03)。せせらぎ通りでは表に出ていましたが元々流れていた流れは溝か暗渠になっています。
しかし水の流れが土地の形に影響を与えるならこういったことがらも頭に留めておくとわかることがあると思うのです...

与儀(ユージ) 2

与儀の集落図です。
与儀集落
•与儀原
•船増原(フナマシバル)
•宇蘭原(ウランバル)
•与武門原(ユンジョウバル)
•後原(クシバル)
•西原(イリバル/船増原の上方、神原中・小の場所)


与儀タンクがあった場所以外は古い道や旧跡がほぼ残っていて、楚辺から下りてきた道の側には与儀馬場、集落の中心部のウタキ周辺には紫色で示した本家筋があります。引用します。
与儀の本家筋はナナムートゥとて七軒あって現在も同様に繁栄している。
 イー(ラキブチとも与儀巫殿内ともいって高安姓を名乗る)
 ウフ アガリ<宮城>
 ウフ イリ<城間>
 ウドゥンヤー<城間 大東[ウフアガリ]の分家>
 ウフンミ<大嶺>
 シリー<城間>
 シチャナーカ<島袋>
那覇市史資料編第二巻中の7、p499


その他周辺には道を渡った宮城原に宮城ウガン、道の側にトングヮー(糸満人拝所)があります。図の右側、国場勝良又原には日本軍与儀射撃場が寄宮国映通りと重なるように存在します。
射撃場側の「イバヤ」ですがなんであるのかわかりません。しかしその北に存在する橋は真和志民俗地図ではイバヤ橋と称されていて関連があると思われます。またこの橋はヒータイ橋(兵隊橋)とも呼ばれていたようです。

イバヤについて追記しました。→イバヤ橋
イバヤ=射場ヤのようです。

ケブン川原(識名)

キブンジャー川はケブン川原(ケブンジャーバル)に発する流れです。
キブンジャー
この安里川に合流する流れは真和志民俗地図ではクチャガーラグヮー、別の資料ではキブンジャー川(ケブンジャー)。そして源流付近一帯は真和志市誌の真和志市區劃図にある地名の原名(ハルナー)にはケブン川原とあります。

クチャガーラグヮーはクチャ川(ガーラ)小(グヮー)でしょう。そしてケブンジャーとキブンジャーの違いはおそらく表記や読みの揺れで、ジャーはガーラと同じように川の意ですからケブンジャー/キブンジャーのみでケブン川/キブン川のことになります。
ケブン川原はケブン川の源流であるケブンジャー樋のあるハルという意味でしょうか。
参考に原(ハル) 毛(モウ) トーから引用します。
カーとは井泉の義であるが、その音声から川の字が当てられ、河川にはカーラまた濁音になって○○ガーラ。カーラの変化した○○チャーラ、また濁って○○ ヂャーラと呼ばれるが、これは河川を原義とするものであろうが、これも川の字があてられていて字面だけでは井泉か河川かの判断はつかない。

流れは石田中学校後方のケブンジャー樋に端を発します(真和志民俗地図には記載されていますが正確な位置は確認していません)。
そして識名小学校南部を通過し大石公園後方で曲がり三原へ流れてゆきます。そのあとは露出していますしどこも道路から確認できるので明確です。

70年代の仲井真

70年代の仲井真です。
畑を緑、住宅をピンクで表記しました。表示範囲は国道を境にしてあります。
仲井真
これを見る限り仲井真も純農村ですね。
国場交差点付近の川が蛇行しているあたりには自動車修理工場や材木屋などの工場が集中しています。329号線沿いは大通り沿いらしく店舗が多いです。
壷屋の川の側あたりもそうですが川の側は鉄工所や製材所などが集中する傾向がありますね。

川が不自然に直線化している所は現在の改修された川筋と同じです。
また左下側の南風原との境付近の集落は仲井真ハイツと表記がありますので新興住宅街なのでしょう。

多和田原(銘苅)

真和志民俗地図から銘苅多和田原(タワタバル)です。
多和田原
民俗地図では多和田ノンドンチ(ヌンドゥンチ)となっている場所が多和田の嶽だと思われます。そのそばには多和田馬場もあったようです。

そして図中央を流れる銘苅川と呼ばれる流れですが、民俗地図では下流をタワタガーラ、現在の消防署付近で曲がるあたりを大湾ガーラと説明しています。現新都心銘苅庁舎付近は川の流れに沿って遺跡が多数あります。
図の下方側、流れの上流の薄いピンクで塗っている辺りを中心に集落があり、周辺の集落へ道が通じています。新都心の範囲では左上にピンクで示した安謝、図には書きませんでしたが旧泊浄水場上方の天久などが大きな集落です。新都心周辺には真嘉比、安里にも集落があり各集落の間を道がつないでいます。

那覇と浦添の境界になっている安謝川ですが民俗地図とは流れが異なる箇所がいくつかあります。図では道路などから元の流れを推定して緑で書き込みましたがそれでも民俗地図とは大分違っています。
民俗地図で特徴的な川のポイントが特定できれば各原の境界なども特定できるのですがなかなか厳しいです。

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