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勝良又原(国場)

松尾壺川
図は勝良又原の割当地です。これについては国場誌の引用で説明します。
※松尾と壺川の境界線は正確ではありません。

勝良又原(カツラマタ原、俗称カンダバタ)
 カツラマタはカツラが境界を意味する限(カジラ)で、又は又状の地形であるので、字与儀との字境にあることがわかるが、勝良は単なる当て字で意味はない。同じ方言といえるカジラマタは、カジラ又(名護市)、加次良俣(名護市、大宜味村)などがある。「球陽」には加津良真多原と当て字されている。
 戦後は割当地と称し、松尾、壺川、壷屋等の住民が、自分の地への居住がかなわず一時的な処置として、行政側の一方的な指導のもとに勝良又原に住居を構えた。土地の境界確認もないままに住宅が立ち並び、境界の確認混乱地域になり、現在に至っている(寄宮中の裏門向かい側付近)。
国場誌 p90 


国場の原(ハル)の図はこれ
そして勝良又原近くの地元地域への居住がかなわなかった住民の居住区域はこんな感じです。 
図の左上あたりにヒータイ橋(兵隊橋)と呼ばれた小さな橋がありますが、戦前は日本軍がこのあたりから現沖大にむけて銃を射つ訓練場でした(黒矢印方向)。この訓練場は寄宮国映通りと昔は呼ばれていた通りとほぼ重なります(ちなみにこの通りには寄宮国映と寄宮琉映の二軒の映画館がありました)。

昭和の終わり頃(?)寄宮中学校から与儀タンク跡にむけてバイパス道路が通りこのあたりの風通しがだいぶ良くなりました。今でもバイパスからこの辺りを見ると木造平屋が密集していますが、ところどころは空き地になっていたりもう住んでいないと思われる住宅もちらほら見えます。
このあたりももうしばらくしたら戦後の風景が消え去るのでしょう。
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真和志南部の解放順序

真和志地区南部の解放順序を図にしました。
真和志南部解放順序
国場川と接するところが埋立されていないので少し現在と異なっています。
オリジナルは「旧居住地の返還図(真和志村)」で那覇市史 p14からです。

旧那覇は壷屋が1945年11月、牧志が1946年5月(一部1951年)で残りの西側が1951年まで解放がなかったことを考えると真和志地区の大半は1948年までには解放されているのは早かったんですね。
この図以外の真和志北部西側では1947年に安謝、残りは1949年に解放されますが銘苅と天久は1951年に再接収にあってしまいます。現在の泊高校後方あたりは継続使用が続きました。

洗田原の暗渠

洗田原暗渠
寄宮十字路そばの川(ガーブ川源流)付近の暗渠です。
ガーブ川は宮城原を流れ、東西方向の222号を横断し南北方向の46号も横断して寄宮十字路の長田側を流れてゆきます。
ゼンリンの65年度版を参考にして作図しましたが当時は図に表示したすべてが露出していたと思われます(ピンク色の点は橋になっています)。現在は薄い色で表示した部分は暗渠化されていて、青で書いた部分も一部暗渠化されていますが正確な位置がわからなかったためこの図ではそのままにしてあります。

ガーブ川の始点はどこか、そこには湧水等があるのかということで源流を探ってみましたが、寄宮中学校側に急に曲がっていった先には特に樋川等の存在は確認できません。現在は普通の平坦な住宅街です。
以前に国場の原名を図にしたのですが、図の洗田原の右端から長田原に曲がってゆくような形になります。
国場の原名
国場誌によると長田原は「長い田のある原」という意味らしいですから探せないだけで湧水等があるのかもしれません。

三原/繁多川/松川の暗渠

源流があるかどうかで川かドブかが決まってしまうのかどうかはわかりませんが三原と繁多川にある暗渠です。
暗渠は薄い水色で川は青色で図示しています。

一番下はキブンジャー川が大石公園を出て暗渠化し再び地上に出るまでです。暗渠化されたあとは曲がりくねったまま道になって元川の雰囲気を残しています。
その上の細い暗渠は源流があるかどうかわかりませんがゼンリン地図73年度版によると何らかの流れがあったようです。流れが消えたからといって水が消えるわけもないので暗渠になっていると思われますが、道の形から推定すると道なりに流れていっていると思われます。
そして左上の松川小学校前にも暗渠があり、下っていくと練兵橋そばで川に合流します。この流れも松川小学校の前で水がわき出しているわけでもないので暗渠化された上流があるのでしょう。もしかしたら真ん中の流れが下っていって松川小学校のところに流れていっているのかもしれません。

図をすこし西北に移動してみると松川小学校前通りの暗渠が見えます。
松川暗渠


前に紹介したサイトを参考にしてみると付近には湧小という湧水があり、交番向かい奥には水入山という旧跡があったようです。
サイトの那覇市-総合学習には、湧小(ワクグヮー) 1丁目−3−21と書かれてていてその住所は図の赤いピンの位置になっています。
暗渠上方の水がキブンジャー川にながれているのか道路を横断して暗渠へ流れているのかはわかりません。また湧小の水が暗渠へ流れているのかどうかもわかりません。
サイトのハンタガーの説明を引用します。下線を引いた部分ですが復帰くらいまで簡易水道を利用している世帯もあり、終戦直後の大原区(寄宮)の土地選定理由の一つにも水の存在がありました。

ハンタガー
湧泉。村ガー。ボージガーと同じく前庭が広く、洗たく池もある。井戸口は金網が張られている。湧水量14.3m3/日。
那覇市歴史地図 文化遺産悉皆調査報告書 那覇市教育委員会

繁多川(井戸)那覇市繁多川にあり、ムラの起こりと密接にかかわりをもつ井泉です。昔のムラ作りは、「水」を頼りに形成され発展しており、ここ繁多川もまさしくその通りの
歴史を持っています。ここは市内で最も水に恵まれたムラで、「繁多川」という地名も、「水」にちなむ語義があります。今日使用している「繁多」は、もちろんあて字です。それは「端」の意味であり、すなわち「ハンタガ−」は「端の井泉」のことで、高い崖の近くの井泉ということになります。首里金城町に通ずる識名坂の頂上にある井泉の名称が、ムラの名称になったといわれています。繁多川にはこの井泉の他に、坊主井・大井戸があり、それによく知られた石田井戸もあります。これらの井泉は、いかなる早魃の時も渇水した事がなく、ムラ人の飲料水はもちろんのこと、農耕地をうるおし、その余剰水は簡易水道によって、当時の三原・大原・寄宮、または那覇市民にも利用されていました。
図説 郷土のくらしと文化 下巻
沖繩の井泉 繁多川

新橋/国場十字路

新橋(国場橋)の続きです。

国場誌よりp261の「戦前の字国場屋号図」、p114の「集落の名所遺跡地図」を参考に作成しました。

新橋(国場橋)
国道329号線から国場児童館の前を通っていったところにコンクリートのアーチ造りの橋が架かっていた。それは南部方面への旧道であった。
現在の国場十字路は戦後できたもので、元の道は南部から来ると新橋を渡り国場児童館の前を通って国道329号線と交差し稲福の前を通って県道46号線に至る。これが旧国場十字路である。
国場誌 p86


新橋(国場橋)で書いた図の児童館の位置(赤点)は今回の図のクムイ(小堀)とほぼ同じです。
引用した文の国場児童館の前を通ってというところで間違ったのですが、正確には現在の児童館の前の通りの裏側を回り込むように川沿いに迂回して329号線ぞいに至るといった感じです。
(追記 10.11.15)真和志民俗地図ではクムイの前を通り新橋を渡る道が書かれていますが329号から仲毛ウリグチーに向かう道は川に突き当たった所でその先は書かれていません。線路を横切る道筋はクムイ裏の道しかありませんが、すなおにクムイ前の道が329号を横断していると考えて戦前の国場十字路とするのが適当な気がしてきました。(追記終了)

現時点でも不明なのは新橋の位置で、橋が現在の川の国場側なのか南部側なのかというのははっきりわかりません。ちなみに橋の遺構が川の側に残されているそうなのではっきりわかったら追記したいと思います。

川の側に青い点で表示した仲毛ウリグチー(ナカモウウリグチ/下り口)と新橋ヌ前(シンバシヌメー)は船着き場(船ヌ着)です。船が入れる川幅があったということですね。
図の左側、瓦屋原の向かい当たりには馬場、その隣には国場駅がありました。

新橋(国場橋)


国場誌より引用します。

新橋(国場橋)
国道329号線から国場児童館の前を通っていったところにコンクリートのアーチ造りの橋が架かっていた。それは南部方面への旧道であった。
現在の国場十字路は戦後できたもので、元の道は南部から来ると新橋を渡り国場児童館の前を通って国道329号線と交差し稲福の前を通って県道46号線に至る。これが旧国場十字路である。
国場誌 p86


国場児童館図を赤い点で示してあります。旧道を南部から北上すると国場児童館の前を通って329号線と交差して県道46号線にでてくるようです。
ちなみに現在の国場交差点の道路の那覇側が県道46号線(安里から国場)で、国場交差点から南部へ向かう道が国道507号(旧琉球政府道46号線)、那覇与那原間は言わずと知れた国道329号線で元政府道44号線です。

新橋(国場橋)なのですが場所がわかりません...
上引用した国場誌の記述は戦前の国場十字路の場所のことで、図の参考にした真和志市誌の図は少なくとも1957年以前の状態を表しているでしょう(57年合併)。いま手持ちでは真和志地区の戦前の状態を参照できる地図がありません。那覇市民俗地図は旧那覇の範囲で作られています。
とりあえず今回は戦前の十字路の位置がわかっただけで良しとします...
追記訂正しました。

国場の原名

昔の国場の範囲と原名の図を作成してみました。

真玉橋の対岸の瓦屋原が切れてしまいました... あと画像右下の仲井真周辺は旧川筋を推定して書き込んでみました。現在の地図でもよく見ると川だった名残があります。

※訂正があります(10/10/16追記)。国場十字路周辺の境界(溝原と仲井真)ですが、旧川筋と国道507号(旧琉球政府道46号線)の交差するところに橋がありそのあたりが境目になっていたようです。上の図では溝原が東側にふくらみすぎることとなります。それと南側境界線も一部間違っていたようです。
訂正した図と追補もしてあります。(10/10/18訂正済み)


国場の原(ハル)は以下の10箇所です。
  •寄増原(ユシマス原)
  •洗田原(アレーラ原)
  •長田原
  •勝良殿又原(カツラマタ原、俗称カンダバタ)
  •溝原(ンズ原)
  •国場原
  •垣新原(ガチェーラ原)
  •瓦屋原(カラヤー原)
  •後原(クシバル、ウィーバル)
  •前原(メーバル、別名アタンジャ)


出典は国場誌です。
現在も変わらない箇所にある国場集落とその後背部の後原、前方の前原というのは命名がわかりやすいですね。瓦屋原あたりは瓦を作っていましたが戦後の与儀タンクと近年の造成で地形は大きく変化してしまっています。
今回説明していない原名(ハルナー)については次にしたいと思います。

寄増原・洗田原・宮城原 2(寄宮 3)

寄増原・洗田原・宮城原(寄宮 2)の続編というか追補です。出典は国場誌。

寄増原(ユシマス原)
地名の由来はマシ(増)が古くは、升でモミや米をはかるところから、転じて田の面積をいうようになり、田の代用語としても使われていた。
寄増原は「球陽」には世伊真世原と表記されている。
国場誌(p 90)より部分引用


洗田原(アレーラ原)
現在では住宅地に代わり昔の面影はない。アレー(荒れたところ)ラ(地の意)ではないだろうか。洗田原は当て字であろう。
国場誌(p 89)より部分引用


国場誌は近年発行なだけあってよく整理されていて資料としても面白いものでした。

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