忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

瓦屋

沖縄地名考より順番を少し変えて引用。

与那覇堂は、真和志村字松川の小字である。いにしえの与那覇堂村の名残りで今なお瓦を算出し、瓦屋と称している。
真和志村字国場の小字に瓦屋原がある。「旧記」の伝える処によれば、瓦の製造を始めたのは支那人で、国場村にいて一女を娶り、真玉橋の東に陶舎を建て、瓦器を製造したという事である。
---
瓦屋は城岳の東なる湧田楚辺原にあり、カラヤーと称している。焼瓦職の多きをもって名付けられ、現今那覇□□町に属する小字である。

(沖縄地名考/宮城真治 p116,117)

昭和一桁の頃に書かれた本です。
湧田は現在の県庁付近。
PR

寄宮国映通り

前から謎だった寄宮国映通りですが名前の元になった寄宮国映の建物が残っていることを知りました。
この通りは元日本軍与儀射撃場(参照:真和志民俗地図)です。
参考:グダグダ(β) イバヤ橋
国映

ストリートビューで見る国映跡の建物外観はこんな感じ。

元寄宮国映:google ストリートビュー

googleで地図検索するとこの通りに案内されますが寄宮国映通りというのは現在あまり使われる名称ではないようです。年配の方ならわかる名称なんでしょうか。
地図では塾になっていて、ストリートビューで建物の外観を見ると確かに映画館の作りをしているけどもいつ頃まで映画館として存在していたのかはわかりません。
最近盛んに検証されている沖縄映画史の本を探せばでてくるとは思いますが...

天久の地縁 2

天久の地縁の続き。

>この時平野区は寄宮に移住した。
>これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。


これを巡って那覇市のサイトから。

自治会情報一覧 -真和志地区- | 自治会情報 | 那覇市
http://www.city.naha.okinawa.jp/jitikai/annai_mawasi.htm#M56

・銘苅区自治会 寄宮1丁目の一部(8〜10、13〜15)
・平野区自治会 寄宮1丁目の一部(4〜7、17〜22番地)

寄宮に他の地域の自治会が存在するってのも妙ですがこういう事情ということで。

上之屋

天久から分離独立したのが大正九年であったがいわゆる屋取部落とは内容的に違っている地域である。それが、那覇と中頭、国頭地方をつなぐ乗り合い馬車の駐車場が置かれてから、与那原や北谷方面からの移住者があり、また泊方面から自然膨張的に上之屋区域に移り住むようになって(真和志)北部の一拠点的存在となった。
(那覇市史資料編第二巻中の7、p39)


交通の要所となり人口増となった地域ってとこでしょうか。

宿次のルート

やんばる国道物語 - 王府時代の道(15世紀〜1879年):やんばるロードネット_北部国道事務所
島尻方真和志宿 (しまじりほうまわしのじゅく)
真和志 ( まわし )
豊見城 ( とみぐすく )
小禄 ( おろく )
兼城 ( かねぐすく )
高嶺 ( たかみね )
真壁 ( まかべ )
喜屋武 ( きゃん )
摩文仁 ( まぶに ) の各間切
南部の西側をめぐって 摩文仁 ( まぶに )に至ります。

天久の地縁

泊の北側にあった天久部落は米軍による土地接収で移住を余儀なくされています。

部落は米軍の土地接収にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。 
この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。
東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
昭和十四、五年頃まで馬手間があり、他部落のものと結婚すると罰金として十円を納める旧制度の部落外婚を規制した馬手間の名残があった。
那覇市史資料編第二巻中の7 p50


旧来の部落の周辺に屋取と呼ばれる寄留民集落がありました。
馬手間とは下記のような制度です。

馬手間 (うまでま/ンマディマ)沖縄本島でおこなわれた婚姻風習の一つ。馬酒、馬乗り酒ともいう。娘の村(現行の字)外への流出を防ぐためにとられた罰金制度で、損害の婿方から嫁方の村へ負担過重なほどの罰金を納めさせた。北部の村では、婿方が罰金を納めなければ、夜に女方へ通ってくる婿を捕えて木馬(疑 馬)に乗せ、村の拝所や共同井戸を拝ませたうえ村中を引きずり回し、ひどい婿いじめをした。それを免れるために酒や金品を送ったことから、馬手間の名が 生まれた。 この慣行は宮古・八重山には無く地割り制度のあった本島にしかない。 地割り制度の元では税の負担は村(字)単位だったから、一人の娘が村外 に嫁ぐとなれば、当然労働力が減ることになる。その対価として馬手間を求める慣行が生じたものと思われる。

寄宮

那覇市の字、旧真和志市に属する。1946年(S21)、字与儀宮城原(あざよぎみやぎばる)、字国場寄増原(あざこくばよせましばる)、洗田原(あらいたばる)の3小字で成立。寄増原の<寄>、宮城原の<宮>をとり寄宮とした。

元農業試験場跡地(1961年首里に移転)に知事校舎、与儀公園、市民会館 etcがある。人口が増大してからの地名ですがこの地名が昭和21年に成立したというのも事情を物語っています。
wikipediaの那覇市から抜粋します。

1945年(昭和20年): 太平洋戦争での空襲および陸上戦(沖縄戦)により街が壊滅。首里城も破壊された。米軍の全面占領下となり、立入禁止に。 
1945年(昭和20年)11月: 産業復興を名目として陶器製造産業先遺隊が壺屋へ入る。 
1946年(昭和21年)1月3日: 糸満地区管内壺屋区役所が設置され、復興が本格化。その後、民政府などの中央機関が那覇へ移転。 
1949年(昭和24年)12月9日: 米軍政官が「那覇を沖縄の首都とする」と発表。

こんな経緯ですから住居を求めての那覇市内の急激な人口増がわかるかと思います。無計画な居住開始ですから道が入り組んでて古い家が多く迷路のようです。
地図を見てみると 寄増原---真和志小学校の後ろのあたり、宮城原---寄宮2丁目付近、洗田原---寄宮十字路の国場側付近 です。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]