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古島 2

古島の続きのようなもんです。
古島は大正9年に真嘉比から分離した。三つのヤードゥイから成り立つ。
•宇久増ヤードゥイ(興南高校付近の十軒)
•渡比屋ヤードゥイ(松嶋中学校付近の約十七軒)
•古島小ヤードゥイ(マカン道付近の俗称マカンジャーラ一帯の約二十軒)
那覇市史資料編第二巻中の7、p50


首里系の屋取部落です。那覇市史の別箇所から引用。
真嘉比川沿いの俗称古島小(フルジマグヮー)、渡比屋[ハルガン](トーヒャー)、宇久増(ウクマシ)の三つの小字で6、70戸位で本字真嘉比から大正9年分離独立した屋取り部落であり、明治中期まで首里の御殿、殿内の別荘のようなもの(屋取)があった。
殆どが首里から流れ落ちてきたいわゆる「廃藩のサムライ」たちの作り上げた純粋の農業部落であったが、第一世代のタンメー達は十八史略など朗々と読み上げたりで農耕は「ヒャクソー」のやるものくらいに考えていた。
ハルガン(原神)の拝所は旧真嘉比字(古島も含む)の崇敬の霊地として拝み続けられている。
那覇市史資料編第二巻中の7、p39

古島

東原が渡比屋(トゥーヒャー)です。マカンミチを境にした川側がフルジマグヮー、松島小学校がハルガン毛(ハルガンウタキ)です。
古島と首里末吉はほぼ現在の環状二号を境界にしますが、古島インター近くで末吉川まで飛び出るような形になり、そこでは浦添と接します(ピンクで図示)。
ゼンリン地図などで確認しても昭和のこの辺にはほとんど何もありません。目印もなく特徴もない土地にぽつぽつと家畜小屋や人家があるだけです。

追記:マカン道(西側)
追記:マカン道(北)
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仲井真原・前原(仲井真)

仲井真原
仲井真原と前原です。
仲井真原は東に国場溝原、北に上間底田原原、西に上間山川原と接しています。前原は仲井真原の南で昔の川の流れを境界にして上間の長崎原などと接しています。
図では仲井真原と前原の境界はピンクで示しています。
図は真和志民俗地図と「戦前の字仲井真民俗地図」を参考にしています。集落内の畑や拝所などの分布は後者の地図を主に使っています。

図で緑に着色されている箇所は畑、赤が拝所関係、青が井戸で大きめの青い場所はクムイ(小堀)です。
集落上方のアシンミ毛にはアシンミ御嶽があります。ちなみにアシンミは安次嶺(あしみね)です。
仲井真原も古くからの集落の形を残しています。中心部はそのままで周辺の畑だったあたりが宅地化したくらいでしょうか。前原との境界線の道がメーミチ、直角に交差し集落を南北に走る道がナカミチです。

国場川そば前原の329号線(与那原街道と川に挟まれて道路で区切られた部分、国場十字路の角付近の俗称は古島原と呼んだようです)。川そばの前原はすべて畑で道路沿いにサーターヤーが二軒存在します。

大洋劇場周辺


図は農連市場そばあたりにあった神里原の大洋劇場周辺で、参考にしたのは真和志民俗地図、ゼンリン地図、昭和26年の那覇図です。
まずこの図を図1としたいのですがこの図には真和志民俗地図に存在する道を書き込み、ゼンリン地図から大洋劇場を書き込みました。
大洋劇場
そして図2は大洋劇場の周辺をさらにアップにしました。
図2はさらに図1に昭和26年で存在する道筋を書き込み、赤で昭和26年当時の住所の区分けを(かなりいいかげんに)書入れてあります。那覇劇場も書入れてありますがこれはゼンリン地図を参考にしました。強調してあるラインは壷屋(那覇)との境目です。
図1、2とも大洋劇場から開南バス停まで通じるバイパス道路が開通する前の図ですが図1はバイパス道路を消さずに残してあります。開通時期は確認していないのですが60年代に入ってからの開通だったという記録を読んだ覚えがあります。

後年サンライズ那覇から農連市場までの地帯はバイパス道路によって分断されました。分断の遥か前である昭和26年ではサンライズから伸びる道路により二つに分割、さらに垂直に分割されて碁盤目のような区分けになっています。
大洋劇場そばから丸国マーケットまでは道路に沿って三分割されていて、両方のケースともに区分けは現在の土地利用とは違っています。

そして昭和26年のこの一帯は神里原の最盛期です。
地図には書入れませんでしたが大洋劇場の斜め向かいには山形屋が存在していました。

参考:経済の背景(2)
戦前の1922年に開業した山形屋呉服店沖縄支店が始まり。その後、沖縄戦を経て、1950年に元社員により当時の中心地であった那覇市神原に移転。1955年には国際通り沿いに移転した。
沖縄山形屋 - Wikipedia

樋川原・神里原

樋川原・神里原
開南周辺の樋川原(ヒガワバル)と神里原(カンザトバル)です。黒で境界を示していますが怪しい所は灰色の破線にしてあります。
参考にしたのはゼンリン地図と真和志民俗地図です。

まず神里坂(カンザトビラ)がよくわかりません。
裁判所から仏壇通りまで下り、そこから斜めに曲がってガーブーに突き当たる道筋になっています。民俗地図ではBのほうが近い道筋です。
自分はBっぽいなと思うんですがよくわかりません。><
現サンライズ那覇(新栄通り)から上がって来る道筋は開南バス停の後ろ側を通り樋川原と神里原の境界の道に繋がっていたと考える方が自然です。

それと樋川原を横切りガーブーに合流する流れですが大体の位置を書いてみました。
裏道と同じような形をしてますのであそこに溝か暗渠があると考えてよいかと思います。

神里原の右側上方の壷屋との境界が解らない部分のすぐ側には下ヌカーという井戸がありこの場所が特定できればハッキリすると思います。そして現在スージまで見られる地図がないので確認できないのですが境界線もスージ沿いになっている気がします。

真和志民俗地図は昭和初年頃を想定して作られているそうなのですが、樋川原と神里原で字樋川を作っています。北側は現松尾公園周辺の字松尾、西側は字二中前、南は字与儀の西原と船増原と字楚辺の真地原、東側の壷屋町は那覇です。
旧真和志村は通常○○町○○原と呼ばれるような○○町の部分を字○○として単位にしています。これも変化があって簡単には言い難いのですが、大道や松川のように現在使われている地名はほぼ字○○としてあります。

イバヤ橋

与儀集落
与儀(ユージ) 2
>射撃場側の「イバヤ」ですがなんであるのかわかりません。
>しかしその北に存在する橋は真和志民俗地図ではイバヤ橋と称されていて関連があると思われます。
>またこの橋はヒータイ橋(兵隊橋)とも呼ばれていたようです。

と書いたのですが少し関係のあるような(?)記述があったので引用してご紹介。

その旧番所からの村道を列挙すると、
(1) 那覇に通ずる中央線道路は、番所から真和志尋常小学校前を通り与儀射的場、振興橋(別名射場[イバ]ヤ橋)を渡って与儀試験場用地を横切って神里坂(カンザトビラ)を上り、汪樋川、城岳、泉崎を経て泉崎へ至る。神里坂は高い場所で見晴らしがよく一休みする所で有名だった。
上間誌 p48


日本軍与儀射撃場は射的場とも書かれていることがあります。振興橋は真和志民俗地図では大石原の北部に存在するクチャガーラグヮーにかかる橋として示され、射撃場を横切る橋はイバヤ橋と書かれています。
一番上の与儀集落の図では与儀射撃場の外形を大分はしょって書いていて、じっさいは黒く塗ったイバヤのようなくっついた小さな四角形が左右にいくつかあります。射撃場に俗名のイバヤ(射場ヤ)を付記していたのを一番近い四角につけられた名称だと自分が勘違いしていたと思われます。多分イバヤは「射場屋」でしょう。
話が逸れたのですが、上間の番所から坂を下り、寄宮十字路の真和志小前を通ってから大石原に回り開南の神里坂を上るという道筋は不自然です。図は神里坂までを書き込みました。

図の上にあるのが民俗地図での振興橋です。

神里坂(カンザトビラ)のビラですが、
傾斜道を指すに、サカ地名は皆無で、坂道にはヒラ地名が付与されている。
坂道を下から見るのがヒラで、上からはサカと呼ばれる。

原(ハル) 毛(モウ) トー引用したようにサカ/ヒラのヒラの変化したビラです。
ちなみに神里坂から汪樋川周辺の小さな一帯が樋川原(ヒガワバル)、その右手の一帯が神里原(カンザトバル)です。

山川原(上間)

山川原(国場)
上間山川原です。
左となりは仲井真で、山川原との境目がずっと解りませんでしたが上間誌を参考にしてやっとわかりました。上方の当り原とはクワディーサバンタの崖で区切られ、全体的には当り原から国場川に至る傾斜面にあります。

山川原・淵下原・東原・矢旗原(上間)

矢旗原(上間)

上間の最東端にある矢旗原、現在の南風原高校付近です。
矢旗原
参考にした図は上間誌770ページの終戦直後の土地測量図です。このページには各原別に土地区画が記載されていて「上間の原別図(1949年〜1651年実測)」とも書かれています。

矢旗原の南部の境界線は南風原村との村境になっています。それ以外の境目は川を境目としているのでハッキリしています。現在の上間交差点の道筋は存在せず、現在のホンダ後方に斜めに橋がかかっています。そして現在の329号あたりは鉄道が走っています。
鉄道に関しては下のページなどが参考になります。

与那原線の今 http://www.geocities.jp/kikuuj/zatugaku/keibin/yonabarusen1.htm

鉄道のざっとした図。
戦前鉄道

上間(当り原)

上間(当り原)
少し前に発行された上間誌の「昭和初期の上間本部落民俗地図」を参考にして作成しました。

上間は古い集落ですが驚くことに集落内の道筋がほとんど変化していません。
また拝所もほとんど残っていますし周囲の地形もあまり変化していません。村クムイも水をたたえています。
「上間集落=当り原」といっていいくらいで範囲は拝所がある外周を囲んだくらい、そして上の識名原に高台が続く以外は周囲の淵下原や山川原は急坂やハンタ(崖)で区切られれています。
真和志小学校から登って来る坂が180度のターンをする場所の突き当たりが番所跡です。
番所と役所の移動について国場誌から引用します。

上間村の入り口(字上間一番地)に古風豊かな建物があった。これが真和志間切の行政を司る番所である。番所はバンジョと読み方言ではバンジュと響き、通例所在地の村名を以て呼ばれていた。 p95

真和志小学校は明治13年3月、上間番所の下知役詰所で開校した。 p103

間切時代から上間村一番地にあった当時の役場庁舎は、古色蒼然、腐朽甚だしく何らかの地頭代時代に建ってから二百年を経過するといわれた時代物である。しかも古波蔵から一里、安謝村から一里半、真和志の南の端の誠に地の利を得ない丘の上にあった。道路も未完成で小さな農道を山越え川越えして大変不便であった。
(略)
大正15年現在の真和志支所の地に約80坪のペンキ塗り瀟酒な庁舎を建て移転した。 p121
※引用元はすべて国場誌


最後の121ページの引用は国場誌も他の文章から引用していますが字誌の編集者が不便だとか地の利を得ないとか書けないですからね(笑)。
上間誌は上間・具志堅問題(笑)やシイマのウタキ、あと安謝名子とかにも言及していますが結論は出ないでしょうね。
参考:地名  併称 沖縄 - Google 検索
厚手のでかい本で読みやすくわかりやすいあたりに歴史を伝えなければという熱意が感じられました。面白い話も拾えたのでおいおい書いていきたいと思います。

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