忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

フェーヤチガマ・ウェンジュン毛

フェーヤチガマが灰焼き釜ではないかと書いたのですがビンゴでした。
フェーヤチガマ
「戦前の字上之屋民俗地図」には天久の寺の横あたりに<フェーヤチガマ(5〜6コ)>とあるんですがその横に石灰工場地帯と書かれているのを見落していました。><  図では赤にフと書いてあります。

泊・上之屋あたりは集落のど真ん中を58号線が通ったせいもあって具体的な場所がわからないことも多いのですがいくつかの地図をつきあわせるしかありません。天久も跡形もないせいもあって正確な場所がわかりづらいです。
調べようとするとまず那覇民俗地図と真和志民俗地図は同じ那覇市が制作したものなのに泊と上之屋の境界線が違います(わりと正確なイメージ図という感じ)。
「那覇市明細地図」(65年)というのがあり、これは地番入り、天久誌の「昭和10年頃の天久村の民俗地図」も部落の様子に加えて地番が入っています(!)。これらと上之屋民俗地図をつきあわせてこの地図の分くらいまでなんとか特定が出来ました。とはいえいい加減なもんなんですが...

洋順毛でグダグダ書いたわりにはっきり特定できなかったのですが上之屋民俗地図と那覇市明細地図の突き合わせで泊高校北側だとわかりました。
図での道は茶色で表していて現在存在しないところは半透明にしてあります。跡形もない道なんですが割と上之屋民俗地図が正確だったのでほぼ間違いないと思います。これに関しては那覇市の両民俗地図があまりあてにできなかったのでこれに振り回された感じですね...

那覇市の図もこの図に近いのですが現代の図の上にそのまま書くことは出来ません。
PR

フェーヤチガマ

泊の病院北、真和志字上之屋の西寺原にあったフェーヤチガマです。
フェーは灰ですからフェーヤチは灰焼きではないでしょうか。

詳細はわからないのですが参考にした真和志民俗地図では史跡・旧跡・拝所のマークがついています。さらにその北にはフェーリンというところが同じマークで記されています。
また上之屋民俗地図ではフェーリンはフルフェーリン、フェーヤチガマには括弧されて「5〜6コ」と記載されています。拝所や旧跡が5、6コあるというのは考えにくいので灰焼き窯というのは考えられるのではないかと思います。

沖縄ではテーブルサンゴを焼いて石灰を作り、それを使って漆喰(ムチ)を作りました。那覇市内では牧志のはずれの島小(シマグヮー)にムチヤーがあったのが確認できています。那覇市史では「石灰窯は昔は壷屋にあったので生石灰のことを壷屋の灰(チブヤヌフェー)と石灰(イシベー)という」という風に書かれています。

【追記】「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」の14ページには聖現寺の横に「石灰工場」「ヘーフチャー」という説明のついた図があります。

私が現在の那覇中学校の地点に会った那覇市立商業学校(旧制)へ、首里から約一時間くらいを要して、徒歩で通学していたころは崇元寺橋(安里橋)を渡って、牧志の一角に入ると、そのあたりは瓦屋(カラヤー)らしく、民家の軒下には、板のように薄いウミイサー(珊瑚石)だのムチ(しっくい)に混入する切り刻んだわら等が、こんもりと積み上げてあって、一種独特なその蒸れる匂いが、むんむんと鼻をついてきたものだが、大体この辺からは、昔、浮き道、あるいは長虹堤といって海中道路の形をなしていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973


参考:グダグダ(β) ムチ/漆喰

那覇・浦添境界

真和志の最北部は浦添と接しています。現在のパイプライン(鉄路跡)と330号線付近の境界線を見てみます。

基本的に安謝川が境界線となっているのですが、パイプライン沿いに一部川を越えて那覇市である箇所があります。パイプラインの西側の銘苅赤田原(アカタバル)、パイプラインより東側の古島宇久増原です。古島宇久増原はパイプライン右側から興南高校付近までの地域です。
ややこしいのは字銘苅にも宇久増原があり、銘苅の宇久増原は内間から安謝川を橋で渡りまっすぐすすむ道を多和田原との境界にしています。
※この図は内間誌と真和志民俗地図を参考にしましたが正確な図にはなりませんでした。

気を取り直して那覇側の多和田原。

内間誌p21の図を参考にすると安謝川の改修以前はこの図のように流れていたと思われます。「マルグムヤー」はクムイ(小堀)、イリガーラーはわかりませんが川の途中に水がたまる箇所が二箇所あったようです。現在の流れはこの二点をつなぐように直線的に流れています。
西原・大嶺境界は字内間の原(ハル)の境目です。

仏壇通り

普通に生活の中で使われている呼び名でも正式名称でなかったりするものがあります。通り会がきめたからだれもがそう呼んでくれるってわけでもないのですけどね...
通り会も存在せず正式名称でもないのに名は体を表している名作通り名(笑)に仏壇通りがあります。
図の開南バス停から与儀十字路までの区間です(ピンク)。
仏壇通り

一昔前まで郊外から那覇への買い物等は現在と比較にならないほどバスが使われており、中心的なバス停が開南と牧志でした。
開南には交番もあり行く先案内人までいました。

開南は地名でもなく現在は存在しない開南中学校がもとになっています。開南中学校は戦争で崩壊してしまいました。
開南派出所があったころに開南から農連市場へのバイパス道路が開通します(60年代)。このバイパス開通は神里原のヤミ市がおさまり衰退がおきてからの工事です。

現在の裁判所の位置には刑務所、その隣には戦前開南中学校がありました。
この刑務所には瀬長亀次郎も収監されており、当時のニュース写真等で周辺をみることができます。また刑務所角には瀬長一家がお店をやっていました。奥様の瀬長フミさんは後年那覇市議になります。

神原小・中から与儀公園にかけては農業(農事)試験場でしたが戦後の土地住宅不足を考慮して用途変更されました。戦前を想定して作られた那覇民俗地図では試験場から開南にかけては史跡・住居・道路もほぼ存在しない地域になっています。

マカン道(北)

那覇・真和志を縄張りとする当方としては範囲外ですが、儀保十字路から松島中学校までの道についても補足しておきます。マカン道(西側)の続きです。
正確には儀保十字路から病院に入る手前まではマカン道ではないらしいのですが、繋がってる道でもあるし、首里からマカン道に向けて進む際に必ず通る道ですので取り上げます。
マカン道北

1956年発行の「真和志市誌」の道路の沿革の項に「首里・真和志間の道路」の道筋が書かれている。その一つとして次のルートがあった。
首里、儀保ー宝口(真嘉比、古島)ー東原ー前原ー安里後原ー神無良川原ー崇元寺に至る
首里から真和志への一つのルートは首里儀保からマカン道を通るものであった。マカン道は環状二号線を儀保十字路から西に下ると切り通しにかかり、それを過ぎたあたりから始まっていたという。儀保辺りの古老はその一帯の道を含めて「タカラグチャー」と呼んでいたと話しておられた。
(略)
環状二号線を儀保の十字路から西の辺へ下り100メートルほどもゆくと、左手の方(南)に道がついている。川沿いに細い道を川の流れに沿って行くと石畳の敷かれた坂になりその下りきったところが宝口樋川といわれているところである。樋川を過ぎて50メートルほどもゆくと環状二号線に上る。その一帯を宝口と言っている。
宝口の辺りは切り通しとなって環状二号線が伸びている。左手に坂道が伸びてゆくが上り詰めた右手には名渡山工芸館がありその先は行き止まりとなっている。この古い道は現在の道より8メートルほども高い場所があった。

那覇市立病院の東沿いに南の方に伸びる道は拡張され、道沿いには宅地が造成されている。病院の南側の丘陵地には松島中学校がある。学校を過ぎて100メートルほども進むと北東から西へのびる道と交わる。その地点までは現在の道とマカン道は重なっていたことは確かだが、道が拡張されているためマカン道の確かな位置はわからない状況にある。
北東(左)の方に下ると、古島の集落があり、古い地図に「古真壁」と書かれている場所である。
沖縄県歴史の道調査報告書〈4〉 p126-p129(要約編集)


報告とは違うのですが「古真壁」を書き込みました。
北東(左)の方に下ると古島の集落があり古い地図に「古真壁」と書かれている場所である。
図は北が真上で右が東、左が西です。儀保から下ってきて病院の角を曲がり中学校を過ぎて交差する道を左折なら北ではないので誤植ではないかと思われます。地形的にもこの図の範囲で一番低いのは川なので下るという表現も条件に合います。

名渡山工芸館のある場所は環状二号線からかなり高くなっています。環状二号線のそのあたりは崖のようで大規模な切り通しにより道を造成したと思われます。ちょうど消防署の辺りになります。
ポインタは工芸館、太線が切り通しと思われる区間、消防署は工芸館のほぼ向かいです。
ストリートビュー 名渡山工芸館

糸満屋(安謝)

安謝義理地原の海端には糸満人の小さな集落があったようです。

昭和初期に入ると崎樋川の北方、安謝ギリチ原付近に糸満漁夫が崎樋川の海にあったイナン干瀬の漁場を狙って3、4軒の集落が形成され「糸満屋敷」と呼ばれていた。
天久誌 p91

安謝川河口寄りの海岸近くには、糸満あたりの漁師が4、5軒の家を建てて(糸満屋)住んでいた。夏場には、アギヤーと呼ばれる漁師たちが30〜40人ほどやってきて、安謝集落にウミガネー(海の使用料)を支払い漁をしていた。期間中、彼らはここに家を借りて滞在した。捕って来た魚は当地でも売るので、売る人、飼う人で地域は賑わった。また、家賃は現金ではなくとってきた魚で物納されていた。家主は、その魚を売りさばき現金に換えたという。
安謝誌 p30


義理地原は安謝の端の方。ちょうど図の「A」の字がある辺りが糸満屋敷だったようです。
埋立以前は左側は海です。
安謝の原名(西側)
米軍撮影の浦添から見た安謝。
写真の右側辺りに住んでいたんでしょう。


イナン干瀬は伊奈武瀬と表記されている礁です。現在は埋め立てられています。
那覇の古海岸線
糸満漁夫と垣花漁夫の採る魚種の違いなども面白いんですが別の機会に。

マカン道(西側)

シュガーローフ

米軍の地図にマカン道があったので書き込んでみました(紫)。色の薄い箇所は真和志民俗地図とは違う道筋、破線が民俗地図での道筋です。
シュガーローフ(安里五二高地)は現在安里配水池公園になっています。
シュガーローフの戦い - Wikipedia
シュガーローフの戦闘  (日本軍名称 安里52高地の戦闘)
シュガーローフは慶良間チージのことです。

マカン道は儀保の辺りから古島の松島中学校後方を通り、真嘉比、慶良間チージ横、安里と繋がっています。
沖縄県歴史の道調査報告書〈4〉にマカン道についての項目がありますが、ここでは古島から西側の道筋について引用したいと思います。
残りの道はマカン道(北)で追記しました(2010.12.10)。

「古真壁」(古島)への交差点から真嘉比への道は、マカン道の跡であり、道幅も三メートルから四メートルあり、マカン道の面影を残している道筋である。道筋に沿って住宅が散見するが、道沿いはほとんどが原野であり、樹木の影に墓が点在している。

県立博物館所蔵の「琉球那覇港及び首里間之図」によると、マカン道は「ケラマ盛」と「葛川盛」(カンタカワモリ)の間を通っていたことになる。(略)水タンクのおかれているところが地図にある「ケラマ盛」であり、安里の人々が「ケラマチヂ」と呼んでいる場所である。

崇元寺石門の南東に又吉道路に面してサンプラザホテルがある。その建物の南東に接して幅四メートル足らずの道が北東北にのびている。現に使用されているこの道がマカン道の跡である。三メートルほどの道幅のことろが多い。戦前のマカン道もその程度の道幅であったという。
沖縄県歴史の道調査報告書〈4〉 p126-p129(要約編集)


崇元寺のほぼ並びにあるホテルの脇がマカン道の安里側入り口だったということですね。自分はもう一つ先の道かと思っていました。

マカン道は神無良川原(カンラガワバル)を通ります。それにからんで調査書はこう述べています。
道をのぼりつめた辺が神無良川原であり、「カンタカワモリ」はその一帯の一番高い場所に付けられた呼び名であったものと理解している。
「葛川盛/カンタカワモリ」はチャーリーヒルのことで現在のDFSあたりでしょう。

この報告書の記述は基地の金網があった頃のものなので金網までどういうふうに繋がっているかという風に書かれています。しかし現在基地の金網は無いですから金網の存在も想像するしかありません。
そして基地の中の道跡は確定が難しいだろうとも書いています。
神無良川原についてはよくわからんことがあるのですが又別の機会に考えます。

ナーチュー毛

ナーチュー毛・名護毛(安謝)の続きです。
この図は天久の海岸からナーチュー毛に向けて東西を横断した図になります。


オリジナルの図は天久誌で国土地理院の1971年測量の図を基に制作されていますが、この図だとナーチュー毛が削り取られる前の地形がよくわかります。
天久誌の当該部分を引用します。

天久自動車教習所を通る断面で、西側の崖の上は海抜47.5メートルで天久台地の最高点をなす。天久自動車教習所のある場所はかつて採石場があり(GHQ地形図に Active quarry と記載)人為的に大きく改変された。またその付近は、1919年の陸地測量部作成の1/25000図によれば、天久の中心部落(天久原)の西〜西北に位置し海抜40メートル以上の南北に連なる荒れ地(原野)と針葉樹(琉球松)に覆われる丘であった。戦後の砕石によって土地が約20メートルも掘り下げられた。
(略)
なお「ナーチュー毛」の小丘は現天久一丁目の「天久プリン山公園」付近に当たるが、新都心建設によって完全に削り取られ海抜25メートル前後の平坦地と化している。
天久誌 P6(編集あり)


71年だと軍用地は返還されておらず、新都心建設は当然始まっていませんので、ナーチュー毛は海抜40メートルあまりあります。天久自動車教習所の土地は戦後暫くの間に採石されてしまったようですから1919年に存在した琉球松に覆われた丘は71年にはもうありません。
民俗地図では教習所一帯はカタカシラーンジマーチューと書かれてあります。
ナーチュー毛
民俗地図で見る天久集落と安謝集落の間には直通道がほとんどありませんが、これだけの高さがある丘(名護毛-ナーチュー毛)があるのであればそれも自然かなという気がします。
海岸沿いと比べると全体的に高くなっている場所なので解りにくいですがナーチュー毛の東側(水溜原)との高低差は20メートルくらい、安謝側はそれ以上に高低差があります。
参考:安謝の原名(西側)
参考:天久の原名(西側)

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]