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寄増原・洗田原・宮城原(寄宮 2)

寄宮
寄宮で説明していたものを図にしました。
那覇市の字、旧真和志市に属する。
1946年(S21)、字与儀宮城原(あざよぎみやぎばる)、字国場寄増原(あざこくばよせましばる)、洗田原(あらいたばる)の3小字で成立。
寄増原の<寄>、宮城原の<宮>をとり寄宮とした。


大原区(寄宮)で取り上げた通り寄増原がほぼ大原区です。原(はる)の境界(寄増原/宮城原)として存在していた道がそのまま現在の寄宮三丁目と二丁目の境目になっています。
この辺りの旧道は、現在は歩行オンリーのような細い生活道になっているところと、新しく通されたバイパスに飲み込まれたところが混在していて、現在の道路と(原の)境界が一致するところと細い生活道のような道が境界であっただろうと推定されるところがあります。

大原区(寄宮)では
>この大原への移住は那覇近郊への解放の第一号で、その後。知念地区・石川地区・田井良地区より陸運関係の近親者や友人達が次々移動して現在の繁栄を来している。
と説明されています。
また、
>旧真和志校の後方の岡で、大石毛という丘陵地のしたの原野地であったがブルトーザで切り開いて平地となし
とされていたことからわかりますが識名・繁多川の丘陵のふもとの原野地で耕作されていませんでした。洗田原の土地柄をみてもこのあたりというのはあまり良い土地ではなかったと思われます。
国場が古い集落で周辺には畑も多数あったのと対照的でもありますし、現在の市街地化した現状からは過去は国場の方が栄えていたというのもわかりにくいものがあります。

このあたりは大きめの道路から一本入ると道が極端に細くなり、おまけに曲がりくねっている上に碁盤目のような規則性が全くないので初めての人はだいたい迷います。
現在古くなった家が取りこわし進行中で空き地が目立ってきていますが、あのままでは(消防法で)新築が建てられませんから地主or不動産業者がとりまとめないとどうしようもないのでしょう。
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天久の地縁 3(平野区)



寄宮での平野区に関しては過去に天久の地縁で言及しています。

 >部落は米軍の土地接種にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。 
 >この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。
 >東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。
 >平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。 



東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があったというのは旧真和志市北部ハルナー図の泊付近にある東原(あがりばる)でしょうか。
それと 天久の地縁 2で触れたように自治会として独立存続もしています。

気になるのは屋取りと寄留民という記述ですが、上之屋で引用したことを思い出すと少し納得がいきます。
 >天久から分離独立したのが大正九年であったがいわゆる屋取部落とは内容的に違っている地域である。
 >それが、那覇と中頭、国頭地方をつなぐ乗り合い馬車の駐車場が置かれてから、与那原や北谷方面からの移住者があり、
 >また泊方面から自然膨張的に上之屋区域に移り住むようになって(真和志)北部の一拠点的存在となった。

泊後方や天久の周辺は昭和初期の人口膨張に他地域からの移住と士族の屋取部落が入り交じっていたようです。
屋取部落の住人は士族の出身ということで平民と交わろうとしなかったという話やいつまでもサムレー然としていたという話を良く聞きます。そのような有様では当然のごとく通婚などありえないでしょう。そのような独立性というか孤立性が移住元との交流の無さや移住先での身内交流の維持が継続できる一因ではないかと邪推してしまいます。

岡野区/住吉区(安謝)

戦後の住民移動と定着先が現在でも名残を残している例として自治会があります。
安謝での自治会を調べてみました。

http://www.city.naha.okinawa.jp/jitikai/map_mawasi.htmより引用および編集しました。

天久・銘苅・安謝・泊・安里のハル名には岡野/住吉という原名(はるなー)はありません。

旧真和志市北部ハルナー図

上の「旧真和志市北部ハルナー図」の原図は「真和志市區劃図」という真和志市誌に掲載されていたものを基にしています。真和志市誌には257ページに同名の「真和志市區劃図」で区画図が掲載されており、その図には真和志市における区割りと区名が掲載され過去の安謝には岡野区と住吉区が存在します。
ただし過去の存在地と現在の自治会の管理区域は少し違っています。

画面中央の安謝にある囲った部分は安謝小学校です。
住吉・岡野両区が存在した真和志市誌当時では現在の曙や港町などの埋め立てははじまっていません。図では水色の線の外側(海側)が埋め立て地になります。
那覇埋立図
那覇市のサイトからお借りしている図が良くわかると思います。
真和志市誌より引用します。
岡野区、1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。

住吉区、旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、垣花全体が軍に接収され、土地を失ったので、安謝の海岸一帯に部落を作り、移住し、旧名称のまま住吉区と唱えることにしている。
真和志市誌 p275

両地区の成立は岡野区は復興のための工作隊と家族の移住、住吉区は土地接収から移住という理由のようです。
また隣接する安謝・天久ともに古い集落のため独立性が高いのでしょう。

天久・銘苅・安謝・泊・安里のハル名

旧真和志市北部の原名(はるなー)の図を作りました。
旧真和志市北部ハルナー図

原図は真和志市誌に記載されている「真和志市區劃図」です。
注意しておきたいのですがこの図は全く正確ではありません。元の図が地図的に正確でない上に、作成段階で大幅な省略や変更をしてあります。現在の地図の上に書かれていますがその土地がその原名であったことをいっさい保証できません。
少しの間違いがあるから責任逃れで一言書いておくと言ったようなレベルではなくまったく不正確です。


なぜ不正確なのかというのを詳しく書いておきます。
まず原図を現在の地図と比べてみると大枠では土地の形はわかるのですが省略や歪みが目立つうえA4の図で那覇市北端から南端までを作図しているところに少し無理があります。
次に現在の道と図での道を比較しようと思うと58号線やバイパスを除いて参考に出来ません。現新都心地区は昔の道路の面影は全くありませんし、その他の地域でも現在もある施設(学校など)と道の比率があいません。
その原図より今回の図はさらに不正確になってしまっています。

それを承知でで参考になるのはどのあたりかといえば、前回の現代のハルナー(原名)のように原名が出てきた場合に大体の位置がわかるというくらいでしょうか。
例えば安里だと安里原と羽佐間原があり、羽佐間原と言われた場合に安里でも安里交差点側だなというくらいの目星がつきます。

試しに原図の安里交差点付近をできるだけ正確に模写してみました。
安里
※後記:これでもまだ問題のある歪みがありました
神社と教会の記号がありますし境界の旧道と道の特徴的な曲がりからだいたいの位置関係もわかります。安里周辺は幸運にも旧道が残り旧跡もそのままなので不正確な図からでも推定することが出来ます。元の図に推定できるだけの情報量があったということですね。
しかし原図の銘苅あたりには参考に出来る旧跡も旧道も残っていません。周辺の区域と接するあたりなら残っている旧道から大体の推測が出来るのですが中心部は本当にお手上げです。
やっかいなことに原図でも旧跡はかなり省略されています。例えば天久だと御嶽門原・前原・西原の境界を推定できる材料はありません。御嶽門原には御嶽があったんだろうなというのは推定できるのですが...
原図の模写と旧真和志市北部ハルナー図を比べてもらうとわかるのですが、ハルナー図はかなり大幅かつ大胆に省略しています。ゆえに安里の例から読み込めるような位置関係の情報や面積比などの比較も成り立ちません。
このへんご承知いただきたく思います。

王の殿(湧田神社)

墓地制限でトゥングヮーマーチューのことを「殿小/トゥン グヮー?」と推定していたんですがすぐ横に「王の殿」があることをすっかり忘れていました。

王農大親 (おうのううふや)
生没年未詳 尚清王の第八夫人の父。領地に神の出現があり、それが王の目に留まるなど徳の高い人物とされる。三重城の築城にも関係する。城岳から奥武山付近までが領地で、領地内の王樋川、王井、王の殿(湧田神社)は、その名にちなむ。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-40489-storytopic-121.html
尚清王[1497 - 1555]は、第二尚氏王朝の第4代国王。


殿(トゥン)は拝所ですがどう説明したもんか...

古島

真和志間切の古島について抜粋します。

古島は大正9年に真嘉比から分離した。三つのヤードゥイから成り立つ。
•宇久増ヤードゥイ(興南高校付近の十軒)
•渡比屋ヤードゥイ(松嶋中学校付近の約十七軒)
•古島小ヤードゥイ(マカン道付近の俗称マカンジャーラ一帯の約二十軒)
那覇市史資料編第二巻中の7、p50


マカン道は真嘉比道で怪談で有名、真嘉比川原(マカンジャーラ)はマカン道より向こう側の川沿いです。
これらの集落は屋取(ヤードゥイ)のため習慣等は無いそうです。

参考:マカン道(北)
参考:マカン道(西側)

与儀(ユージ)

与儀について抜き書きしておきます。

与儀の地は泉崎湧田に住むものからは「ユージ・クヮングヮ」の併称で知られているだけにそれほど遠い田舎の感じは無く、また実際に毎日の生活物資の供給地でもあった。湧田ヌサチをではずれると古波蔵馬ィー、その馬場をまっすぐ通り抜けて坂を下りてやっと道<後の鉄路>に出てそれを横切って村らしい雰囲気になるところが与儀だった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p498


県庁付近から城岳小学校(側に馬場跡も残っています)側を抜け坂道を下り330号線(元鉄道路線)を横切ったあたりの集落が与儀だったということですね。

与儀の本家筋はナナムートゥとて七軒あって現在も同様に繁栄している。
 イー(ラキブチとも与儀巫殿内ともいって高安姓を名乗る)
 ウフ アガリ<宮城>
 ウフ イリ<城間>
 ウドゥンヤー<城間 大東[ウフアガリ]の分家>
 ウフンミ<大嶺>
 シリー<城間>
 シチャナーカ<島袋>
那覇市史資料編第二巻中の7、p499


「ウフ イリ」は大西、ウフンミはそのまんま大嶺ですね。与儀巫殿内(ユージヌンドゥンチ)の屋号のイーは上の意でラキブチは竹葺きのことのようです。
与儀は那覇市内にも関わらず拝所がわりと残っていて祭祀も行われているようです。
ここでは省略しますが那覇市史では続いて各家における祭祀と与儀の拝所について書かれていて、家での祭祀対象に関帝がある家がある。

土帝君や関帝、あるいは天妃(媽祖)などもそうですがいつのまにか本来の信仰理由から離れてしまうのも沖縄らしくて面白い。

真和志南部(南風方/フェーカタ)

那覇市史より引用します。

旧首里と旧那覇両市の中間に介在する旧真和志村(後に真和志市)を南北に二分して、続に南部を南風方(フェーカタ)、北部をニシカタと唱えた。南風方の地域は、国場川をへだてて、南風原・豊見城・小禄三村に接し、識名・上間・仲井真・国場・与儀・古波蔵の6部落が、識名から那覇の泉崎に至る断続する丘陵の上、またその斜面に立地して集落を形成した。
これらの部落は、地割り制度によって、部落別に土地を共有して農耕を営み、かつ共同体の神を斎く村落共同体であった。
明治36年土地制度の変革によって、共同体の社会が次第に崩壊するに従い、都市近郊農村としてのこれらの部落の周辺には、村外から転入するものが多くなりいわゆる屋取り部落が発生した。
識名に繁多川、真地与儀に樋川古波蔵に楚辺、壺川、松尾などの集落ができて新しい行政区が誕生した。
(那覇市史資料編第二巻中の7、p39)

※下線と強調は私によります。

原集落と新集落(屋取り)の関係が示されています。
>識名に繁多川、真地
>与儀に樋川
>古波蔵に楚辺、壺川、松尾


そして、
地割り制度によって、部落別に土地を共有して農耕を営み、かつ共同体の神を斎く村落共同体であった。
明治36年土地制度の変革によって(略)転入するものが多くなりいわゆる屋取り部落が発生した。

と屋取り部落の発生について考察されています。
土地制度の変革はいわゆる地租改正ですが本土では明治の初めに行われたことが沖縄では明治36年なのかというのはいろいろ本が出ていますから調べて下さい(なげやり)。同時期に先島の人頭税もやっと廃止されています。

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