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ガラス工場(戦後)

承前。
グダグダ(β) 前田硝子工場
那覇市西新町3ノ24 電69
硝子工場 前田龍五郎
日報の沖縄人名録 昭和12年版


琉球ガラスの歴史紹介ページに関連するかのような記述がありました。

沖縄で初めてガラスが作られたのは明治中旬ごろといわれており、長崎や大阪から来た職人の技術によって、那覇の西町に工場が建ちました。
当時は主にランプのほや、漬け物瓶等実用的な製品が作られていました。
---
戦後、沖縄におけるガラス工場の復興は、戦後からつくっていた人たちや、疎開先から引き上げて来たガラス職人たちが生産をはじめました。
---
沖縄における戦後ガラス製造のはしりは、1950年に前田正男さんが設立した一軒のガラス工場(那覇市与義)でした。
前田正男さんは、父親の代から那覇市西町でガラス工場を経営していましたが、戦争で工場は閉鎖。
戦後になって息子の正男さんが工場を与儀に移転し、復興させました。
---
奥原さんは十歳でガラス工場に見習いとして入り、戦前までガラス職人として働いていました。
1952年、奥原さんは、戦前からのガラス職人・島袋栄松さんとの共同経営で、前田さんからガラス工場を譲り受け、「奥原硝子製造所」と改名し、再スタートさせました。

琉球ガラスの歴史と特徴 | 琉球ガラス生産・販売協同組合 (抜粋と編集)
http://ryukyuglass.org/docs/ryukyuglass/history.php


人事録での前田龍五郎さんは正男さんの父になるのでしょうか。
この与儀の工場(セントラル病院近く)は移転して、工場は現在牧志にあるようです。
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中央劇場

戦後最初期の劇場だった中央劇場です。
沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第四図表を元にしてあります。

上図の緑の部分が中央劇場となっていますがこれだと以前の昭和26年発行の「最新那覇市地図」を参考にした下左図(中央劇場はD)と合いません。「那覇市旧跡・歴史的地名地図」での位置は下右図になっていて「沖縄主要地・主要商工年鑑」と異なりますが「最新那覇市地図」での位置と同じです。
おそらくこの位置が正しいのではないかと思います。
樋川(S26)那覇市旧跡・歴史的地名地図での中央劇場
中央劇場は闘牛場のようなすり鉢型だったという話があります。この一帯は那覇高校側の高台から中央通りの低地に向けて下る地形なのですがそのどこに中央劇場があったのかはちゃんと書かれた書物を見つけきれていません。
「沖縄主要地・主要商工年鑑」を基にした最初の図だと中央通りと平行するようにある通りのカーブ付近にあると読み取れますが、「最新那覇市地図」だと那覇高校の通りから下ってゆく途中にあると読めます。

【追記】『沖縄映画興行伝説』に中央劇場の想像図がありました。
http://tokkan-kozo.com/bind3-eikoden/naha/pg01.html#%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8A%87%E5%A0%B4

「沖縄主要地・主要商工年鑑」には中央通りなどの通り名も書かれています。中央通横道には旅館や食堂などがありますが昭和中期のゼンリン地図ではほとんどが消えてしまっています。

[1947年]11月下旬頃には、現在の開南バス停付近から中央劇場通りにかけて、物々交換の場として自然発生的に市場のようなものができていた。ヤミ市の草分けである。付近は高台になっていたため、ウィーマチグヮー(上の市場)と呼ばれた。
沖縄・国際通り物語 p65
グダグダ ウィーマチグヮー(上の市場)


この中央劇場を中心とした通りは撤去命令によって消えてしまうのですが51年ごろにはまだ店が残っていたようです。もっとも新栄通りや公設市場などにも近いためそれなりに便利な場所ではありました。
中央通りは後年なぜか質屋が集中するのですが昭和中期ごろは西島質店の一軒だけしか質という名前はありません。

赤司精酒醸造所

この項目は不確かで結論も無いのでご注意ください。

1917(大正6)年発行の「沖縄県写真帖」という本に「赤司精酒醸造所」という写真があります。
赤司精酒醸造所
建物の背後に丘、手前には線路が見えます。
高解像度の画像は下記アドレスへ。
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=14

戦前の鉄道古波蔵駅そばにはアルコール工場がありました。古波蔵交差点近くのポインタが古波蔵駅跡です。
真和志民俗地図では駅北側は「台南清酒工場」となっています。
下記引用によると糖蜜を運び込んでいたということですから伝統的製法の酒造ではありません。
古波蔵停車場
大正11年3月嘉手納線開業の際分岐駅として設置され駅北側にアルコール工場があり、嘉手納や高嶺から糖蜜が運ばれていた。古波蔵を発車するとすぐ嘉手納線と分かれて真玉橋へ。
辺りは麦畑の続く農村地帯で、古波蔵の集落は駅より北西に離れていた。
今の高さくらいを鉄道が通り、国道は2M以上低かったので国道よりアルコール工場へ通じる道は鉄道の下をくぐっていた。
図説・沖縄の鉄道/加田 芳秀 p57、58(省略編集)

泉崎大ミチ


那覇市史より引用します。

阿部[幸兵衛]糖商資本はこの沖縄製糖を足場にして台湾へ進出した。沖縄製糖は1912(大正1)年11月台湾における赤司初太郎経営の雲林拓殖会社および改良糖廊を買収し、これを機会に沖縄製糖の社名を沖台拓殖製糖株式会社に改めた。 p360

沖縄の分蜜糖業界に置いても独占化が進み、南大東島を除いては台南製糖株式会社の独占となった。「台南製糖」は(略)1913(大正2)年に創設された会社である。同社は1917(大正6)年8月、矢野慶太郎の「沖縄製糖」を買収し、その高嶺、宜野湾に工場を入手して沖縄に進出した。また同年12月には沖台製糖株式会社をも買収し、その西原、嘉手納、豊見城の3工場をも手に入れた。
1918(大正7)年5月には赤司初太郎の「大正製酒」沖縄工場を買収、1912(大正10)年には宮古製糖株式会社を合併した。 p360~361
那覇市史通史編第2巻 (省略と抜粋)


上記引用部分をまとめると、赤司初太郎経営の会社を1912年に「沖縄製糖(沖台拓殖製糖株式会社)」が買収、同じく赤司初太郎の「大正製酒」沖縄工場を1918年に「台南製糖」が買収ということになります。

酒精(略)
本年市場に現われたるものは台湾製糖会社及塩水港明治の両精糖会社、赤司製酒会社、台湾製酒会社等の製品なり
台湾日日新報(新聞) 1917.6.19-1917.6.27(大正6)

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10021195&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=null

明治37年、日露戦争が始まると国内のアルコールの需要は急速に伸びた。戦争で使用する火薬の原料としてである。その頃国内にはアルコール工場は数ヶ所しかなかった。(略)軍需景気にのり生産をしたが、戦争が終わると供給過剰の時代になってしまった。おまけに台湾から糖蜜を原料とした、安くて良質のアルコールが入り始めた。
---
彼は宇治火薬製造所内の酒精工場でアルコールの技術を習得し、先述した小西三郎のもとで製造に従事した。宮崎は大正9年、台湾の実業家赤司の設立した大正製酒株式会社の東京王子工場長となる。なお、大正製酒王子工場は関東大震災で全滅し、昭和4年に宝酒造株式会社王子工場として再建する。

http://www42.tok2.com/home/uwajimanenrin/nenpyou/oomiya.html


昭和4年6月 大正製酒株式会社を吸収合併、王子工場とする。
宝ホールディングス(旧寳酒造)

http://www.jabira.net/enkaku/ta/takara-holdings.htm


台湾には「赤司製酒会社」と呼ばれる会社が酒精を生産、東京では赤司の設立した大正製酒工場があったようです。
今までの引用を整理すると以下のことがわかりますがこれらが同じところなのかどうかは確定しません。それぞれ関連があるようにも思えますが名称の不統一(赤司/大正)は何故なんでしょうか。
真和志民俗地図(戦前相当)には古波蔵駅北に「台南清酒工場」がある。
1917(大正6)年発行の本には「赤司精酒醸造所」という写真がある。
1917(大正6)年発行の台湾の新聞には「赤司製酒会社」という名前が見える。
1918(大正7)年には赤司初太郎の「大正製酒」沖縄工場は「台南製糖」に買収。


赤司初太郎について検索してみます。
赤司初太郎 1874(明治7)〜 1944.2.12(昭和19) 明治・大正・昭和期の実業家、財界人 高知県出身。日清戦争期に陸軍軍属として台湾に渡る。台湾で雑貨店等をはじめ、樟脳製造業で成功し、次いで鉱業、製糖業、新聞事業などを起こす。東邦炭砿、満洲製糖、昭和製糖、台湾電燈、台湾バルブ、台湾日日新報、台湾鉄道などの経営を行い、そのほかの多くの企業の取締役をつとめた。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/akashi_ha.html


以下は余談として。
直接は関係ないですが面白いページでした。

台湾日日新報 1927.10.9-1927.10.21(昭和2) 台南製糖が昭和製糖となる迄 (一〜七)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00222675&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=null

台中ぶらり③大正製酒株式会社醸造工場 (台湾台中)
http://blogs.yahoo.co.jp/nipponia_nippon3/42216908.html

あけぼの劇場

少し前まであったあけぼの劇場です。
 
真和志支所前の変形交差点のそばあたり、勾配のある地形にへばりつくようにあった劇場(映画館)です。図は赤があけぼの劇場、緑が真和志村役場(現真和志支所)です。
真和志支所の位置はここ(沖縄県那覇市寄宮2丁目32−1 - Google マップ)。
下写真が後年のあけぼの劇場でほとんどピンク映画、ときには<○○1、2、3>のようにシリーズ物連続三本立て上映とかやっていた記憶があります。
写真は那覇市のサイトから借用しています。

[1952年]真和志村役所向かいに敷地300坪、6棟の私設役所前市場が完成。両市場とも魚肉・野菜・衣類・日用雑貨を区画。テナント申込者が多く、はみ出た者はひめゆり通りに数十軒の屋台を置き、沖映通り・神里原通りにもあって、屋台族という流行語も生まれた。
---
あけぼの劇場が53年3月に村役所斜め向かいに開業。60年前後は乙姫劇団がよくかかったが、まもなく映画常設館になり、70年前後からエロ映画専門館になった。劇場前の真和志通りは58年、屋台群が深夜まで営業し、ゆすり・盗み・強盗・傷害が頻発、百鬼夜行の有様。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p54(省略と編集)


役所前市場はいつの間にか消滅したようです。

那覇無盡

アーニー・パイル国際劇場を建ててから一年ほどたった1949(昭和24)年5月、高良[一]は元貴族院議員の仲村清栄と「那覇無盡㈱[那覇無尽]」を設立した。大入りが続くアーニー・パイル国際劇場からの収入で高良には金があった。それを目当てに、いろんな人が金を借りにきた。しかし貸した金はなかなか帰ってこなかった。それならいっそのこと会社組織にして、金融業務をやってみようと思って始めたのが無尽会社だった。
那覇無尽は仲村が社長、高良が専務になって、アーニー・パイル国際劇場横に事務所をかまえた。取締役には大城鎌吉がいた。その後、相互銀行方の施行(1953年)で、「第一相互銀行」に生まれ変わる。
銀行は後に、松尾の国際通り沿いに移転した。国際通りから久茂地小学校に向かう曲がり角である(現在は沖縄海邦銀行松尾支店)。当時の那覇市では一流のビルで、沖縄で最初の夜間金庫の設備が売りものだった。第一相互銀行は略称「一銀」と呼ばれていた。
第一相互銀行はその後、中央相互銀行〜沖縄相互銀行〜沖縄海邦銀行という変遷をたどる。
戦後の沖縄世相史 p138〜140(抜粋と編集)


後年の海邦銀行である那覇無尽です。
1951(昭和26)年の「最新那覇地図」では現桜坂劇場の前には道が通っておらず公園の中には音楽学校という名前が見えますが、それよりしばらく後の地図には「珊瑚座・オリオン座」があり、その向かいは那覇無尽となっていますがアーニー・パイル国際劇場横とは言い難い位置にあります。
同じく1951年の「沖縄主要地・主要商工年鑑」では国際劇場右隣には那覇無尽があり、同じビル(か敷地)には沖縄ペンクラブや琉球映画株式会社があります。ちなみに那覇無尽の隣は球陽堂です。
引用文での「アーニー・パイル国際劇場横に事務所」は沖縄主要地・主要商工年鑑に記されたものを言っているのだと思われます。
これらの食い違いについてはよくわかりません。

高良一氏は那覇の名物男というか、大ボラ吹き、大風呂敷などと呼ばれることもあって、確かにそういう面もあるのですが(笑)市会議員や実業家として名声がありました。
中城城趾のあれこれやモノレール云々だとかも間抜け(失礼)なのか先見の明があるのかわかりません。見る人によって違うというのが実情なんでしょうけども、そういう事情を了承すると戦後のアーニー・パイル国際劇場建設の際の拙速ぶりとごり押し、また抜け目のなさもこの人の特徴が良く出ているなと思えます。

那覇の旅館業(S12)

「日報の沖縄人名録 昭和12年版」という本から那覇市内の旅館業を抜出します。

那覇市西新町3ノ3 電117
宝来館 久木田サト

那覇市西本町1ノ10 電130
楢原旅館 楢原嘉平

那覇市西新町2ノ12 電512
あけぼの旅館 山下政彦

那覇市西本町3ノ7 電27
川津旅館 山本啓介

那覇市通堂町1ノ8 電211
森田旅館 森田モト

那覇市西本町2ノ12 電19
光陽館 奥平繁

那覇市西本町2ノ9 電275
末広旅館 厚地キク

那覇市西新町4ノ4 電583 
川本旅館 川本梅寿

那覇市西本町3ノ16 電218
常磐旅館 崎原朝雄

那覇市西新町2ノ24 電627
音波旅館 宇良宗樽

那覇市西新町3ノ11 電644
南陽旅館 仲嶺ツル

那覇市西本町3ノ2 電312
前田旅館 前田カナ

那覇市西本町2ノ5 電87
先島旅館 下地玉枝

那覇市西本町 電402乙
あまみや 稲田種菊


殆どが西新町と西本町ですね。
「先島旅館 下地玉枝」は宮古、「あまみや 稲田種菊」は奄美の人かもしれません。宿小や田舎宿のようであった可能性もあるかと愚考します。

昭和12年の料理業

「日報の沖縄人名録 昭和12年版」という本から料理業の項目を抜出します。

那覇市通堂町3ノ1 電104
風月楼 楢原幾平

那覇市辻町1ノ133 電200
見はらし 崎間麗徳

那覇市辻町3ノ94 電516
三杉楼 新崎オタ

那覇市辻町3ノ108 電157
花咲亭 阿波連思明

那覇市辻町3ノ39 電192
美咲亭 阿波連思聰

那覇市上ノ蔵町1ノ55 電309
京屋 和田ヤス

那覇市天妃町2ノ1 電307
一味亭 松本平太郎

那覇市若狭町1ノ26 電72
別天閣 大濱英三

那覇市辻町3ノ78 電457
幸楽 親川ウト

那覇市辻町3ノ97 電601
蓬萊閣 高良知良

那覇市辻町3ノ107 電645甲
龍姫 伊舎良ウタ

那覇市上ノ蔵町1ノ52 電18
十八番 和田吾市

那覇市辻町3ノ107 電話355
銀花 水野増重

市外楚辺 電695
魚よし 中山辰秋


後半にカフェーらしきものもあるのですがそちらは別項(昭和12年の料理業 2)で。
大正末の新聞記事では別天閣(若狭)のオーナーだった崎間麗徳さんは昭和12年では波の上の「見晴らし亭」のオーナーとなっています。

古田絹織物所

蠺種発売広告
優良國蚕日台号又昔蠺種日支交配種
蠺具並座繰製糸
器械及付属品
長崎県島原蚕種製造株式会社
鹿児島県是蚕種製造株式会社
那覇西新町三丁目拾壹番地
特約代理店 古田絹織物所
沖縄日日新聞 1921(大正10)年2月13日


※蠺は蚕と同じです
内地から蚕の新品種と器具を販売していたんでしょうか。西新町3丁目は辻に一番近いところになります。
参考:グダグダ 旧町名の番地

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