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あらかきバス整備工場跡

「わかさ民俗地図」に那覇尋常高等小学校があり、その隣に「新垣バス整備工場」というのがあります。
松山周辺の官舎群で描いた図でみると高等小学校は現在のワシントンホテル(元沖縄テレビ)あたりです。

「ちからのかぎりに/護得久和子」を参考にすると、1970年に新築した富士写真商会のビルはあらかきバスの敷地を買って建設されたようです。そのビルは主は変わっていますが現在もあります(久米2丁目33番1号)。

あらかきバスは昭和4年から首里那覇間を走って電車に引導を渡しました(昭和8年廃業)。
戦後はあらかき平尾バスになり、しばらくしてから吸収によって消滅しています。
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丸国マーケット

丸国マーケットです。

戦後闇市の中心点のような場所ですが現在は宿屋になっているようで時代を感じます。画像はGoogleMapからの切り出しですがビル名にご注目いただきたい。三つ並んだビルが、丸国マーケット、なみさと、民衆ビルになっています。
真ん中のなみさとはわりあい最近そうなったものだと記憶しています。

51年の土地評価続きでは昭和26年の「最新那覇市地図」と那覇市史 資料編第3巻の1の「割当土地賃貸料調査票」で戦後すぐの繁華街がどうだったのかを見てみました(結局なにもわからなかったんですが)。
そこで「民衆百貨店より丸国マーケット十字路及西方へ右折し朝日商会付近並に同商店向かい小路に入り安次嶺商店まで通りに面せる両側」という場所がわりあい高評価でしたが「民衆百貨店」というのがどこだかはっきりしませんでした。とりあえず図はこのように作図しました。

この図での民衆百貨店は当時入手していた「最新那覇市地図」(仮にA)をもとにして推定したものですが、最近入手した「最新那覇市地図」(B)は細部が違っています。Aは丸国マーケット一帯が空白ですが、Bには丸国マーケットが存在していて最初の図のように三つ建物が並んでいます。その三つの建物の名前は、「丸口(ママ)・三共・民衆」となっています(三共は読み取りにくいので違うかもしれません)。

A・Bの地図は細かい違いが他にもあり時期の違いもあると思われます。ただし道などはほぼ同じ手書きでどちらかの図に変更を加えたものだと思われます。
※Bには現在の桜坂琉映の位置にオリオン座と珊瑚座があるがAには無いなど
個人的にはBの方が後だろうなと思うのですがちゃんと調べてみないことにはわかりません。ちなみにAは那覇市所有でBは県立図書館所蔵です。

めんどくさいです...
※追記しました(2011.04.23)

第百四十七国立銀行

第百四十七国立銀行です。

第百四十七銀行は現在の鹿児島銀行です。
鹿児島銀行 - Wikipedia

写真は通堂側から撮ったものでしょうね。

紅房

戦後の漆器工房として名声のたかかった紅房(べんぼう)は残念ながら2001年に廃業しています。
紅房に関係するサイトをいくつか引用してみます。

日本の漆器技術の発展に尽力し、職人の社会的地位の向上に寄与した生駒弘氏を父に持つ故生駒親雄氏が、昭和25年、秋田市に「生駒漆芸工房」を開きました。沖縄の琉球漆芸に大きな可能性を感じた生駒弘氏は、自ら沖縄に渡り、当時社会的地位の低かった琉球漆工芸の職能向上に努め、現在の琉球漆工芸産業に多大な功績を残しました。父弘氏の技術は子親雄氏に受け継がれ、当時の伝統性の薄かった秋田市に定着した生駒塗には、沖縄で培われた鮮やかな朱塗りの遺伝子を宿し、伝統にとらわれない新しい造形感覚をみることができます。
http://akita-zurali.jp/html/newpage.html?code=19


なんと大胆で簡潔なフォルムでしょう。写真の二つの作品は、柏崎 栄助(かしわざき えいすけ)(1910〜86)というデザイナーによるデザインで、一方は戦前戦後の琉球漆器をリードした「紅房(べんぼう)」という会社でつくられました。戦前のものとは思えないほどモダンですね。
 柏崎は沖縄県工業指導所の漆工部技師だった生駒 弘(いこま ひろし)の親戚で、東京美術学校(現東京藝術大学)図案科の学生だった頃から沖縄へ来て、デザインの仕事をしていました。生駒は昭和6年(1931)沖縄漆工芸組合を結成。「紅房」というブランド名で全国に販路を拡げていきました。従来の漆器の概念を打ち破る斬新なデザインは、とても評価が高く、他の産地に大きく差をつけていたのです。

http://ogb.go.jp/move/densan/minikowa.htm


漆器の生産といえば若狭町ですがこのようなエピソードもあったようです。

昭和初期、沖縄県は「ソテツ地獄」とよばれた経済不況対策の一環として、県工芸指導所を立ち上げた。漆器部門の指導者として生駒宏が富山県から招かれた。(略)県外から優秀な若手デザイナーを呼び寄せ、近代的な感覚の製品開発に取り組んだ。その結果県外からの引き合いも出て来た。
それに対し、伝統的な漆器業者は民業圧迫だと騒ぎ出し、若狭町の街角に「イコマ(生駒)ではなく、悪魔だ」との張り紙をする一方、県や県議会にまで押し掛けた。
昭和6(1931)年、生駒は既存業者を排斥し、沖縄の漆器に新しい息吹を与えることを決意し「沖縄漆器工芸組合・紅房」を発足させた。そこには柏崎英助、小池岩太郎らの若手の有望な人材も加わり、現代にも通用する新しいデザインが次々と生まれ、中央でも脚光を浴びるようになった。
笑う!うちなー人物記 p193(編集と引用)


左はわかさ民俗地図による漆器関係、右は昭和の那覇市内の観光向け案内図です。

旭窯業所


古波蔵駅のそばにあった旭窯業所について那覇市史に言及がありました。

大正末期から戦前まで古波蔵に旭窯業所があった、そこでは土管、アルコール壷、植木鉢、屋根瓦、陶器等幅広く焼かれていた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p362


昭和12年の「日報の沖縄人名録」から。

旭窯業株式会社
本社 那覇市天妃町1の12
工場 市外古波蔵601
専務取締役 坂本栄之丞
取締役 大城昌貞、並川亀治郎
監査役 新里康保、宮城安得
島尻郡真和志村字古波蔵/社員 松下浅市
那覇市上泉町2ノ57/社員 福山彰


同じく「日報の沖縄人名録」の酒造の項から抜粋。「新里康保」さんもおそらく新里酒造の関係者でしょうね。

久茂地町2ノ77/大城昌貞
平良町1ノ21/平良安得


過去記事から。
参考:グダグダ(β) 並川亀次郎(並川金物店/並川商店) (寄留商人)
参考:グダグダ(β) 坂元栄之丞 (寄留商人)

この会社の役員は酒造関係者と寄留商人ですね。

寿屋ブタノール工場

安謝部落北側一帯の土地には戦前ブタノール生産のための軍需工場があり、それは現在のサントリー、当時の寿屋によるものでした。
安謝誌によると建設のための条件として安謝の若者を雇用することなどが出され、22名が大阪工場へ技術習得のため昭和16年に派遣されています。敷地は現在のコジマ電器(58号線沿い十字路角)からジミー安謝店の手前(川まで)の広大な一帯でした。
コジマ電器からマックスバリューまでの一帯が倉庫地帯で、そこには宮古八重山をはじめ各地から砂糖が運び込まれて来たそうです。沖縄県内各地の製糖工場から砂糖が倉庫に集められ工場でブタノールにしていたということですかね。
しかし「昭和20年3月、寿屋工場は戦災により解散した(安謝誌、p126)」そうです。

下記アドレスのページで破壊されたブタノール工場の姿を見ることができます。
安謝地区ブタノール工場 (那覇市安謝)
http://www.okinawa-senjoh.com/ajyabuta.htm

変わらない場所で営業を続ける沖縄サントリーの場所はここ(下)。
Google 検索 :沖縄サントリー(株)

また軽便鉄道から工場までの引込線(未完成)もありました。
戦時中安謝にあった寿屋のアルコール工場を海軍が接収し航空燃料用のブタノール工場へ転換させていた。嘉手納線よりこの工場への引込線を付設する軍令に基づいて、内間より分岐し安謝川を渡って工場へ至る区間の道床が完成し、一部のレールが敷かれようとしていたが資材難で完成できず、工場はアメリカ軍の砲弾で破壊され再開されなかった。
図説・沖縄の鉄道/加田 芳秀 p34、35

内間の引込線
左は米軍の作戦図、右は現在も残る引き込み線跡の道路。
参考:岡野区/住吉区(安謝)

那覇の旅館

大正5年の沖縄県人事録は人間の紹介がメインなのですが、料亭、商店、旅館などの紹介もされています。
沖縄県人事録で紹介されていたのを以前三つ引用しました。

大正館(旅館)
楢原旅館/風月楼
池畑旅館

那覇市史にも旅館の項目があり、天妃小学校校長の石野瑛の1915(大正4)年刊行した「琉球大観」に記した那覇における主な旅館をあげています。
また古老の記憶によると旅館ができたのは明治に入ってからでその数も西本町に1、2軒、高額で庶民は利用せずもっぱら大和からの人が利用していたそうです。
池畑旅館、浜崎旅館、川津旅館、薩摩屋旅館、楢原旅館、川本旅館、大正館(以上西本町)
森田旅館(通堂町)
那覇市史資料編第二巻中の7、p424


庶民はどうしていたのかというと間切宿、ヤール小(ヤードゥ小)を利用することになります。このヤール小も西新町、西本町、通堂町、東町、旭町一帯に分布していたようです。
この庶民宿の特徴は糸満ヤールグヮー、久米島ヤールグヮー、慶良間ヤールグヮーのように宿泊客が宿によってわかれていたことですが、理由はさまざまで、それぞれ商売上の都合や出先機関的性質なども兼ねている側面があり簡単には言えません。庶民がわざわざ那覇に来るというのが大仕事であることなどを考えれば今日のように旅客としての旅ではないことははっきりしています。
このヤール小については別項目で取り上げたいと思います。

花月

沖縄県人事録(大正5)より花月を抜粋します。

花月 和洋料理店
本店 那覇区西新町三丁目
支店 通堂町三丁目
那覇区における四大料理店の中、操業以来もっとも日浅き花月は、概にして依然頭角を現し、今や多大の人気を得て隆盛しつつあり、同店は元埋地の一隅に極めて小規模のものを設立せるに始まり、このあと数年を出でずして大発展を来し、新埋地なる海岸に宏壮精麗なる数棟の建築を起し、爾来拮据経営して日と共に隆盛に向かい、現今春子、富子、三次、小六、繁子等多数の美妓を擁して人気を一手にあつめ居れり。而してその特色と見るべきは、室内の装飾雅致に富めると、料理の新鮮美味なると、何となく落ち着きて愉快に遊興し得らるる点にあり。大正四年の夏より翠緑滴る奥武山公園の麓に支店を設け、主として西洋料理営業し、県下模範的ビーヤホールの称を得て是亦隆盛を極めつつあり。


西新町の埋立地に小さな店を始め、そのあと数棟を擁する大店舗になったということです。奥武山にも西洋料理主体のビアホールを出店するなど凄い勢いです。ビール等もまた寄留商人の手によるものだったりするのですけども。
花月
写真は「昔の写真と資料 セピア色に退色した昔の写真で見た光景」様よりお借りしています。
いつもありがとうございます。m(_ _)m
この写真は大正初期の写真だそうですので引用した人事録が書かれた時期の姿ですね。
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2219187.html

西新町の隆盛については断片的な情報が多く、項としてまとめるのに時間がかかりそうです。この花月なども民俗地図などには記載がないです(昭和初期相当の地図なので消滅の可能性がありますが)。
当時奥武山はレジャー地でもあり運動会などのイベントが行われる場所でもありました。明治橋のそばには風月楼(御物城跡)、島の中には池があり、弁財天、世持神社(儀間真常と野国総管)、龍洞寺などがありました(那覇民俗地図による)。
参考:奥武山

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