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琉煙・沖煙

まず「琉煙」。
wikipediaによると「那覇市壷川285-1」ですが那覇市の住所検索でしらべてみると「壺川1丁目14番地2」になるようです。図は昭和中期のゼンリン地図での位置。


「沖煙」は古波蔵在となっていますからゼンリン地図のこの工場がそのまま会社だったのでしょう。小さな会社だったようなのでこんくらいの規模か。


オリエンタル煙草はWikipediaだと豊見城の根差部になっています(根差部699)。
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戦後の煙草

「戦後の沖縄 たばこの歴史」という本を参考に戦後沖縄での三つの会社の成り立ちをまとめてみます。

•琉球煙草株式会社 昭和26年設立
•オリエンタル煙草株式会社 昭和31年5月設立
昭和29年11月以降琉銀の管理課にあった琉球香港煙草株式会社の権利一切を引き受けて事業を開始している。
•沖縄煙草産業株式会社 昭和32年7月設立
アメリカたばこの輸入業者が設立した。


規模は設立順で大きいです。
オリエンタル煙草の前身とも言えるような「琉球香港煙草株式会社」については引用します。

たばこ製造についても外国企業数社から琉煙社に対して事業提携の申し入れが行われるようになった。昭和27年末には(略)沖縄に輸出していた「香港煙草」(イギリス系)と、両切たばこの製造について合弁事業を計画するに至った。しかし、同計画は実行面で不調をきたし、香港煙草社は自ら主導的立場にたってのたばこ製造を意図し、琉煙社もまた自力でもって両切たばこの製造に取り組む方向に展開していった。
---
両切りたばこ巻き上げ機2台の設置計画を基に発足した琉煙社の事業計画が資金調達面で難航している間、前記の香港煙草社は同社製品の輸入先である大島産業商事(後に有村産業と改称)と改めて事業提携を行い、同社製品のいわば現地生産・販売を意図して、28年中に「琉球香港煙草株式会社」を設立した。そして29年4月以降香港から輸入した原料を使って製造を開始(略)売れ行きは芳しくなかったらしく、同社は、製造開始後半年を経ない同年10月に株主総会に置いて解散決議、11月には新聞紙上に解散通知、以降琉球銀行の管理課へ移行する道を辿った。
戦後の沖縄 たばこの歴史/羽田武文 p71、72(省略と抜粋)


この本は力作で戦後沖縄経済史やその背景、煙草葉の配合割合と税金と商品計画がくわしく述べられています。
復帰少し前あたりから沖縄の煙草会社は本土の下請け作業をし、後々下請け作業が必要不可欠なものになっていってしまいます。この事は事実上本土JTへの系列化だと思いますが復帰前にはすでにそうなっていたのかと驚きました。

ハイトーンのことも触れられていますので抜出してみます。

39年1月、アメリカ政府公衆衛生局が発表したいわゆる「喫煙と健康に対する報告書」は、沖縄においてもたいへんな社会的関心を呼び起こし、その反響の大きさに、琉球政府厚生局は「タバコの害から住民を守るにはどうしたらよいか」という面から調査に乗り出した、と言われるようになった。こうしたことを契機に消費者の嗜好は一段と喫味緩和なたばこへと移行するようになっていった。
右のような状況を見て、オリ煙社は、その持ち前であるマーケティング感覚を活かして新しい銘柄開発に着手した。“くせがなく独特の風味と香りをもた緩和な喫味のたばこ”をねらいとして製作された新製品は「ハイトーン」と名付けられ、正月に向けて12月19日に発売された。
戦後の沖縄 たばこの歴史/羽田武文 p177(省略と抜粋)

三共デパート(新生デパート)

丸国マーケットとなりの三共デパートを施工した会社の動画がありました。

沖縄 大晋建設の歩み 中編
http://www.youtube.com/watch?v=6UFxgYzS65g



左図は動画中の地図を参考にして製作、右の画像はスクリーンショットで作っています。

新生デパートで検索すると画家の方が展示を行っていたことがわかり、少なくとも53年から55年は新生デパートが存在していた事は確かです。
作家略歴・作品
末吉安久|作家紹介|美術館|沖縄県立博物館・美術館

新生デパートにはなみさと商会の高良盛一が理事に入っていました。現在はなみさとになっていますから何らかの関わりがあったのでしょうね。
参考:グダグダ 高良盛一

アドベンチストメディカルセンター

アドベンチストメディカルセンター(以下メディカルセンター)は上之屋にありました。
下の図でもHousing Areaという文字の右側あたりにあります。
牧港ハウジングエリア

メディカルセンターのページの沿革ではこうなっています。
1959年 3月 アドベンチストメディカルセンター新築移転(那覇市上之屋)
1984年12月 アドベンチストメディカルセンター新築移転(西原町字幸地)

http://www.amc.gr.jp/about/rinen.htm


現在の地図から位置を考えてみます。ちゃんと確かめていないのですが跡地は現在のナハテラスになっていると思われます。

しかしよくわからないとこもあります。以下はナハテラスの前身であるパレスオンザヒルの売却を巡る新聞記事です。

パレスオンザヒル沖縄は1984年の設立。当初は沖縄リージェントホテルとして開業したが、88年に琉球アイランドリゾートへ商号変更して全日空ホテルズの一員となり、昨年6月に現社名に変更した。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-94470-storytopic-86.html


84年12月にメディカルセンターが西原に新築移転してるのにパレスオンザヒルは84年の設立です。病院の建物をそのまま使っているはずはないと思うんですが... 開業は遅かったのかもしれません。

あとついでに書いておけばこの周辺一帯は那覇では珍しいくらいの豪邸がたくさんあります。繁多川にも豪邸がいくつかありますが豪邸が隣接している一帯は珍しいんではないでしょうか。安里側に行けば稲嶺一郎宅や松岡政保宅もあります。

那覇の片倉製糸

まず那覇にあった「製糸工場 新あやべ」と真和志村安里の片倉製糸です。
安里川が那覇・真和志の境界になっていて、安里は真和志村です。
牧志の牛乳屋

真和志民俗地図では単に「片倉製糸敷地」となっていますが、「戦前の昭和初期牧志町民俗地図」では「片倉製糸 桑畑 (灰焼ガマ 大正年間)」となっています。
片倉製糸では「片倉製糸の蚕種生産体制の構築 〜一代交配蚕種普及団を中心に〜/髙梨 健司」という論文を紹介しましたが、この中から那覇での片倉製糸の活動を抜出してみます。

1926(大正15)年5月5日に沖縄県那覇市郊外に片倉普及団那覇出張所を開設する。那覇出張所は、1938(昭和13)年11月12日に沖縄蚕種製造所として改称・独立する。
沖縄蚕種製造所とは別に、片倉蚕業研究所所轄の沖縄出張所(沖縄県島尻郡真和志村安里 217の1)が同地に所在する(後略)

1926(大正15)年11月8日開催の片倉取締役会において、「沖縄県蚕種製造試験場」設置に関する案件を審議する。(中略) 既に片倉鳥栖製糸所は、沖縄に将来の製糸工場建設構想の下に那覇市郊外に1万坪余の土地を購入し、一先ず乾燥場を設けて原料繭蒐集にあたっており、この乾燥場敷地内に片倉普及団那覇出張所の試験研究施設と原蚕種製造用に桑園3千坪の設置を計画したのであろう。

1927(昭和2)年11月の片倉取締役会において、那覇市内の元教会所を蚕種製造建物として買入の案件について審議しており、内容は敷地1800坪、建物90坪、石垣180間、外に天水溜設備と建物1棟を含むものであった。この審議結果は明らかではないが、結局製糸工場建設構想を断念し、片倉鳥栖製糸所所管の那覇出張所を片倉普及団が引継ぐことで蚕種製造建物については決着をみたのであろう。

その後、1930(昭和6)年9月28日と1934(昭和9)年12月28日に、片倉普及団那覇出張所の増改築工事及び沖縄試験蚕室新設の案件が片倉取締役会において審議されている。この2案件の前者に関しては審議結果は不明であるが、後者に関しては承認されている。


論文は片倉製糸の全国的な展開を扱っていて、その中での一つとして沖縄での例があります。
とりあえず「片倉蚕業研究所所轄の沖縄出張所(沖縄県島尻郡真和志村安里 217の1)」というのが牧志ウガン近くの敷地である事は間違いないと思います。
真和志民俗地図では松川二又原には養蚕試験場というのがありますが、これがどのような団体がやっている養蚕試験場なのかはまだ調べていません。
参考:沖縄県那覇市松川2丁目3‐5 - Google マップ
参考:グダグダ 二又原(松川)

今回はここまでということで。

ゆたか屋

山里永吉の奥方のカッちゃんの家がユタカそば屋で、私の家のタンカー(向かい)でやっていたよ。そこのそばは、シシ(肉)や蒲鉾をさいの目に切って上にのせていましたよ。灰からあく水をすくってそばを打っていましたね。私は面白くて、さくさく切ってゆでるまで見入っていましたよ。ユタカそば屋のあとは、ウシンマーそばといって、ウシンマーというジュリ上りがやっていたそば屋で、これが私の家のうしろにありましたよ。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p112



金城芳子さんの実家は辻町1丁目の端道(ピンク)です。図は船越義彰さんの「戦争・辻・若者たち」という小説の裏表紙にあった辻周辺の地図から井筒屋とゆたか屋、「沖縄そば むかし地図」からウシンマーそばの位置を書き込みました。

沖縄そば むかし地図
http://www.geocities.co.jp/kikuuj/zatugaku/soba/soba.htm

かなえ亭(香那恵ホテル)

かなえ亭
那覇市のサイトに「かなえ亭」の写真がありました。もともとは、「沖縄主要地・主要商工年鑑」(1951年版)第一区・表より参照/(1950)に掲載されていたもののようです。
この「かなえ亭」は那覇1区14組にあった大城ウシさんの「香那恵ホテル」と同じものではないかと思います。前に「琉球人事興信録(昭和25)」から大城さんの項目を引用してあります。

大城ウシ
香那恵ホテル経営主
那覇1区14組
その名もゆかしい香那恵ホテルを経営している人は幻燈まどろみ蛇味の音さんざめく往時の辻町の一角に於いて幾多の名妓をかかえ隆々たる名望聞こえた新雲楼のお主大城ウシさんである。
グダグダ 大城ウシ(香那恵ホテル)

戦後の区那覇1区
ちなみに大城さんが主をしていた新雲楼(染屋小)は、クシミチと天使館小路の角にありました。
1区14組は国際通りから平和通りに入るあたりです。なので写真の後方にうつっている丘は現在の希望ヶ丘公園だと思われます。

51年頃の図。
市場本通り(平和館通り)

冒頭の写真の高解像度版。

那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/平和通りの料亭 かなえ亭
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1708

善興堂病院

承前。
グダグダ 長田紀秀・饒平名紀順
龍界寺小路・善興寺坂
長田紀秀(饒平名)
1899(明治12)年那覇市生、饒平名紀順の長男。戦後1946年にコザ中央病院院長、1951年から那覇市で善興堂医院を開設、診療にあたっている。
饒平名紀順(1870-1937)長田紀通のひ孫。善興堂病院院主。


参考にしたのは「医師 仲地紀仁/仲泊良夫」という本で沖縄の種痘関連なのですが、事実上「松姓 金城家・仲地家・長田家・福嶺家」という医師を多数輩出した那覇士族の本です。
このブログは旧那覇と真和志市が対象なのでこの一族が開業していた病院のことも取り上げることになると思いますがそれはおいおいやるとして...

結論として、まず饒平名紀順さんが戦前の善興堂病院院主戦前は那覇で開業していた息子の長田(饒平名)紀秀さんが戦後に善興堂の名前で病院を開設ということになります。これだけのことなんですが。
「医師 仲地紀仁/仲泊良夫」には系図もありますので興味のある方はどうぞ。
図はないですが家譜はwebでもみることができます。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241188/1/vol05/indexnaha.htm

ご先祖様は復帰前に切手にもなっています。

これは、1968年に復帰前の沖縄で発行された「仲地紀仁 牛痘種痘実施120年」の記念切手で、仲地が取り上げられています。
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-1438.html

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