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別天閣(若狭)

お客様の御便利を図りお一人や御二人の時に限り特に牛皿料理の御注文にも応じます
波ノ上通リ
別天閣
電話七二
記念道路の両側にならんでゐる並樹の翠が深く染められました。これからが波の上の世界です、どうぞひるま水泳の御疲おかへりがけ、夜涼を趁ふて御散歩の御序でにぜひ本閣に御立寄りをねがひます。いろいろ珍しい夏向の大陸的料理が用意してあります。それに二階は風通しがいいので、全○夏知らずであります。(閣主謹白)
沖縄タイムス 1922(大正11)年10月19日

別天閣(若狭)

大正11年の新聞広告からです。
図は「わかさ民俗地図」から「別天閣」()の位置を書き入れました。そばにあるのは洪済寺、赤い道が参道で奥が波上宮です。わかさ民俗地図は昭和19年相当ですから大正から沖縄戦まで健在だったということになりますね。
同じ日の紙面から別の広告と記事も抜出してみます。

入用 料理出前持
別天閣
沖縄タイムス 1922(大正11)年10月19日


猛火を消し止めた島田式火事止液
一昨夜7時頃波之上角力場に於いて試みた島田式火事止液は壁を包んだ猛火を完全に消し止めて居たが見物人は角力場一帯にい集して○た同液の一手販売は支那料理屋別天閣主人崎間麗徳氏が行って居るが一対一瓶6円70銭である。
沖縄タイムス 1922(大正11)年10月19日


出前も行う支那料理屋で主人は崎間麗徳さんであることがわかります。
参考:グダグダ(β) 崎間麗徳

♢新築移転♢
御披露の為め○爾今
当別大勉強致します
別天閣
電話七二
沖縄日日新聞 1927(大正2)年9月20日
---
♢新築移転♢
撞球場新設
別天閣
電話七二
沖縄日日新聞 1927(大正2)年11月11日(一部編集)


大正二年に新築移転していることとビリヤード台を設置したことがわかります。辻近辺にもビリヤード台を置いてある店はあったようです。
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内地瓦製造販売

内地瓦黒及赤製造販売
内地黒焼瓦一式鬼瓦種々
内地瓦赤焼土管
石灰沖縄瓦一式
右県庁舎新築屋根瓦全部ヲ完納致候間
多少ニ不拘御用命ノ程伏而奉願候
那覇区崇元寺橋通リ
幸地屋兄弟瓦商会
高良郎作
沖縄日日新聞 1920(大正9)年9月8日(一部編集)


大正9年の広告ですが県庁の屋根瓦を納品したということがわかります。各種瓦のほか土管や石灰も扱っていますね。
牧志は瓦製造が盛んだったのですが、この高良さんも牧志の人ではないかと思います。

パンの広告

大正9年のパン屋の広告です。

パン界の革命児生る
加奈陀式 食パン アンパン 高等パン
各種製造販売 卸小売
若狭町大通り(電車乗場前)
地山軒
沖縄日日新聞 1920(大正9)年9月8日


若狭町大通りのパン屋の広告です。
下記サイトを参考にすると大通りには「西武門ー裁判所前ー若狭町ー潟原」の停車場があったようです。
http://www.geocities.co.jp/kikuuj/zatugaku/okiden/okiden.htm
那覇民俗地図をみると西武門と商業学校近くの開洋会館の二ヶ所に停車場らしき印がついています。

「わかさ民俗地図」には西武門のみ「停車場(電車)」と書かれてありますが、電車は昭和8年までで図は昭和19年相当で作図しているようですので時期的に違うのでしょう。20年以上の隔たりがありますからね... 時代も違うので関係ないですが「わかさ民俗地図」には西武門のあたりに「木村パン屋」という名前があります。
ちなみに那覇民俗地図は昭和4年相当で作成されています。

この図は1930(昭和5)年です。那覇民俗地図では久米から若狭へ曲がる角に西武門、商業学校そばのT字型敷地の前に停車場(若狭?)があります。
停車場は「西武門ー裁判所前ー若狭町ー潟原」とあったようですが、「西武門」は角、「若狭」は商業学校近く、その中間にある裁判所の前が「裁判所前」、「若狭」を過ぎて兼久までの中間に「潟原」があったのでしょう。

大正当時の地図はなく広告には住所もないのでここまでです。
とりあえず大正期の若狭にパン屋があったということだけでしょうか。新聞にはパン屋だけではなく食い物屋などの広告も多くみられます。

波上軒

大正の新聞記事から。

氷物色々
急告
一 洋品一切
一 サンドウヰチ
一 アイスクリーム
一 パンコーヒー
一 和洋酒色々
一 ビールサイダー
大勉強
波上軒
大正10年6月18日 沖縄タイムス


縦書きを横にしてるので妙な感じですがご勘弁を。
まず氷物があり、そのほか酒類と軽食があるパーラーのような店でしょうか。住所は書かれてないのでわかりませんが波之上の近くにあったのでしょう。

大正の時点で氷が入手可能だったのがわかります。漁業に必要ということで製氷は開始されたのですが一般庶民間での利用がどのように開始されたのかは調べられていません。しかし市場の魚売りが氷を使っていた記録やこのような広告を見ると民間にも出回っていたのだろうなと思われます。

戦前那覇にも氷屋はいくつかあるようですが、実際に製氷を行っていたのか、それとも垣花の製氷工場のようなところから購入して小売りしていたのかは今のところわかりません。

比嘉賀重商店

昭和3年の沖縄昭和新聞に比嘉賀重商店の広告があります。

琉球名産はこれ
お土産によし 進物によし
拮餅 冬瓜 漬
多少に不拘御用命ください
石門大通り新天地角
拮餅 冬瓜 漬 製造元祖
比嘉賀重商店
昭和3年9月9日 沖縄昭和新聞


元の広告は縦書きでデザインが入ってるので文字にするとおかしくなりますがこう書かれていました。現在拮餅(きっぱん)と冬瓜漬をつくってるとこは謝花桔餅店だけのようですが戦前はいくつかあったようです。
場所は石門通りの辻側、新天地劇場の近くでしょうか。

追記しておくと拮餅と冬瓜漬は別の品物です。なので横書きに直すと妙な感じになってしまっています。広告を画像にするためのカメラやスキャナー持ってないのでめんどくさいことになってますがご了解いただきたい。

戦後の井筒屋

戦前の沖縄そばの名店だった井筒屋です。

後に「毎日2000杯を売る」伝説の名店として語り継がれる井筒屋も同じ年に開業している。
沖縄そば - Wikipedia


1948(諸和23)年4月、開南で新里有四郎が沖縄そば屋をオープン。新里のそば屋は戦前、父親が波の上で経営していた「井筒屋」という有名な店だった。
開南に30000B円で天幕の家を買った。楚辺の規格住宅を崩して、その材料で家を建て替え、そば屋を始めた。4年ぶりに井筒屋の看板が復活した。かつての井筒屋の名前にひかれてお客さんがいたが、旧那覇市の中心街だった波の上に比べると、もうひとつ場所が悪い。
「親父は一等地に出たがってましてね。平和通り付近に出たいというのが口癖でした。国際劇場の隣でやっている高良一さんの食堂に目をつけたんです」
「親父は、あの場所では毎月15000円あげないと儲けにならないと計算しました。しかし、どうも10000円前後の利益しかあげていないようだ、とよんだんです。それで人を介して、ひと月15000円で借りたいということを高良さんに話してもらいました」
話はすぐに決まった。1949(昭和24)年11月、井筒屋は戦後の那覇の中心地に進出を果たしたのである。
1955(昭和30)年12月、新里は沖縄事務機社(現オキジム)を設立。この5年後、井筒屋の看板をおろした。
戦後の沖縄世相史 p74〜77(抜粋と編集)


戦前の井筒屋は西武門にありました。そこがどのような場所であったのかといえば、辻の入り口そばで電車停留所の側、若狭町という庶民街のそばという食堂としてはいうことのない立地です。戦後の井筒屋は開南時代を経て現在のテンブス(国際ショッピンセンター跡/国際劇場跡)あたりにありました。閉店は1960年ということになるでしょうか。



この写真は井筒屋がうつっているかどうかはわかりませんが参考までにあげておきます。

参考:グダグダ(β) 開南通り(50年代) (開南時代)
参考:グダグダ(β) ゆたか屋 (戦前の辻時代)

旭窯業所 2

古波蔵にあった旭窯業所についての検索結果をまとめておきます。
関連:旭窯業所
関連:坂元栄之丞

熊本県天草の丸尾焼のページ。

金澤武雄は、明治24年(1891)丸尾焼2代久四郎の四男として生まれる。明治4
3年佐賀県立有田工業学校窯業科を卒業後、農商務省工業試験所に勤務し試験研究に従事する。
昭和2年には、沖縄県商工技師に任じられ、内務部勧業課に勤務。昭和4年陶管や泡盛壺を製造する沖縄旭窯業株式会社創設に主任技師として尽力。沖縄時代に浜田庄司と師弟関係にあり、浜田庄司を育てる。
昭和7年(1932)2代久四郎が病没したため、天草に帰り3代目として家業を継ぐことになる。

http://www.maruoyaki.com/0621/history/history_maruo.html


『沖縄大百科事典 上 ア~ク』(沖縄タイムス社、1983年)
 p472 「沖縄工業指導所」の項。伝統産業の振興機関。1927年(昭和2)県庁内発足、1932年初代所長として安谷屋正量が赴任、1944年10・10空襲後終止符を打った、とある。

http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000085308


昭和2年に設立された「沖縄工業指導所」に金澤武雄が招かれたこと、昭和4年に「沖縄旭窯業株式会社創設に主任技師」としていたことがわかります。
公的機関の技師がただの民間の会社にいくというのは考えにくく、金澤武雄の今までの職歴も公的な機関が主なようですから、旭窯業は何らかの意図を持って設立された会社ではないかと想像します。

昭和4年12月本県陶業の振興を計画し旭窯業株式会社を設立、推されて初代専務取締役に就任
グダグダ 坂元栄之丞


たとえば「本県陶業の振興を計画し」というのが「泡盛の輸出の為の容器生産」なども含んでいたと考えれば行政がからむことも自然だと思われます(妄想ですが)。このへんは県史など確認すればあっさりわかるかもしれません。

荒焼はまったく別の要因でその伝統技法の崩壊の危機に直面したのであった。
それは明治37、8年の日露戦争を前後する頃の景気の到来で、壷屋では実に30余基の荒焼窯が築かれ、その景気は天をつく勢いだったといいつたえられている。製品は主として軍向けに移出された泡盛の容器としての酒甕類で、一窯実に1000個単位で焼いたというから如何に大量に生産されていたかがわかるというものである。このような大量生産がもたらしたものは、いうまでもなく粗製濫造からくる賃の低下であった。(略)県側も、このように衰退傾向が著しくなった壷屋の陶器のみならず、漆器、織物、紅型等の工芸界の状況にかんがみ、昭和二年「沖縄県工業指導所」(初代所長=安谷屋正量)を開設し、技術指導、新製品開発、業界組織の改善、強化、経営の合理化などにのり出したのである。ようやくその成果がみえはじめた頃、沖縄戦に突入し、その活動は中途で停止のやむなきに至った。しかし、その理念は、はからずも戦後復活されたのであった。
近・現代沖縄の焼物(抜粋と編集)

http://www.zyyms.net/yakimonokingendai.htm


引用したサイトの「近・現代沖縄の焼物」は明治に入って変化してゆく焼き物の背景なども含めた記述になっています。粗製濫造のことにも触れていますが、泡盛関係側の記述にも容器の品質(漏れなど)の問題が書かれてあります。
まとまりはありませんが旭窯業検索関連結果まとめということで。

---
余談ですが当間重剛の弟である重国(次男)は「京都府立の陶器学校に入学、その時代に河合寛次郎、濱田庄司などと知合い、沖縄に連れて来ている」と当間重剛回想録にあります。当間重国は明治31(1898)生まれですから大正ごろの話でしょうか。

明治末期の工場

那覇市史から明治43年の那覇と真和志にあった工場を抜出してみます。

工場 明治43年12月31日現在
柴田製皮所/垣花/柴田政太郎/明治40.8/和象皮 山羊皮/5人
沖縄新聞社印刷/西町/吉野島吉/明治38.11/新聞紙/30人
米田漆器製造所/西町/米田惚四郎/明治20.5/漆器類/5人
山内帽子商会/牧志/山内喜右ヱ門/明治37.11/アダン葉帽子/150人
田中印刷所/東町/田中千八/明治37.5/諸印刷物/10人
南活版所/東町/南嘉次郎/明治25.3/諸印刷物/25人
琉球新報社/東町/渡久地政瑚/明治26.9/新聞紙/30人
米次漆器工場/西町/米次源吉/明治28.5/漆器類/27人
小嶺漆器工場/西町/小嶺幸之/明治28.4/漆器類/10人
三坂鋳物工場/牧志/三坂市兵衛/明治34.3/砂糖車/5人
安里漆工場/若狭町/安里成森/明治28.8/漆器/10人
名嘉真アダンバ帽子製造所/久茂地/名嘉真大奥/明治42.10/アダン葉帽子/26人
共同織工場/東町/渡名喜守重/明治37.5/織物/33人
平尾製帽所/久米/平尾喜三郎/明治42.10/アダン葉帽子/20人
星製帽所/--/----/--/アダン葉帽子/--
浜崎製帽所/久米/浜崎藤次郎/明治41.7/アダン葉帽子/55人
沖縄図書株式会社/東町/知念減助/明治41.4/諸印刷物/25人
国吉染織所/泊/国吉真喜/明治41.2/織物染物/13人
沖縄電気株式会社/久茂地/才賀藤吉/明治43.12/電燈電力/13人
片山組沖縄工業本部/真和志村松川/片山組/明治39.8/アダン葉帽子/350人
那覇市史資料編第2巻下 p430,431(引用と編集)


同じページにある同日現在の「会社」から製造業で上の表にないものを抜出します。

沖縄水産製造会社/西町/明治38.7/水産物製造
沖縄硝子製造所/西町/明治43.10/硝子製造
沖縄貯蔵食品製造会社/真和志字松川/明治34.12/缶詰製造
那覇市史資料編第2巻下 p430(引用と編集)


会社の項目から製造業以外を抜出します。

沖縄肥料株式会社/西町/明治35.2/肥料販売
玉井商店/西町/明治43.2/製茶 荒物 砂糖商
本郷商会/西町/明治43.11/肥料砂糖商
那覇市史資料編第2巻下 p430(引用と編集)


真和志は松川にある缶詰工場とアダン葉帽子工場ですね。その他にも松川には糸関係の端泉社や酒造所等があったはずです。

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