戦後最初期の劇場だった中央劇場です。
沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第四図表を元にしてあります。

上図の緑の部分が中央劇場となっていますがこれだと以前の昭和26年発行の「最新那覇市地図」を参考にした下左図(中央劇場は
D)と合いません。「那覇市旧跡・歴史的地名地図」での位置は下右図になっていて「沖縄主要地・主要商工年鑑」と異なりますが「最新那覇市地図」での位置と同じです。
おそらくこの位置が正しいのではないかと思います。


中央劇場は闘牛場のようなすり鉢型だったという話があります。この一帯は那覇高校側の高台から中央通りの低地に向けて下る地形なのですがそのどこに中央劇場があったのかはちゃんと書かれた書物を見つけきれていません。
「沖縄主要地・主要商工年鑑」を基にした最初の図だと中央通りと平行するようにある通りのカーブ付近にあると読み取れますが、「最新那覇市地図」だと那覇高校の通りから下ってゆく途中にあると読めます。
【追記】『沖縄映画興行伝説』に中央劇場の想像図がありました。http://tokkan-kozo.com/bind3-eikoden/naha/pg01.html#%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8A%87%E5%A0%B4「沖縄主要地・主要商工年鑑」には中央通りなどの通り名も書かれています。中央通横道には旅館や食堂などがありますが昭和中期のゼンリン地図ではほとんどが消えてしまっています。
[1947年]11月下旬頃には、現在の開南バス停付近から中央劇場通りにかけて、物々交換の場として自然発生的に市場のようなものができていた。ヤミ市の草分けである。付近は高台になっていたため、ウィーマチグヮー(上の市場)と呼ばれた。
沖縄・国際通り物語 p65
グダグダ ウィーマチグヮー(上の市場)この中央劇場を中心とした通りは撤去命令によって消えてしまうのですが51年ごろにはまだ店が残っていたようです。もっとも新栄通りや公設市場などにも近いためそれなりに便利な場所ではありました。
中央通りは後年なぜか質屋が集中するのですが昭和中期ごろは西島質店の一軒だけしか質という名前はありません。
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