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潟原葬儀社

昭和3年の広告です。

葬式料値下広告
二等 金貳拾圓也
三等 金拾参圓五拾銭
四等 金拾圓五拾銭
右之通リ値下候也
潟原葬儀社
主任 大城松
沖縄昭和新聞 1928(昭和3)年9月7日


意外と高いもんですね...
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大和葬儀社(内地式葬儀)

大正14年の葬儀社の広告です。

内地式本県式葬儀社開始
葬儀社開始
葬儀社を始めました(場所は東町旧帝国館前)大和葬儀社であります大和葬儀社は(本県式内地式)両葬儀の御用命に応ずべく準備が整って居ります殊に本県式葬儀の主任は與座嘉進氏であります與座氏は十数年前より葬儀社を経営し本県葬儀には最も深き経験を有する人であります何卒宜敷御願ひ致します
内地式 特等より四等まで
本県式 特等より四等まで
内地式本県式 大和葬儀社
森葉船
内地式葬儀 主任 崎山熊太郎
本県式葬儀 主任 與座嘉進
沖縄タイムス 1925(大正14)年2月26日


葬儀社で大正4年の葬儀社開業の記事を取り上げたのですが、上の広告中には大正14年の時点で十数年前より葬儀社を経営しているとありますから明治末には葬儀社はあったのでしょう。
面白いのは内地式のニーズがそれなりにあったと思えるところでしょうか。

沖縄蚕種会社・古田蚕種

国場組社史に掲載されていた「昭和初期の那覇市街図」から沖縄蚕種会社と古田蚕種の位置をかいてみました。



沖縄蚕種会社は久茂地大通り沿い、古田蚕種は大門通りです。戦前の新聞には蚕関係の広告等がけっこうあります。

沖縄大百科では糸蚕ではなく種蚕を中心として生産していたと書かれています。沖縄は桑が落葉しないことや、蚕の病気(微粒子病)が存在しないなど条件が良く、内地では沖縄産の蚕を組み合わせることによって三毛作のように年三回糸蚕を生産できたそうです。

愛球倶楽部

昭和9年のビリヤード場の広告です。

先ず撞球へ
世界的共通の趣味社交的な撞球適宜な運動に富める球具の善い球場へ
波ノ上大通 別天閣内
愛球倶楽部
前ノ毛入口
第二愛球倶楽部
琉球新報 1934(昭和9)年4月12日


愛球倶楽部は若狭の別天閣にあったようです。また第二愛球倶楽部の前ノ毛は辻の石門通りに近いあたりになります。

瑞泉社(製糸)

松川にあった製糸業の瑞泉社です。
まずはグダグダ 沖縄電気鉄道で使わせてもらった図を再掲。
沖縄電気鉄道

坂下と観音堂の間、金城ダムへ向かう道のあたりに瑞泉社はありました。

瑞泉社
製糸を目的とする戦前の組合。「製糸業法」(1932)に基づき1934(昭和9)に設立された<保障責任繭販売購買利用組合瑞泉社>の略称。沖縄の養蚕は大正末期から広く県下に普及し、産繭実績も年々増加していた。これら各地で生産される繭を合理的に処理し、県蚕業の発展に寄与することを目的に、首里・中頭・島尻地区の養蚕家が中心となり、34年に農林大臣の許可を受け、真和志村松川村に組合員4272人、資本金4万円(2万円は県補助)、釜数22基の設備で設立され翌35年から操業を開始した。途中失火による全焼(1936)という災害もあったが、その実績は年々増加。45年の沖縄戦による焼失まで、組合員7300余人、釜数32基のほか、100人収容規模の宿舎、乾繭倉庫など設備も充実し、県下一円を地区として活況を呈していた。
歴代組合長:太田朝敷、高安玉兎、徳本八一
沖縄大百科事典(省略と抜粋)


国場組の社史に瑞泉社の製糸工場を建設したという記録があります。国場組では昭和15年の明治橋の施工がエポックだったようで、それまでの工事は一覧としてあげられているのですがその中からの抜粋です。

瑞泉社製糸工場新築工事 木造2階建 13850円
郡是蚕種会社新築工事 木造平屋 177700円
鐘紡蚕種会社新築工事 木造平屋 
国場組社史第2巻 p7(一部のみ抜粋)


国場組の創設から昭和15年までの間にこれらの製糸関係の建築工事があったということです。
沖縄大百科事典には「片倉・神栄産業・郡是・昭和・昭栄」などの製糸会社が沖縄に出張所をおいていたことが書かれています(下巻 p792)。

琉球製氷株式会社

○○用 冷蔵用 漁業用

家庭用冷蔵庫ヲ安価ニ販売シ、又は賃貸シマス
見本ハ郵便局前正文洋行(電話二五〇)ニアリマス
那覇市山下町2ノ21
琉球製氷株式会社
電話二〇九番
沖縄タイムス 1923(大正12)年5月11日


大正12年の製氷会社の広告です。
冷蔵庫のレンタルを行っていたのがわかりますが氷を入れる氷冷蔵庫だったでしょう。これも自社の氷を販売するための販売レンタル業でしょうね。電力会社みたいだ(笑)。

戦前那覇の生活は市場で小さな商いをしてその代金で生活物資を購入するという感じだったようです。それは基本的に暑さのためものを置いてけないせいでもありますし貧しいということでもあります。こういう条件が沖縄の貧しさの原因でもあったりするわけですが。
戦前の(氷)冷蔵庫の普及率は小さかったと思われますが、それを購入した世帯の生活も変化していったはずで、いったいどのように利用されていたのか興味深いところではあります。
それと同時期の内地ではどうだったんでしょうか。

それと漁業と港と市場があるという条件のお陰で大規模製氷工場があったのは那覇にとっては恩恵でしょうね。カツオ漁業の盛んだった本部などではどうだったのかというのも興味があります。
本部、名護、泡瀬などには旅館・料亭もたくさんありましたから氷の民間での利用もそれなりにあったと思うのですがどうでしょうか。

那覇文具卸商組合

新聞広告にあった「那覇文具卸商組合」を抜出しました。

那覇文具卸商組合
青山文具商店/東町1丁目33番地
小沢文具商店/松下町○丁目番地
柏谷文具商店/天妃町2丁目60番地
千田文具商店/久米町○丁目1○番地
福田文具商店/天妃町1丁目11番地
津堅文具商店/下泉町1丁目1○番地
許田文具商店/久米町1丁目5番地
外間文具商店/旭町那覇駅前
広島屋文具商店/天妃町1丁目5番地
沖縄昭和新聞1928(昭和3)年9月10日(編集と抜粋)


青山は青山書店、小沢は小沢書店(小沢博愛堂)、広島屋は辰野元造さんの店舗でしょうか。
わからないのは新聞広告にもよく名前の見える勉強堂がここに入っていないことです。

がきや商店

戦前にはいくつかきっぱん冬瓜漬の店があります。
前に昭和3年の比嘉賀重商店の新聞広告も取り上げました。

琉球名産 高等御菓子
拮餅冬瓜漬
御土産品としても贈答品としてもこれが一番です何卒多少不拘御用命ください
社会奉仕の大安売です
石門通り
宇留間床
元祖 がきや商店
沖縄朝日新聞1925(大正14)年2月26日


「宇留間床」というのがよくわかりませんが床屋なのでしょうか。○○床という名前は良くある名前で那覇にも支那床や薩摩床などの床屋がありました。

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