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幸楽(料亭)

「なは女性史証言集2」には新村渠周辺の様子で引用した小渡さん(大正4年西原生まれ)の証言の続編があります。
そこから戦後壷屋で開業した料亭の「幸楽」に関わる部分を取り上げたいと思います。

那覇民俗地図には那覇の料亭で取り上げたように幾つかの料亭とおぼしき名前があり、辻には花咲停、三杉楼、幸楽の三つが書かれています。

壷屋の幸楽は1949(昭和24)年9月13日付けのうるま新報に開業広告が載せられています(証言集2のp73に写真)。

ライカムで働いていた時、戦前働いていた料亭「幸楽」の女将・親川(信子)さんが私の居所をつきとめて、何度訪ねて来ました。「那覇の壷屋で幸楽を再建したいので力になって欲しい」と懇願されました。
幸楽の敷地は300から400坪くらいあり、その一部に仮小屋の様な料亭をかまえていました。日本復帰までに何度か増改築をしています。

「幸楽」は「左馬」や「四つ竹」と並ぶ一流の料亭で有名でした。当時は「那覇」や「松乃下」はまだなかったとおもいます。
女将の親川さん(42歳)と私(小渡35歳)、それに私と同年代のTさんの三人が三味線と太鼓等の音曲を受け持ち、踊り子を含めた給仕が15、6人。台所は板前一人、買い出し係に一人、味付けをする人が一人の計三人は男性、他に洗いものをしたりする雑用係に女性二人、下足番を加えると、みんなで25、6人くらいはいたと思います。
給仕たちは戦前は辻上がりの人が多く、礼儀作法がよく仕込まれていましたが、戦後は素人が多くなり、また世の中も変わってきたので、女将が特に厳しく躾けるということもなく、(略)
なは女性史証言集第二号 p73からp78 省略して抜粋


壷屋の幸楽は現在のマクドナルドの位置です。
戦後の幸楽
参考にしたのは70年頃のゼンリン地図です。GoogleMapで見るとマクドナルドのあるビルはメゾン幸楽となっていますね。

幸楽は主席、市長、医師、警察など偉いさんが顧客のようなので格はあったのでしょう。
幸楽の廃業がいつであったのかはまだ調べていませんが、廃業は栄町の料亭の衰退と同じ頃であったのかもしれません。
小渡さんは復帰前年の1971年に57歳にして三線弾きを引退し普通の主婦になったそうです。
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若狭病院

若狭にあった若狭病院です。

俗称はケンサヤーですがこれは辻の性病検査と治療をここでやっていたことによるようです。

辻の妓たちにとって一番嫌なことは性病の検査を受けることだった。
検梅は明治30年から実施、同33年に若狭病院が開設してからは、娼妓は毎週一回、同病院で検査を受け、罹患者はそのまま強制的に入院させられた。芸妓は月一回、ムラヤー(組合事務所)で医師が出張して来て行った(同じように客を取っても芸妓と娼妓では検査が異なった)。
この検査もナシングヮやアトゥミングヮなどは受けなかった(この人達は無鑑札が多かった)。
なお貸座敷業の認可を受けたら実際にはお客をとっていても検査をまぬがれたので、貸座敷の認可の取れる19歳になるとナシングヮなどはいそいで貸座敷の認可を受けた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p147


ナシングヮはアンマーが産んだ子、アトミーングヮはアンマーが後継者にするためつれてきた故郷の姪や親戚の子です(同上 p138)。
ちなみにナシンチャーは自前にならない抱え妓が産んだ子、チカネーングヮが5、6歳のころ買って来た子、サラウティが17、8歳になってから辻に来た妓と説明されています。
※辻は独自の風習などがたくさんあるので当ブログでは基本的に説明は省きたいと思います。

「なは女性証言集」という那覇で生まれた女性の生活史インタビュー集があるのですが、そこで明治36年(1903)生まれの島袋さんという県立病院で産婆をしていた方のインタビューの中にこういう話があります。
[県立病院の]婦人科は子宮後屈、前屈、卵巣炎なんかがあった。梅毒なんかもあったけどあんまり来なかったねぇ。伝染病患者には当たってみなかった。チージ(辻)の人達は若狭病院で一週間に一回検査、波上に「饒平名」という病院があって、そこで検査してから「検査ヤー」の若狭病院に行くの。
その頃は、県立病院と泊に「屋富祖医院」、それから「大久保医院」。私たちが[県立病院内の産婆学校を]卒業してから仲地紀公先生が西本町に開業なさって、それくらいだね。夜勤は週に一回くらいあったかねぇ。
なは女性証言集 p14 (括弧を付記)


最初の図は「わかさ民俗地図」を参考に病院を書き入れました。そのほか赤が飲み屋、水色が飲食店です。

沖縄電気会社

現在の久茂地小学校のそばにあった沖縄電気会社です。
沖縄電気

電気会社に関してはweb上に詳しいpdfがあります。
Google 検索:沖縄の電気昔話

そこから引用してみると
•明治41年に寄留商人によって那覇電気の設立が試みられるが失敗
•明治43年4月に沖縄電気として設立
•八重山の石炭をイギリス製のエンジンで燃やして発電、100キロワット
•3000灯に配電し、辻から点灯が始まった

沖縄電気は才賀藤吉により設立されたようですが、この才賀という人物は全国規模で事業を展開するかなりの大物であったようです。
沖縄電気は那覇首里間の電気鉄道にも着手しますが直後に才賀の経営する才賀電機商会が破綻、沖縄電気は他の会社の管理下で事業を継続します。ですが鉄道は経営不振のため1933年に停止します。
webではWikipedia等に項目があり概略はすぐわかるのですが沖縄の電気昔話は裏話(扇風機の貸し出しとか)などもあり面白いので一読をお勧めします(pdfでめんどくさいんですが)。
本当かどうか分からん話ではありますけども例の小禄の老人の話を書かなかったのは良心だったんでしょうか(笑)。

戦争で灰燼に帰したあとに琉球電力公社が設立されます。
民間・米軍ともに、発電機を利用して細々と電気の需要をまかなっていた。米軍は浦添村(現、浦添市)牧港に牧港火力発電所を建設し、米軍の需要は全て満たされ、余剰の電力を民間にも供給することになった。
1954年に米国民政府は牧港火力発電所から発電した電力を供給する機関として「琉球電力公社」を設立し、発電と送電業務を担当することになった。
琉球電力公社 - Wikipedia


【追記】rememberingokinawaに廃墟になった発電所と発電機の写真がありました。

http://www.rememberingokinawa.com/photo/1945_hofer_photos_pg1/38
http://www.rememberingokinawa.com/photo/1945_hofer_photos_pg1/39
http://www.rememberingokinawa.com/photo/1945_hofer_photos_pg1/40

前田硝子工場

硝子工場
過去の那覇市史ニュースから辻原近辺の硝子工場について触れている文があったので引用します。
那覇民俗地図だと辻原墓地の周辺に硝子工場が二箇所あってどちらが前田硝子工場なのかはわかりませんが、バクチャヤー近辺の風景や工場の暮らしがわかります。
文中の真教寺や三杉楼は下側の硝子工場の更に下辺りになります。

昔あった前田硝子工場
大正時代6〜70年前にも、那覇市内もバクチャヤー海岸に、細々と硝子製品を造っていた小さい工場があった。うろ覚えではあるが、真教寺横の道→三杉楼裏側の崖下道を北進すると、北東方に波の上宮が真向に見える、荒涼たる海岸に出る。そこで左折して暫く行くと、アダンやユウナの木立に囲まれて前田家の硝子工場があった。(略)住居は長屋風の殺風景なものだったが、裏の工場は広くて煉瓦積みの古い大きなカマドがあったように思う。(略)ランプのホヤ・笠・石油壷またはラムネ瓶・風鈴などにしていた。

大正6年頃から末年までに2、3回。昭和になってからの訪問は記憶に無いから何年頃に前田家が移転したかはわからぬが、昭和6年頃にあの辺を訪ねたら、昔の家屋は無く、草茫々たる中に煉瓦塊が散らかっているだけだった。

それにしても念のためと、東恩納先生の南方風土記にあたったら、「潮の崎:シューヌサチ 西新町真教寺の裏手から今の硝子工場付近にかけては一面の砂汀をなし」云々と、記憶に残る前田工場の前身らしい硝子工場についての記述。同先生の「今の」は、明治38、39年頃になるだろうから工場はその前に既に建てられていたはず。
(※省略と編集をしています)


殺風景な海岸線のそばで長屋に住んで硝子製品造ってたわけですね。
省略した部分で「戦後の硝子工芸とはつながりがなさそうだ」と述べられています。昭和6年(1931)には無くなっていた硝子工場と戦後しばらくしてからの硝子製品作りに人のつながりがあるのかどうかは琉球ガラスの歴史を調べればもしかしたらでてくるのかもしれません。

ちなみに寄宮には硝子工場通りという通りがあり、その名の通り工場があって琉球ガラス製品を作っていました。薄暗くなったころに覗いて見ると赤い炎が見えたもんです。

追記(2011.07.18)
昭和12年の人名録には硝子工場で前田という名前があります。

那覇市西新町3ノ24 電69
硝子工場 前田龍五郎
日報の沖縄人名録 昭和12年版


関連:グダグダ(β) ガラス工場(戦後)

白山療養園

泊後方の泊後原の高台にあった白山療養園です。

web上に写真がありましたのでお借りしました。m(_ _)m
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3116147.html
白山療養園
1911(明44)年に金城清松により設立された結核療養所で敷地10200㎡、建物726㎡とかなりの規模だったようです。また全国で14番目、地方圏としては3番目という先進的取り組みで、戦後も金城医師は結核予防活動などいろいろ活躍されたようです。
金城医師は北里柴三郎の北里研究所出身ですから当時のトップクラスの医師だったはずです。素晴らしい人がいたもんですね。

マルキンデパート・リウボウ・山形屋

マルキン・りうぼう

戦後ヤミ市が神里原周辺に発生し、その後国際通り周辺に繁華街が移行します。
参考:経済の背景(2)
>那覇市の壷屋から神里原の問屋街、平和通りの市場街も形成され(略)この頃小規模ながらも神里原に現在の山形屋、リウボウなどが開店をみている。
>1955年にはバスターミナルが統合建設され(略)幹線は牧志を中心とする国際通りに移転し(略)商業の中心地も国際通りに移っていった。
>1954年にはリウボウが、1955年には山形屋が現在の場所に移転


とはいえ2010年現在リウボウは位置を変え、山形屋は無くなってしまいましたからね...
大洋劇場周辺では真和志民俗地図、ゼンリン地図(1969年)、昭和26年の那覇図を参考にして大洋劇場の位置を示しました。大洋劇場はわりと後まで残っていたのでわかりやすかったというのもあります。
神里原に存在したりうぼう(マルキンデパート)と山形屋の位置を表示しているのは昭和26年の「那覇市地図」です。
この那覇市地図は手書きの概略図のようなものであまり正確ではありませんが、大洋劇場の横にマルキンデパート(二階にりうぼう)、マルキンデパートの道向かいに山形屋があったというのはかろうじてわかります。ということで最初に示した図もその程度だということを了解ください。

りうぼうは琉球貿易庁の関係者により唯一貿易を認められた「琉球貿易商事株式会社」として設立されましたが、貿易規制解除も「りうぼう」として事業を継続させました。神里原でのスタート時はマルキンデパートの二階にあったようです。

【追記】宮里[辰彦]は崇元寺の社屋を売り、丸金デパート二階に入る。
1952年11月20日丸金デパート二階に開店。2年後(1954)に松尾へ。
国際通り物語

たから百貨店

検索中に面白い絵はがきを紹介しているページを見つけました。
たから百貨店
「沖縄の絵葉書 国際通りのたから百貨店」 - オニャンコポンなものたち
http://blogs.yahoo.co.jp/kanemaru1967/41702721.html

※画像はお借りしています。

絵葉書の風景は現平和通り入り口をむつみ橋方向からみた様子だと思われます。
むつみ橋付近図
ゼンリン地図69年版から作図してみました(道路などは現在のままです)。
中央赤(の右側)がたから百貨店だと思われます。螺旋階段の建物がたから百貨店ではなく、螺旋階段の隣がたから百貨店で、螺旋階段の建物はゼンリン地図では友寄玩具店になっています(ゼンリン地図ではたから百貨店はすでに存在していません)。
オレンジ色はパチンコ店ですがどこも小規模です(名前からパチンコ店ではないかと思われる店舗はまだたくさんあります)。
緑色は並里百貨店となみさとのその他の店舗です。

沖縄タイムスフォトギャラリーに昔の国際通りの写真がいくつかありました。
•1955年撮影の国際大宝館前(現三越前)
右側に螺旋階段の建物が見えています。
•1955年撮影の国際通りむつみ橋
中央になみさとがみえます。後年のなみさと百貨店(現OPA)の位置だと思われます。
•1955年撮影の国際通り交通整理
右手に友寄百貨店という名が見えます。おそらく隣はたから百貨店でしょう。
•1956年撮影のモダンな百貨店
友寄百貨店(螺旋階段)と隣のたから百貨店全景。冒頭にあげた絵はがきでは不鮮明だった建物の境界がはっきりわかります。

大越(後年三越になった)やその隣の大宝館(東宝館)は別の機会に書きたいと思います。
作図した図がゼンリンの69年版をもとにしていますが、タイムスの写真はだいたい50年代半ばの国際通りの勃興期で結構違いがあります。高良一(肇と書かれている書物もある)の最盛期でもありますなぁ(笑)

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