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国際ショッピングセンター(五味観光開発)

1973(昭和48)年6月25日の沖縄タイムスに国際ショッピングセンターの分譲広告があります。募集は地下1階名店街で192〜389万円の価格がついています。
オーナーは五味観光開発で本社は東京、広告内の地図を見ると現てんぶすの位置(牧志2丁目130番地)です。
概要の欄から抜き出します。

●構造 鉄筋コンクリート造/地下2階-地上12階<地下1階〜地上4階(完成)=ショッピングセンター・ショールーム、事務所。地上五階〜地上12階=ホテル(昭和50年3月完成予定)>
●確認番号 2002号<71年6月25日>
●竣工 昭和47年10月


73年6月の時点では4階まで出来上がっていて、昭和50(1975)年には12階まで増築する予定だったようですが、結局2000年の取り壊し時も4階のままでした。
五味観光開発は2002年に倒産しているようです。

五味観光開発(株)別荘地分譲、ホテル「町田スカイプラザ」経営。資本金5000万円、東京都町田市原町田4-19-11、五味健社長
1969年(昭和44年)8月設立
2002年(平成14年)7月4日、破産宣告。破産管財人弁護士1人選任。負債は約74億5000万円

http://www1.odn.ne.jp/~cjq24190/insolvent%20cases/21bankruptcy02.html


安里のスカイプラザホテルもここのものだったよう。

那覇スカイプラザが閉鎖
■五味観光開発破綻で 「ホテル単体は順調だった」

http://www.sokuhou.co.jp/backno/616.html
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那覇タワー開業広告

別記事で那覇市内の建築物についてまとめているのですが、そこで那覇タワーについての情報をいただきました。1973年6月26日開業とのことなので当時の新聞の開業広告を確認しました。

http://www.zukeran.org/shin/d/2011/09/13/naha-tower/

那覇タワーについてはよくわからないことが多くてなにか情報がないかなと思ったのですが残念ながら目新しい情報は無し。広告はこんな感じ。

新生・観光おきなわの新しいシンボル那覇タワー完成
回転展望台で那覇全景が一望に見わたせる
19〜17F ブルースカイラウンジ
7F 和食・寿司 都、中国料理 龍園、那覇タワー会館
代表者 高良定尚
宝不動産合資会社
株式会社那覇タワー
沖縄タイムス 1973年6月26日


同じ広告内には、ブルーシールの店「くるみ」が旧本店の位置(1階タワー入口横)にオープンとあります。また軽食コーナーくるみはグループ店だったようで平和通りに本店、並里店が旧なみさとデパート、姉妹店としてグリルジュネが広告内に名前があります。

なみさとの高良盛一さんやセントラルホテルの高良嘉永さんは牧志の人ですが、高良定尚さんも牧志の地主だったのではないかと想像します。
元駐車場部分(マキシー)に関してですが、当時の交通渋滞や不法駐車による損失は凄まじいものだったようで、その対策として行われた面もあるようです。6月28日には有料駐車所が続々と作られているという記事でとりあげられていますし、連載特集記事は「赤信号 狂った交通環境」です。

【追記】業態について。
宝観光開発が破産申請/負債222億、マキシーも - 琉球新報(1999年9月1日)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-95201-storytopic-86.html

73年の自動車学校

1973(昭和48)年10月31日現在の那覇市内の自動車学校です。

天久自動車練習所
奥武山自動車練習所(西3-10-35)
沖縄自動車練習所実習地(西3-5-1)
那覇自動車学校練習所(辻3丁目地先埋立地)
美栄橋自動車練習所(泊1-4-9)
---
壺川自動車学校(名嘉地243-2)


奥武山自動車練習所は新旧住所検索システムで検索すると現在の西3丁目6番あたりで、パシフィックホテルの向かいくらいになるようです。沖縄自動車練習所実習地の「西3-5-1」も同じく西3丁目6番あたり。
ちなみにパシフィックホテルはオープン広告によると1973(昭和48)年6月25日オープンです(パシフィック観光産業株式会社/国吉真市)。

那覇自動車学校は現在の波の上自動車学校、壺川自動車学校はゼンリン地図69年版では小禄高校隣にあります。

1970年5月の西町。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MOK701&courseno=C11&photono=13

1977年の西町。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=5&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19

沖縄協同バス株式会社

50年代の沖縄協同バスの広告。

沖縄協同バス株式会社
取締役社長 平尾喜一
専務取締役 新垣義堅
常務取締役 久保田○○ 宇良宗樽 宮城梅吉
取締役 前上門昇 宮城○正 
監査役 喜納豊昌 大村修一
本社 牧志町サイオン橋際
乗場
•本社前=国頭、中頭、泡瀬、与那原、知念方面行
•開南=糸満、港川、島尻各方面行
名護出張所=旧後裔バス跡
本部今帰仁方面行
西東廻り那覇行
沖縄実業と文化人名録 p144(抜粋と編集)


平尾喜一と新垣義堅の名前がありますね。
「あらかき平尾バス」はこの二人が作ったものと考えていたのですがWikipediaでは「協同バス」と同時期に存在していたように読めます。

戦後の沖縄本島のバス路線事業は1950年4月1日に会社を設立した沖縄バスに始まり、1950年 - 1951年には14社(沖縄バス、共同バス、首里バス、三共バス、沖縄交通(桜)、那覇交通(銀)、合同バス、昭和バス、あらかき平尾バス、協和バス、東陽バス、第一交通、青バス、那覇陸運)が乱立。
琉球バス交通 - Wikipedia


グダグダ(β) 昭和26年のバスでの図を再掲。1951年です。

那覇交通(銀バス)

銀バス(那覇交通)です。Wikipediaからまとめてみます。

•1951年5月8日 「那覇交通株式会社(銀バス)」誕生、戦後の本島で6番目のバス会社として設立。
1950年~1974年頃 「沖縄交通(桜バス)」と「那覇交通株式会社(銀バス)」が統一。「那覇交通株式会社」になる。
•1974年8月1日、沖縄総合事務局の指導のもと「那覇交通株式会社」に「株式会社首里バス」を編入。
•2004年7月18日、「那覇交通株式会社」から営業の全部を譲り受け「那覇バス株式会社」として営業開始。
那覇バス - Wikipedia


復帰あとしばらくは首里バスはあったんですね。沖縄交通(桜バス)との統一は50年から74年となっているのでよくわからないです。
首里バスその他も引用してまとめます(那覇交通以前の項から)。

•1935年1月27日 「首里市営バス」が那覇市~首里市間で運行を開始。当時那覇・首里間は「新垣バス(後の琉球バス/琉球バス交通)」が運行されていたが競争の結果首里バスの独占運行に。
•1950年7月26日 「首里市営バス」が那覇市~首里市間の運行再開。
•1951年頃 米軍の指示により「首里市営バス」を民営化「株式会社首里バス」誕生。
•1951年3月6日 「沖縄交通(桜バス)」誕生。
那覇バス - Wikipedia


最初の引用では首里バスは1974年に那覇交通に編入されていますので、1951年の民営化から復帰あとまで株式会社首里バスは存続。
「沖縄交通(桜バス)」は1951年誕生となっていますので戦後経済スタート時に多数誕生したバス会社のうちの一つであること、そして「1950年~1974年頃 「沖縄交通(桜バス)」と「那覇交通株式会社(銀バス)」が統一」ということから那覇交通に統一されてしまったことがわかります。

沖縄バス

栄町にあった沖縄バスです。沖縄バスのサイトにはこうあります。

当社の前身は、昭和22年8月に米軍統治下でスタートした公営バスであり、当時は米軍のトラックにホロを掛け、後方のはしごから乗り降りする状況でありました。その後、昭和25年1月に陸運行政が沖縄民政府に移管されたのを機会に、その時の公営バス全職員が株主となり、同年4月1日に沖縄バス株式会社を設立しました。
http://okinawabus.com/modules/company/company.html


Wikipediaの沖縄バスの記述をまとめてみます。

戦後のバス事業は、1947年8月ごろに佐敷村(現南城市佐敷)馬天に開設された公営バス管理所によるバス事業が始まりである。1949年8月ごろに営業所を佐敷村馬天から那覇市安里栄町に移され、公営バスは1950年3月末頃に廃止。1950年4月1日に設立された民営バス会社である沖縄バスに引き継がれた。
1950年4月1日 公営バスを引継ぎ、民営バスの一つとして資本金3,000万円(B円1,000万円)で沖縄バス株式会社を設立し、営業開始。5月23日から営業運行開始。

1960年7月28日 観光事務所開設(那覇市泉崎)。
1987年7月25日 那覇市安里より那覇市泉崎へ移転。
1990年11月14日 旭町整備工場改築・バス車庫・観光部事務所落成。
1991年1月17日 観光部移転(那覇市旭町42番地3へ)。
1991年11月15日 観光部駐車場跡に沖縄バス本社ビル竣工(那覇市泉崎一丁目10番16号)。本社事務所4階、定期観光バスのりばを1階へ、2・3階テナント室として賃貸、同時に6階建駐車場建設し、リウボウに賃貸。
沖縄バス - Wikipedia


戦後経済のスタートが50年ですからその頃のスタートということになります。
50年代の「沖縄実業と文化人名録/上原軟剛編」にある沖縄バス株式会社の項目から抜き出します。

沖縄バス株式会社
本店 真和志村安里(電話ナハ58)
支店 名護町東区(電話ナゴ18)
出張所 那覇・開南・糸満・石川・与那原・ヤケナ・辺土名・本部・今帰仁
社長 中山良輔
事務 島袋慶雄
取締役 稲嶺盛義 花城清珍 宮里松助 内間薫 宇良宗朝
監査役 大城嘉盛 當山正栄 宮城豊源


樋川大通り(52年)では開南バス停は「沖縄バス 糸満線のりば」、牧志大通り周辺(50年代初期)ではグランドオリオン通り入口あたりに「沖縄バス那覇営業所」があります。
87年に栄町から泉崎に移転した本社が97年の本社ビル竣工までの間どうなっていたのかはWikipediaからはよくわかりませんでした(後日追記します)。

美栄橋自動車練習所

ゼンリン地図69年版に美栄橋自動車練習所がありました。ちょうど天久と上之屋の境界あたりで当時は道路から向こう側は埋立予定地となっています。


国土地理院の1970年撮影写真(閲覧可能)。

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MOK701&courseno=C10&photono=14

国土交通省の1977(昭和52)年撮影の写真にはコースだったらしき跡が見えます。

整理番号 COK-77-1
地形図番号 NG-52-27-7
撮影コース C56


【追記】電話帳から抜粋。翌年の電話帳の住所は住所表示の変更により泊1の4の9となっています。

美栄橋自動車練習所
事務所 崇元寺1の143/実習地 安謝埋立地
昭和47年6月30日現在


参考:グダグダ(β) 自動車教習所関連

かめや(えびす通り入口)

Remembering Okinawaから絵葉書。着色された写真のようです。

http://www.rememberingokinawa.com/page/cpc_naha_shuri_1
場所は新栄通りと浮島通りの交差点で桜坂方向を望むアングルですね。左の「かめや」がえびす通り入口、右の木造建築が丸国マーケット。左側のコンクリ建築が十字屋楽器店、背景には萬田ドレスメーカー学院の白い建物が見えます。さらに後方は希望ヶ丘服装学院?かめやの後方には丸廣本店と見え、右側の建物の壁には食堂?と書いてあります。
参考:グダグダ(β) マルクニ

以前取り上げた写真。

http://mickmc.tripod.com/hyatt118.html
丸國マーケットかその隣り(三共デパート、新生デパート)からの撮影だと思われます。

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