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沖縄土地建物株式会社/沖縄土地住宅株式会社

昭和12年の「日報の沖縄人名録」から。
「沖縄土地建物株式会社」と「沖縄土地住宅株式会社」です。

沖縄土地建物株式会社 那覇市西新町3ノ14
取締役 社長/尚順
取締役/仲里朝茂、護得久朝章
監査役/志堅原良起
主任/瀬嵩政達
社員/新里善保、糸満朝茂

沖縄土地住宅株式会社 那覇市西新町3ノ51
社長/中村俊夫
取締役/武島朝英、仲尾次政潤
監査役/比嘉良実、尚謙
社員/知念宏保


前者は見るからに首里系の会社。後者も仲尾次(那覇士族)、尚謙の名が見えます。
那覇長者番付(S12) 5には「8●01/90413/(貸家)し堅原良起」とあります。

参考:仲尾次政隆 とは - コトバンク
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沖縄染友会

昭和12年の「日報の沖縄人名録」から「沖縄染友会」。

上ノ蔵町2ノ50/組合長 古城富太郎
天妃町2ノ24/副組合長 辻之内多吉
上ノ蔵町2ノ65/幹事 会計 中島信行
久茂地町2ノ57/幹事 瀬名波良持
天妃町3ノ1/幹事 濱崎正雄
天妃町2ノ51/井之口登助


松尾に古城京染店というのがありますが、ここは寄留商人系の人だという話をうかがったことがあります。瀬名波さん以外は内地姓で住所も上之蔵と天妃町ですので寄留商人なんでしょう。

戦前の味噌醤油組合

昭和12年の「日報の沖縄人名録」から沖縄味噌醤油醸造業組合の項。

組合長 山田親徳
---
久茂地町2ノ60/幹事 友井新太郎
垣花町1ノ13/玉城佑高
天妃町1ノ3/濱田好平
前島町2ノ90/浦崎善昌
若狭町1ノ15/与座嘉亨
久茂地町2ノ60/友井熊太郎
若狭町1ノ77/木下藤吉
西本町5ノ1/泉 長賢
東町2ノ6/宮城安一郎
上ノ蔵町1ノ52/福岡 叶
垣花町3ノ95/具志堅宗演
---
赤平町(1)、汀良町(1)。儀保町(4)、平良町(1)、大中(1)
---
真和志村字安謝1838/仲本朝夫
上ノ屋1240/浦崎善徳
日報の沖縄人名録(昭和12年) (抜粋と編集)


グダグダ(β) 濱田平畩 (寄留商人/天妃町の浜田醤油)
グダグダ(β) 木下藤吉(木下味噌醤油/木下籐吉商店) (寄留商人/若狭の木下醤油)
グダグダ(β) 赤丸宗/黒丸宗 2 (垣花で戦前具志堅味噌醤油)
グダグダ(β) 上之屋通り (通りに浦崎という醤油がある)
グダグダ(β) 統計書での醤油・味噌製造業 (明治43年の統計書)

製糸(グンゼ・新あやべ・片倉)

「日報の沖縄人名録(昭和12年版)」にある沖縄県蚕種業組合の組合員から3名だけ抜粋。

真和志村字安里217ノ1
片倉製糸紡績沖縄蚕種製造所 斉藤寅三
市外壷屋町206
郡是製糸那覇支所 岡野一二
那覇市牧志町2ノ295
新綾部製糸沖縄蚕種製造所 永室光蔵


図は安里の桑畑での再掲ですが、ポインタ位置の沖縄製帽は戦後割当土地制度によりここで開業して後年片倉製糸から土地を買い取ったそうです。またこの一帯は蚕用の桑畑だったとのこと。
現壷屋小は新綾部。

壺屋206はこのあたり(参照:ゼンリン地図69年版)。
この位置は戦後琉球新報(うるま新報)があったんではないかと思います。51年の地図をもとにしたではうるま新報がこのあたりにあります。

参考:グダグダ(β) 瑞泉社(製糸) (戦前の製糸業)

那覇タワー、マキシーのテナントほか(87年)

87年の那覇タワーとマキシーのテナント名です。

那覇タワー
(2F)のは歯科、スタジオNo.1/(3F)空白/(4F)ヴィクトリア/(5F)松永光新法律[事]、理容室B&B、オートクチュールオーロラ/(6F)三越呉服売場/(7F)パブマリーナ、那覇タワーホール、中華料理龍園、都/(8F)イタリアンレストラン ポポロ、ビヤガーデン ニュートーキョー
(17F)スターライト/(19F)フィジー

マキシー
(B1)ハンデーマン/(B2)ディスコ コナガーデン、ハンデーマン
(M1)ドウファミリーショップ、202、ベルジュ、サーカス、マドモアゼル、パム、龍華、ジーンズショップU、ププル、パーム
(1F)マキシム、原宿デリカ、サーカス、マリオンクレープ、アストロブティック、ギフトゲート、ロードセル、キャン、エミコ、レストランくるみ、エミコ
(2F)エンゼル、シューズライフプラザ、ヴィニー、アローアロー、クリフ、エルカ、鈴円、鈴丹、パンデーロ、クルー、プレスタ、ラムール、のは歯科、スタジオNo.1、アレンジテラス蘭
(3F)たいこ茶屋、イズナ、アメリカングラフティ、タカギ、カフェーテラス田中屋、ビックツリー、ウェストエンド、ジーニングコープ
(4F)那覇タワーランド
(5F)バザールフロアー、オーロラ、チャンピォン
(6F)マキシー管理事務所、結婚式場八雲殿、三越(呉服売場)
(7F)那覇タワーボール、フォート松田、都、マリーナ、龍園、ビューレックス杉

昭和12年の製麺業

「日報の沖縄人名録(昭和12年版)」から製麺業組合を抜粋します。

喜屋武元持 那覇市西本町4ノ18
西村定造 那覇市久茂地町1ノ23
儀間正忠 那覇市上泉町1ノ21
楠瀬忠重 那覇市西本町1ノ1
日報の沖縄人名録(昭和12年版)



国場組社史掲載の「昭和初期の那覇市街図」には西本町1-1あたりに製麺所とありますが、これは楠瀬忠重さんの製麺所ではないかと思われます。
過去記事から。
グダグダ(β) 西村定造 (寄留商人/西村こんにゃく)
グダグダ(β) 喜屋武元持
グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 3 (東町に茶商で儀間正忠の名がある)

茶商の儀間正忠は胡国善だと思いますが製麺業もやってたんでしょうか?
麺というと沖縄そばを想像するんですが、沖縄県人はそーめんじょーぐーでもありますので沖縄そばとは限らないと思われます。

自動車教習所関連 2

自動車教習所関連の続き。

1968年の那覇の自動車教習所(練習所)を「沖縄人名年鑑」から抜き出します。

沖縄自練 那覇市西新町3の80 比嘉勇輝
奥武山自練 那覇市西新町3の82 喜久里寿美
美栄橋自練 那覇市字松尾183 浜川恵亮
壺川自練 那覇市字古波蔵337 浜元盛順
那覇自練 那覇市辻3丁目埋立地 高良定尚
沖縄自動車学校 那覇市字松川288 上原吉男


ほかには糸満自練、馬天自練、南風原自練、コザ自動車講習所、室川自練、普天間自練、安慶名自練、宜野湾自練、カデナ自練、大謝名自練、石川自練、ナゴ自練があったようです。

ゼンリン地図69年版での西新町。Aは「自練アト アキチ」、沖縄ダイハツKK(B)、沖縄ガスタンク(C)、沖縄自動車教習所(D)、那覇自練(E)です。赤く囲った部分は後年銀バスの三重城営業所でしたが69年の時点ではそうではなかったようです。


以下余談。
同じくゼンリン地図69年版からで、左図中のAは「那覇交通 銀バスKK」、Bは銀バス西本町営業所で赤い敷地は銀バスセンター、Cは銀バス車両置場となっています。右図も69年版の壺川で、赤が「那覇交通 銀バスKK」、隣りにある緑はオキコ株式会社です。

那覇農産加工場(古波津清昇)

拓南製鉄の古波津清昇さんのエピソードで面白いとこがあったので引用します。

発電機をおこして附近の美粧院(パーマネント)や民家に送電したり、ランプ暮らしの那覇市内で初めて電燈を灯したり、現在の新天地市場内で「那覇農産加工場」の看板をかかげ、精米、製粉、圧麦、製麺にとりくむかたわら、アイスケーキや冷凍菓子、玄米乳、豆乳なども製造する。あるいはアメリカ製粉乳を仕入れて乳酸飲料(ヨーグルト)を最初に手がけたのも古波津会長であった。
沖縄経営者列伝 p86(抜粋と編集)

東風平村にはまだ一軒もなかった精米所を旧軽便鉄道跡の[東風平村]屋宜原駅跡に建設することにした。だが業者を信じ「あなた任せの武士の商法」で見事に失敗してしまった。
再建策を模索する日々を重ね、必死の思いで製粉機械を設計。自作の図面を持って西原村の鉄工所に製作を依頼し、2ヶ月後には素晴らしい高能率の製粉機が完成した。
当時、米国政府の配給物資にトウモロコシが大量に配給されたことを知り、那覇市の神里原に住む知人の軒先を借りて、製粉機を設置することにした。トウモロコシの製粉事業は早朝から夜遅くまで人が列をなし大繁盛した。
1年後には資金の余裕もでき、本土から精米機と籾槢機、県内で米国製エンジンを購入した。閉鎖していた東風平村屋宜原の精米所を再稼働。今度は機械の調子も良く、こちらも大繁盛となった。
那覇での事業も好調で、神里原から平和通りに移り、精米や製粉だけではなく、農業試験場から休止中の冷凍機を借りて改造しアイスケーキも製造した。そのころの平和通りは香港や台湾、本土からの密輸品や米軍からの横流し品などを持ち寄る人が自然発生的に増えて、真っ昼間から堂々と闇市が開かれていた。
食品加工事業を拡大させようと、那覇市農業会が管理していた現在の新天地市場の土地250坪を買い受けた。当時は四方を川に囲まれた三角島で埋め立てが必要な土地だった。米軍が放置した鋼管や電柱を川の上流から下流へと川沿いに引っ張って来て橋をかけ、数台の荷馬車を雇って土を運んで敷地を造成した。大型テントを2棟張って機械を据え付けて工場にし、トタン屋根6坪の住宅を建てた。
同地に移転した翌年の1952年に琉球復興金融基金が発足したので、融資を受けて、テント張りを木造セメント瓦屋根45坪の工場に改築し、「那覇農産加工場」の看板を掲げた。そこでは、精米、製粉をはじめ、豆腐、アイスクリーム、製麺、漬物などあらゆる食品加工を手掛けた。
豆腐製造はまず大豆から油を搾り、おからでみそを作った。油に香水を混ぜて整髪油として売り出したらいずれも飛ぶように売れた。そのうち八重山や久米島、徳之島、奄美大島などから買い集められた麦やもみなどを仲買人から一括して購入し、離島からの物資入荷による市況を見ながら精米や押し麦などの加工販売をするようになった。
---
[61年設置の製鋼工場建設の資金難のため]そこでやむなく、那覇市松山の現日銀那覇支店跡地と、苦労して埋め立て造成した那覇市6区(現新天地市場)の那覇農産加工場の土地と建物を売却して、その代金で輸入機械の代金の決済をした。
p247
沖縄列伝 戦後史の証言者たち p238~241、p247(抜粋と編集)


拓南製鉄(昭和31年6月1日に壺川に設立)の歴史についてはこちら。沖縄県内の鉄筋とか釘はほとんどこちらの製品ではないでしょうか。

http://www.takunan.co.jp/takunanseitetsu.html

「沖縄列伝 戦後史の証言者たち」(琉球新報社)に掲載されているプロフィールを抜粋します。

1923(大正12)年、東風平村生まれ、40年八重山農学校卒、41年県農会技手。52年拓南商事、56年拓南伸鐵(現拓南製鐵)を設立。61年沖縄初の電気炉製鋼工場を完成させる。83年県工業連合会長、現在拓南グループ10社の会長を務める。
沖縄列伝 戦後史の証言者たち p223(抜粋と編集)


※この項目は「古波津清昇」から「那覇農産加工場(古波津清昇)」と変更し小波津さんは後日に単独項目として取り上げます。

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