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1959年の赤丸宗と黒丸宗

1959年の「琉球人名商社団体要覧」の味噌・醤油の項に赤丸宗と黒丸宗があります。
もともと戦前に垣花にあった具志堅味噌醤油を1950年寄宮で復活させた会社なのですが、1951年に首里の赤丸宗と寄宮の黒丸宗になります。

具志堅味噌醤油合名会社(アカマルソウ)
本社 那覇市首里寒川町1丁目18番地
醤油醸造販売並に内外貿易業
---
具志堅食品醸造合資会社(クロマルソウ)
本社 那覇市字寄宮
味噌・醤油・食酢・ソース醸造販売
米・大豆・バラカス・其他原料貿易販売
琉球人名商社団体要覧(1959)p203 (抜粋と引用)


赤丸宗と黒丸宗という名前ではなく、「具志堅味噌醤油合名会社」と「具志堅食品醸造合資会社」になっています。
赤丸宗は具志堅宗精が社長ですが、それぞれの会社の具志堅姓の人間を抜出してみます。

赤丸宗
具志堅宗精(社長)、具志堅宗発(副社長)、具志堅宗平(支配人)、具志堅宗悦(醸造部長)、具志堅宗一(醸造副部長)
黒丸宗
具志堅宗演(社長)、具志堅宗佑(専務)、具志堅宗伝(工場長)


1958年発行の「沖縄主要都市地図」では現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗はあり、別ページには「本家クロマルソウ 寄宮区 HONKE KUROMARUSHO」とあります。

関連:グダグダ(β) 赤丸宗/黒丸宗
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沖縄製帽のようす

上江洲由正さんの「大同火災と私の人生」から帽子に関する箇所を抜出します。

私[上江洲由正]は大正6(1917)年、父上江洲由清、母マカトの二男として那覇市松下町2丁目13番地で生まれた。
私の家は、現在の場所でいうと、国道58号から旧琉球石油本社に抜ける通りの真ん中辺りにあった。父・由清がパナマ帽子の製造販売をしていた関係で、宅地はかなり広く,庭先にパナマ帽の原料を漂白するための池があり、干場もあった。
学齢期になった大正13(1924)年、私は北谷村・屋良小学校に入学した。那覇の自宅は、沖縄製帽の本社兼自宅のようなもので、嘉手納に出荷場を持っていた。遠く山原や中頭方面で編まれた帽子を集めるのに嘉手納は地の利を得ており、私は幼年時代をそこで過ごしたのである。私の家は嘉手納駅のすぐ側にあり、集めてきた帽子は嘉手納駅から軽便鉄道で那覇に送っていた。 
p2〜p6
那覇市が刊行した「那覇市の産業」によると、沖縄における帽子製造は明治時代に始まったといわれる。明治33年児玉利吉という人がアダン葉を用いてタバコ入れや草履を作って販売したが、明治36年岡山県人中山徳次郎がアダン葉の漂白法を考案しアダン葉帽子製造の端緒になったとされる。パナマ帽は元はパナマやエクアドルなど中米産のヤシの葉を原料にクリーム色に漂白して編んでいた。初期の頃は遠く外国から輸入する原料に頼っていたが、沖縄で自生するアダン葉が原料として登場し、沖縄全県下にいわゆるボウシクマー(帽子編み)が普及するようになった。
私が那覇商業を卒業して家業を手伝うようになったころ、沖縄には7つの製帽会社があった。服部とか帝とか、私たちの沖縄製帽が地元唯一の会社でその他6社はすべて他府県人の経営、つまり寄留商人と呼ばれる人たちだった。何故沖縄の人達の会社が私たち以外に設立されなかったのか?技術や経営能力はあっても資金がなかったのである。第百四十七銀行が那覇に支店を開設して安定した営業をしていたが鹿児島に本店があり沖縄の人が融資を受けるのに条件が厳しくいろいろな隘路があった。私のところは幸い資金の手当を受けたが、沖縄の商人で同銀行から融資を受けるのはわずかな数だと聞いた。
p16〜p18
大同火災と私の人生 (抜粋と編集)


松山の沖縄製帽は上江洲宅のようなものであり、帽子編みは地方にいてその原料配布や製品回収をしていたようです。
自分も勘違いしていたのですが、アダン葉があったから産業として興ったわけではなく、それ以前に外国から原料を輸入して製造されていたようです。そしてアダン葉の漂白方法が考案された事から材料がアダン葉に移行、原料枯渇後は輸入材や紙製代替品に原料を替えて製造され続けたようです。

前記の「那覇市の産業」には昭和4年ごろの帽子製造状数1165戸、職工1340人(男211人、女1123人)と記述されており断然女子が多かった。戸数、稼働人員が那覇市内に限ったものか、那覇市外つまり全県的な数字であるか不明だが、全県的であればもっと膨らんでいたはずである。
私たち沖縄製帽の場合だって遠く本部、今帰仁をはじめ泡瀬、知念辺りまで帽子編みの職人を抱えており、戸数が職人が多数だったことは容易に想像できる。沖縄製帽の自社従業員は30人ほどだった。帽子編みが農村部の子女に人気があったのはそれなりの理由があった。女子の職場のない当時、女たちも田畑仕事に従事するのがあたりまえのこと。そんな時、手足も汚さず、太陽の直射を浴びて色も黒くならずにすむ家の中での帽子編みが出現したので、われもわれもととびついたのである。手間賃も働きによって結構取れることも魅力だったのだろう。
帽子を編む作業場は各自の家の場合もあったが、数人がムラの集会所など一ヶ所に集まって、おしゃべりをしながら作業をする。ラジオとてない農村で若い娘たちが集まって自由に噂ばなしをするだけでも最高の娯楽であり、ましてや異性に関するひそやかな情報も得ることもできた。
原料にしても編み上げた製品も、重量のあるものではない。自転車の荷台に積んで運んでいた。読谷や本部のような遠隔の地になると嘉手納まで軽便鉄道で自転車ごと運ぶ。今考えると悠長なものだが、最も適した輸送手段だった。
家業を手伝う私も原料の配布や製品の集荷などをしていた。嘉手納、与那原、糸満までは軽便鉄道が運行しているのでそれを利用したが、本部方面になると渡久地-那覇港間は船に乗った方がはるかに便利だった。
大同火災と私の人生 p19〜p22(抜粋と編集)


女性史などの証言集ではムラで集まって帽子編みをしたという証言はよく出てきます。
日焼けに関してですが、昔は高級士族の女性は傘をさして歩いていたので、日焼けをしていないというのはステータス感があったのかもしれません。上江洲由正さんの話は昭和に入ってからだと思いますので、すでに傘をさすような人はいなくなっていたとは思いますが...
引用しませんでしたが由正さんが原料仕入れのトラブル解決のため南洋にいったエピソードも書いてあります。

泊自練(泊自動車練習所)



60年代中期の地図には泊港近くに泊自練とあります。
1959年の新聞に広告がありましたので一部引用します。

自動車練習生募集
◉泊自動車練習所は皆様の御蔭で警察本部長の指定を受けました。仮免許証の学科試験、実地試験が免除されました。
1.晩も昼と同じく明るい水銀灯の下で練習が出来ます。
2.寄宿舎、食堂の設備もあります。
3.男女満16才以上の方は何時でも入所できます。
4.速成科、本科の制度もあります。
泊港ターミナルビル向い一号線沿い
泊自動車練習所
所長 浜川恵亮

沖縄タイムス 1959年12月2日


いつからいつまで存在したのかというのは今のところわかりません。「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」p21にある1962年の空撮にはこの一角には建築物やコースは見えません(周囲の区画には建物がある)。
また下記アドレスの1956年8月の写真では前島一帯にまだ建築物がない。

那覇まちのたね通信 | 那覇(航空写真)/泊から前島、遠く那覇港を望む
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1857


山幸味噌醤油工場

大宜味朝徳の沖縄写真案内(1957)に山幸醤油工場がありました。位置は下の図のように黒丸宗通りの真和志小学校横、少し坂をのぼったところです。

琉球人事興信録(1950)に経営者の具志幸基さんの項がありました。

○醤油醸造所
経営主 具志幸基
真和志大原区1班
氏は明治38年屋部村屋部に生る。二十数年間京都に在りて知見広く、英国外人公社に13年勤務し、南洋貿易に従事して終戦に至る。戦後帰郷するや現住地に山幸噌醤油工場[ママ]を創設し本島産業界にゆるがぬ基礎を築きその発展振りは鮮やかに家運隆盛の一途にある。
※○は∧に幸
琉球人事興信録(1950) p86(抜粋と編集)


沖縄写真案内ではマーク(商標?)は
いつ頃まで営業していたのかはわかりませんが60年代の地図には「山幸しょうゆ」としてあります。

国場組

国場組のサイト。
社史も戦前は国場幸太郎の苦労話ばっかりで建設に関しては詳細な情報はあまりないのですがサイトもそんな感じです。特設サイトも社史以上の情報はありません。

沿革 | 企業情報 | 國場組
http://www.kokubagumi.co.jp/corpinformations/%E6%B2%BF%E9%9D%A9

80周年特設サイト | 國場組 | 國場組80周年特設サイト
http://www.kokubagumi.co.jp/80th-anniversary/


国場組は戦前には美栄橋の現在位置に近いところにあり、戦後は一時石川や壺川にありました。1954年には美栄橋に商事ビルというのを建てていたようですがこのビルが現在の国場ビルの位置にあったのかどうかは調べられていません。
沖縄タイムスフォトギャラリーにビル新築から間もない1970年の写真があります。

沖縄タイムスフォトギャラリー
http://photo.okinawatimes.co.jp/list.php?event_id=C&page=5


No:C_154824
1970年撮影 久茂地方面 国場ビル


沖縄テレビあたりから国場ビルに向けての撮影。

No:C_154823
1970年撮影 国際通り


むつみ橋陸橋の上(どこだろうか)から国場ビル方面を撮影ですが周囲には高いビルはないのがわかります。
むつみ橋陸橋自体が写ってる写真はあまりないのですが、この写真からは少なくとも1970年には存在したことが確認できます。陸橋は水上店舗を建設してからしばらくしてできたのかもしれません(60年代後半?)。

大同火災

大同火災は71年に合併により誕生していたのですがこれは復帰に備えて郷土系がまとまったらしいです。

1950年9月 「琉球火災海上保険株式会社」を設立。
1953年12月 「沖縄火災海上保険株式会社」を設立。
1954年3月 「南西火災海上保険株式会社」を設立。
1961年8月 「球陽自動車保険相互会社」を設立。
1963年9月 沖縄火災海上保険と南西火災海上保険が合併して「共和火災海上保険株式会社」となる。
1963年12月 共和火災海上保険が球陽自動車保険より契約及び財産の一切の業務を譲り受ける。
1971年12月10日 琉球火災海上保険と共和火災海上保険が合併して「大同火災海上保険株式会社」となる。
1972年5月15日 沖縄の日本復帰により、日本の元受損害保険会社となる。
大同火災海上保険 - Wikipedia


「共和火災海上保険」は久茂地のタイムス本社向かいあたりにあったようです。3階建てくらいか?

那覇まちのたね通信 | 沖縄タイムス社前
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=604



「KYOWA INSURANCE CO」「共和火災海上保険」の字が見えます。

本土復帰に対処して経営基盤を確立するため1971(昭和46)年12月に対等合併して設立された会社です。
当社のあゆみ|大同火災について|沖縄の損害保険会社 大同火災


社章は“大同”の大の文字を図案化したもので、 左右の三角形がそれぞれ琉球火災と共和火災を意味し、中央の三角形をむすび支えているという意味です。
つまり、社名の由来である“大同団結”が意味する 「多少の違いを捨てて、ひとつになる」ことによって誕生した大同火災を中央の三角形が象徴し、その母体である琉球火災と共和火災が、しっかり支えている という意味が込められています。
社章の由来|大同火災について|沖縄の損害保険会社 大同火災


【追記】1950年は戦後経済活動の開始年です。
「戦後米軍がしていた仕事を5年後に一般企業に任せたんじゃないか」。
その証拠は次に訪れた大同火災海上保険にあった。照屋侑社長の手には英文の「保険事業従事免許証」。同社の前身、琉球火災保険にあてた黄ばんだ証書には「琉球一円を通じ火災保険業務に従事することを認可し証す」とあり、末尾に「軍政府長官の命により」。当時、米国の琉球復興金融基金で住宅建築への融資が始まり、住宅物件に付ける火災保険制度が必要になり、創業につながった。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-170552-storytopic-222.html

赤丸宗/黒丸宗

1965年に発行された具志堅宗精の自伝「なにくそやるぞ」から引用します。
具志堅宗精
そこで父祖伝来の味噌醤油業をはじめることにした。資本金は3万円(B円)、出資者は7名、資金も琉銀から各自借りて、これを出し合った。それと琉銀からの借入金275万円で、準備は完全にととのった。
場所は真和志郵便局向いの寄宮で、具志堅味噌醤油合名会社として発足した。もちろん当時は、バラックづくりの粗末なもので、従業員もわずかで細々と経営していたが、銀行借り入れの資金で51年の1月、首里寒川町の現在の所在地に木造瓦ぶき平屋104坪の本建築の工場をつくり、従業員も20名にふえた。1950年宮古知事をやめた私が社長、弟[宗発]が工場長であった。当時の醤油の年間販売高が460石、味噌は3万斤程度であった。しかし、それからは醤油の売り上げも毎年上昇して今日の基礎を築いたが、その基礎つくりに一番役立ったのは、なんといっても、私が運動した結果、53年の4月から行われた醤油の全面的な輸入禁止であった。従業員もこのころから急にふえて、もろみ室やこうじ室など工場設備をどんどんふやし、建物もスラブぶきのブロック工場にした。
---
赤マルソウの製品は現在全琉需要のうち醤油がその70.8%を占め、味噌が58%を占めている。
なにくそ、やるぞ/具志堅宗精 p181、182(抜粋と編集)


赤丸宗は宗精と弟の宗発、黒丸宗が兄の「宗演」です。「なにくそやるぞ」から兄の具志堅宗演の名が出てくる箇所を引用します。

私の兄の宗演(黒丸宗社長)は少年のころからおとなしく、けんかなど余り好まなかった。相手にけんかを売られても取り合おうとしなかった。
なにくそ、やるぞ/具志堅宗精 p22(抜粋と編集)


性格が正反対ですが宗精のあだ名は天皇ですからね(笑)。「なにくそやるぞ」は1965年の発行ですから、当時黒丸宗が健在で宗演も黒丸宗社長職にあったことがわかります。
戦前の具志堅味噌醤油は垣花です。そして自伝からは50年に寄宮で発足したことと発足翌年の1951年に首里寒川の工場に移っていることがわかります。しかし自伝では寄宮の黒丸宗のことに触れていませんし兄の「宗演」についてもノータッチです。
これらのことから推測してまとめると、戦後寄宮に「具志堅味噌醤油」があり、首里寒川の工場設立で宗発/宗精組が具志堅味噌醤油、寄宮の具志堅味噌醤油は「宗演」が経営し名前は黒丸宗になったということなのかもしれません。黒丸宗についての情報は探せていません。
【追記】赤丸宗のサイトに沿革がありました。
昭和25年11月3日/具志堅醤油合名会社創立
昭和30年9月3日/会社商号を具志堅みそ醤油に改める。資本金を10,000,000 B円増資。
昭和41年12月20日/会社組織を株式会社に変更し、商号を赤マルソウみそ醤油株式会社に改組。

http://www.akamarusou.co.jp/corp.html

赤丸宗は最初から「具志堅醤油合名会社」で赤丸宗というのは商標からきた通り名のようなもんでしょうか。そうなると黒丸宗はどういう名前だったのかが気になります。
サイトを参考にすると1950(昭和25)年創立で、1950年は在寄宮ですから、寄宮時代から首里の赤丸宗は連続した同じ会社ということになります。黒丸宗が分離したということになるのか?
この分裂に関してはけんかわかれの噂もありますし実際にゴタゴタしたんでしょうが関係者以外にはわかんないことなんでしょうね。

黒丸宗の位置ですが左は60年代中期の地図から、右写真は1977年の撮影(国土交通省)です。
左図の範囲等はアバウトなものです。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C59&IDX=9


上左図は60年代中期の地図にある黒丸宗(ほか)を現在の地図に書き入れたものですが、上左図から右写真への間に黒丸宗は現在の寄宮市街地分譲住宅になっています。
※1958年発行の「沖縄主要都市地図」では現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗はあり、別ページには「本家クロマルソウ 寄宮区 HONKE KUROMARUSHO」とあります。
関連:グダグダ(β) 垣花町 (戦前の垣花の企業名に具志堅味噌醤油)

冒頭の具志堅宗精の写真はwikimediacommonsからのものでパブリックドメイン扱いです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sosei_Gushiken.jpg

安謝劇場

安謝劇場

「那覇市旧跡・歴史的地名地図」にある安謝劇場跡です。
安謝は戦後の一時期密貿易の荷揚げ場所に近かったことや復興のための人間が早期に入ってきたこと、そして那覇中心部の解放が遅れていたこともあって繁栄していました。安謝劇場は50年代に作られたようですが戦後すぐの市場や繁華街には劇場があることが多いです。

【追記】沖縄商工名鑑(51年版)から安謝劇場を抜粋します。
安謝劇場
合資会社80万円 真和志村安謝区7班
演劇映画興行 富里朝章、宮平次郎、松村政則、古○屋秀福 喜瀬清弘 長嶺将保氏等の合資


参考:グダグダ(β) 勢理客の水田 (戦前の安謝の写真)
参考:グダグダ(β) 安謝港の復興 
参考:グダグダ(β) 安謝のその後
参考:グダグダ(β) 密貿易時代の安謝
参考:グダグダ(β) 住吉海岸での密貿易

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