忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

国際温泉/国際湯

69年の地図には現在の玉の子保育園の位置に「国際湯」があります。当時の地図では国際湯の前には茶色で示した道があり、国際湯はピンクの敷地になっています。
国際温泉/国際湯
1956(昭和31)年頃になると、世の中もだいぶ落ち着き、安住の地を見つけて引っ越す借地人が出て来た。(略)場所は国際通りの国際劇場向いの通り沿いで、現在は玉の子保育園敷地となっている。人通りの多いところなので、貸店舗と公衆浴場を連ねて建てることにした。
工事は1957(昭和32)年8月着工し、翌年一月に完成した。
1958年(昭和33)年2月、公衆浴場営業許可申請所を妻春子名義で行政主席宛に提出し、許可を得て国際湯として営業を始めた。打込み井戸の水は透明であるが少し黄色がかっている。口に含むと多少塩分を含んだ味がする(略)分析を依頼したところ含食塩重曹泉でアルカリ温泉として療養に適すると判定された。(略)25度以上は温泉と称してもいいとのことであったので、温泉の分析表を記した看板を作って男女の浴場に掲げ、名称も国際湯から国際温泉と変えた。温泉の命名に効果があったのか、入浴客も次第に笛、首里、浦添方面からも訪れるようになった。
「高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり」 p116〜118(抜粋と編集)


高良嘉永さんはこの辺一帯の地主だった人です。そんなに遠くない場所にはりっかりっか湯がありますがこの辺は掘ると温泉が出てくる土地なんでしょうか。
参考:グダグダ(β) 久高将正と大城鎌吉の土地購入

国際温泉は復帰前に1972(昭和47)年4月1日に廃業のようです。
その後国際温泉跡で娘さんが無許可の保育園を始め、その後法人化(うるま福祉会/昭和55年12月許可)。嘉永さんはうるま福祉会へ私有地と建設費用の一部を寄付し玉の子保育園を建設します。
玉の子保育園の園舎は昭和56年3月完成のようです。玉の子保育園のサイトでは以下のようになっています。

昭和47(1972)年8月 無認可ひかり保育園開園
昭和55(1980)年9月 無認可ひかり保育園閉園
昭和56(1981)年4月 社会福祉法人うるま福祉会 玉の子保育園開園

http://tamanoko-hoikuen.com/index.php?id=2


また国際温泉の建物に関しては以下のように書かれています。
温泉は平屋建てで貸店舗は2階建てということでしょうか?

店舗2階建て延べ 37.5坪/工事費 52万2000B円
公衆浴場平屋建 42.25坪/工事費 58万9000B円
付属設備費(ボイラー、電気、水道、井戸等) 60万0722B円
「高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり」 p117(抜粋と編集)
PR

沖映の業態

沖映の歴史については「沖縄映画興行伝説」さんに詳しいのでそちらに譲ります。

http://tokkan-kozo.com/bind3-eikoden/naha/pg02.html#%E6%B2%96%E6%98%A0

ほぼ説明は一緒ですが比嘉朝進さんの「戦後の沖縄世相史」から沖映について触れられている箇所を抜粋します。

牧志の沖映本館が”沖縄演劇”の自主興行を打ち出し、今年[1965年]5月、第1回上映の「史劇おきなわ」は一ヶ月の長期興行で11万人の観客を集めた。俳優陣は松竹歌劇の川路竜子・千草かほる他と沖縄劇団の各座長との合同劇。けんらん豪華な舞台装置は宝塚歌劇や松竹歌劇を見るような本格劇。第二回の「竜神の舞」も前回に劣らぬ盛況。俳優は月給を保障され、12年間続いたが、観劇客はしだいに減少、77年11月自主上演を打切り、貸し劇場にした。しかし賃貸が高いので借り手は少なく、沖映館はパチンコ店に切り替えた。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p104、105(抜粋と編集)


「沖縄映画興行伝説」では沖映本館があってその後ニュー沖映が増設されたと説明しています。
下図は69年のゼンリン地図を参考にした沖映の図で、沖映通り側が「沖映娯楽センター」、その横が「沖映本館」になっています。


「沖縄映画興行伝説」を参考にすると、映画館として沖映本館がスタートし、55年に改築、56年頃増築(ニュー沖映)。65年頃に「沖映本館」は演劇専門の劇場になり77年に貸し劇場化、80年代後半にパチンコ店という流れのようです。

ここからは個人的な想像ですが、69年の地図にある「沖映娯楽センター」は増設された「ニュー沖映」ではないかと考えます。ニュー沖映から名前が変更されているのと「娯楽センター」という名前の印象からは映画館や劇場であることにすこし疑問がありますがどうであったのかはわかりません。この辺も映画史の本には書いてあるんでしょうけども未読です。
とりあえず69年はこうなっていたというメモ代わりとして。

Seamen's Club(山下町)

外人さんのサイトからシーメンズクラブの写真を拝借。この建物の場所は山下町ですが現在は移転して空港の近くにあるようです。移転したのは90年代?
最初にできたのは1945年のようです。
参考:Seamen's Club serving Merchant Marines since 1945 - JapanUpdate.com

(左)Seaman's Club in Naha
http://www.hartshorn.us/Navy/navy-25d.htm

(右)Naha, Okinawa - March 1953
http://www.navycthistory.com/roland_intro.html


場所は下写真のAポインタの場所だったはず。Bポインタの陸上トラックと入口との位置関係とで見て下さい。
写真は国土交通省のもので加工は自分によります。

http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=5&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19

以下余談。最初の写真のサイトに興味深い写真が。

詳細は下記サイトが参考になるかと思います。

古今東西風俗散歩(町並みから風俗まで) : 那覇(小禄新辻町の特飲街跡)白人専門でした。
http://huusan.exblog.jp/13962498/

阿波連額縁堂

わかさ民俗地図」には西武門附近に「阿波連額縁堂」という店があります。



那覇まちのたね通信 | 生活/阿波連額縁店
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2646


阿波連額縁店、看板に「元西武門」の文字あり」と説明されています。
ささいなことですが書き留めておきます。

本土建設業者

Atkinson Jones Construction Companyで戦後の建設バブル期のことにわずかに触れましたが、この時期には本土建設業者も基地建設に来ています。
本土業者についてまとまった記述があったので引用します。

比嘉広氏(南洋土建社長)によると、基地工事に参加した日本大手建設業者は20数社、米側5、6社、沖縄側は国場組のほかは下請けが多かったという。本土業者が担当したおもな工事は、つぎの通り。

牧港の倉庫地帯/多くは清水組、ほかに松村組
嘉手納の弾薬倉庫/大林組
那覇空軍基地周辺の兵舎/鹿島建設、大林組、大成建設、竹中工務店
ズケラン方面/佐藤工業、鉄道建設、隅田組
普天間方面/納富建設
嘉手納方面/浅沼組
嘉手納、金武、上之屋のもっぱら兵舎/銭高組
嘉手納飛行場拡張/西松組
一号線 恩納から辺土名まで舗装/納富建設(沖縄の比宮組も名護までの拡張工事に参加)
一号線 嘉手納から那覇まで/拡張は米軍ポストエンジニア、間組と米一社が舗装(なお嘉手納航空隊入口〜嘉手納ロータリー間は米社)
牧港発電所/施設は清水組、発電機は東芝電気
沖縄の証言 激動の25年誌(上)/沖縄タイムス社 p288(抜粋と編集)


沖縄の業者はコンクリ施工や大規模工事の経験も少なかったはずですのでしょうがないではあります。

クロコデールストア

「目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版」にあるクロコデールストア広告(?)から抜出します。

一階 
雑貨部
 
白檀扇子、洋酒、ライター、高級万年筆、印度名香、其の他
ワニ皮部 
クロコデール、アリゲーター、トカゲ、ギャビヤル、虎、豹
二階
宝石部
 
世界ダイヤモンド協会鑑定
登録 保証書付き AAA-1
最高級ダイヤモンド米国推薦
指定販売 その他各種宝石
三階
卸部 商事部
屋上
ビヤ・ガーデン
クロコデールストアー
本店 那覇市牧志町1〜234国際中央通り
支店 那覇市松尾115
目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版 p155(抜粋と編集)


店内のようすはありますが外観の写真はありません。
外人の撮影した70年代の国際通り。
国際通り
右手に「ワニ」という字が見えるのがわかるでしょうか。


クロコデールストアは照屋敏子がオーナーですが、近年書籍の発行によって知名度が上がりました。
支店は松尾市街バス停のあたりではないかと思うのですがよくわかりません。バス停あたり(ストリートビュー)はいつも白檀の匂いがしていた記憶があります。

琉銀(1955年頃)

Wikimedia Commons から1955年頃の琉銀。

琉銀(1955)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bank_of_Ryukyus_Head_Office_circa_1955.JPG

この写真は沖縄タイムス社の「新郷土地図 第1巻(1957年)」32ページからのもののようです。新郷土地図にはこの写真の他にも1950年代撮影の空撮写真があります。
左図はその空撮(p8)からの風景を基にして推定した1950年代の琉銀(青)のだいたいの位置で、右は戦前のその一帯の地図です。

両図に共通するポインタで、「薩摩藩在藩奉行所跡(後 沖縄県庁)」が赤、「勧銀支店第147支店」が緑です。緑ポインタの位置は大体でしかありません。
参考にしているのは、「那覇民俗地図」と「那覇市旧跡・歴史的地名地図」、そして「新郷土地図 第1巻」の空撮写真です。解放されてまもない当時の旧那覇市一帯は建物があまりなく、琉銀の周囲も空地で近辺には琉球海運、沖縄通運、沖縄製粉があり、少し離れて円山号跡が社会局、天妃小学校が那覇市役所となっています。
※東町の琉銀本店建物は第百四十七銀行那覇支店の建物だったようです。

那覇まちのたね通信 | 那覇/第百四十七銀行那覇支店/明治16年(1883)に設立された鹿児島の銀行である/戦後この建物は琉銀が利用していた
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1165&from=pc


コメントで情報を頂きましたので追記しておきたいと思います。
冒頭の東町にあった琉銀本店は1966年に久茂地の現在位置に移転したようです。

1966年に東町より移転/3階建てで1969年に5階に増築
那覇まちのたね通信 | 企業/完成した新しい琉銀本店

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2171


そのほか現琉銀本店建設以前の写真。

那覇まちのたね通信/御成橋・琉球銀行本店敷地・琉球政府/昭和35年(1960) 3月1日
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3408

那覇まちのたね通信 | 沖縄タイムス社前/1965年3月16日
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=604


参考:琉球銀行 (特殊銀行) - Wikipedia (復帰以前)
参考:琉球銀行 - Wikipedia

オキコ製麺工場

パンのイメージが強いオキコですが当初は瓦を作っていたようです。

1947年 豊見城村(現豊見城市)に、同社の前身となる沖縄興業株式会社を設立。当時は赤瓦、カメ煉瓦の製造、販売事業を行っていた。
1953(昭和28)年 那覇市に製菓工場を開設。製菓事業を開始。瓦製造業からの事業転換。
1954(昭和29)年 製麺工場を開設。オキコそば、そーめんの製造販売事業を開始。
1960(昭和35)年 オキコ株式会社に商号変更。

http://www.okiko.net/?men=6&cat=3
オキコ - Wikipedia


旭町関連でオキコの名前が出てきたことがあります。ただ1965(昭和40)年に売却したということで旭町の埋立はもっと早いと思います。

旭町公有水面埋立地の売却
△オキコ株式会社仲田睦男氏に547坪を32846ドル(坪当たり60ドル)で売却。
市民の友 1965年7月15日 第155号


1965(昭和40)年の地図では寄宮中学校体育館の場所はオキコ製麺工場となっていて、ゼンリン71年版では駐車場になっています。寄宮中学校の20周年記念誌から体育館ができるまでの変遷を拾ってみます。

1967(昭和42)年9月 体育館用地買収契約
1971(昭和46)年8月 塀着工
1971(昭和46)年9月 体育館開き


それと57年発行の「新郷土地図/沖縄タイムス社」にオキコについて紹介があったので引用しておきます。
本では写真に下の文が添えられています。

オキコ(OKIKO.CO)
沖縄興行株式会社の製菓工場は壺川大通りにあって、敷地は500坪、施設に約700万円もようした。島内需要の菓子の約60%をみたし、日本本土、香港、東南アジア向け、月1万ドルも輸出している。
新郷土地図 第一巻/沖縄タイムス社 p53


そのほか製麺工場についても少しだけ触れてありました。
このページには麺を吊るして乾燥させている写真と、素麺のようにまとめて箱に詰めている写真があります。素麺にしてはすこし太いように見えますが...

製麺工場(BUCKWHEAT FACTORY)
首里の西森にあるクイン商事製麺工場。他に真和志市の寄宮に、沖縄興行株式会社の工場がある。ともに優秀な施設を誇っている。
新郷土地図 第一巻/沖縄タイムス社 p55

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]