沖映の歴史については「沖縄映画興行伝説」さんに詳しいのでそちらに譲ります。
http://tokkan-kozo.com/bind3-eikoden/naha/pg02.html#%E6%B2%96%E6%98%A0ほぼ説明は一緒ですが比嘉朝進さんの「戦後の沖縄世相史」から沖映について触れられている箇所を抜粋します。
牧志の沖映本館が”沖縄演劇”の自主興行を打ち出し、今年[1965年]5月、第1回上映の「史劇おきなわ」は一ヶ月の長期興行で11万人の観客を集めた。俳優陣は松竹歌劇の川路竜子・千草かほる他と沖縄劇団の各座長との合同劇。けんらん豪華な舞台装置は宝塚歌劇や松竹歌劇を見るような本格劇。第二回の「竜神の舞」も前回に劣らぬ盛況。俳優は月給を保障され、12年間続いたが、観劇客はしだいに減少、77年11月自主上演を打切り、貸し劇場にした。しかし賃貸が高いので借り手は少なく、沖映館はパチンコ店に切り替えた。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p104、105(抜粋と編集)「沖縄映画興行伝説」では沖映本館があってその後ニュー沖映が増設されたと説明しています。
下図は69年のゼンリン地図を参考にした沖映の図で、沖映通り側が「沖映娯楽センター」、その横が「沖映本館」になっています。

「沖縄映画興行伝説」を参考にすると、映画館として沖映本館がスタートし、55年に改築、56年頃増築(ニュー沖映)。65年頃に「沖映本館」は演劇専門の劇場になり77年に貸し劇場化、80年代後半にパチンコ店という流れのようです。
ここからは個人的な想像ですが、69年の地図にある「沖映娯楽センター」は増設された「ニュー沖映」ではないかと考えます。ニュー沖映から名前が変更されているのと「娯楽センター」という名前の印象からは映画館や劇場であることにすこし疑問がありますがどうであったのかはわかりません。この辺も映画史の本には書いてあるんでしょうけども未読です。
とりあえず69年はこうなっていたというメモ代わりとして。