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沖縄印刷所/柳屋/山川旅館

沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「袖珍沖縄旅行案内 全」1895(明治28)年からで、切り出して画質調整してあります。


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=51006
左から「沖縄印刷所 那覇西村123番地」「那覇 大門通 柳屋」「御旅館 山川新五郎 沖縄県那覇西村460番地」。

「御旅館 山川新五郎」は山川旅館だと思われます。

▲旅館 那覇の池畑回漕店浅田山川森田を最上として嘉手納前兼久名護等にあり
袖珍沖縄旅行案内 全 p18、19
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小嶺漆工場/小嶺幸之

画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「袖珍沖縄旅行案内 全」1895(明治28)年から。切り出して画質調整してあります。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=51006

本工場は来る三月初頭より営業の運びに相成り
明治廿八年二月 沖縄県那覇西村十八番地 小嶺漆工場

この小嶺さんは下記の工場の人と同じだと思われます。

小嶺漆器工場/西町/小嶺幸之/明治28.4/漆器類/10人
那覇市史資料編第2巻下 p430,431(引用と編集)
グダグダ(β) 明治末期の工場


また明治36(1903)年に沖縄県人による沖縄砂糖商店(砂糖委託)が設立されていますがそこの創立メンバーでもあったようです。
参考:グダグダ(β) 沖縄砂糖商店

島袋商店(西新町)

大正5年の沖縄県人事録から島袋商店、画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫から。画像は切り出して画質調整してあります。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102
材木商 島袋商店
那覇区西新町の西海橋側に在り。間口8間、奥行3間の店舗を構へ、後に清楚なる住宅ありて、其左側には2階造り120坪位の倉庫を控へ、又右側の道路を隔てし海岸に60坪余の第2倉庫を設け、材木商として理想的建築の称高く、店運隆隆たるを島袋商店とす。店主は島袋嘉辰氏にして材木の販売を主とし、兼業として塩の元売捌及砂糖の売買を営みつつあり。(中略)島袋氏は同業者間を斡旋して木材株式会社を設立し、協同連絡して秋田等の産地より傭船して直接輸入を為し、以て中間商人の為めに利益を壟断せらるるの弊を防ぎ、斯界の為め貢献しつつあり。
(那覇区西新町3ノ8 電話74番)
沖縄県人事録/楢原 翠邦編 (抜粋と編集)


上左図は西新町(昭和4)、上右図は沖縄タイムス掲載「思い出のわが町」の「戦前の西新町民俗地図」をもとに作成した図です。

辻の家主で「沖縄の遊郭」から大正2年の辻の家主を引用してありますが、3棟所有で島袋嘉辰の名があります(住所は西となっていますが)。
同一人物だとすると相当儲っていたんでしょう。

糸数製帽所

大正5年の沖縄県人事録から糸数製帽所です。画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫からで、切り出して画質調整してあります。


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102

糸数製帽所
那覇区前島町崇元寺河畔に、石塀を廻らしたる堂々たる一大工場あり、是れを糸数製帽所とす。明治43年の創立にして、総坪数70有余、建坪500余ありて、他に100余坪の石造庫を有し、県下に分工場を設置すること十数ヶ所、職工実に4572人を使役し、日々製出せる帽子は各地に輸出せらる。帽子は所謂阿旦葉帽子と称し、一名琉球パナマの名あり。原料は琉球特産の阿旦葉と称する植物の葉にして、琉球に於ける最も良質なる阿旦葉生産地たる八重山に粗製原料製造所を設けて粗製し、本工場に送りて漂白す、製出高1日650個にして、10等より1等に至るまでの区別あり。斯くて製品は神戸の出張所に送りて売捌かれ、英、米、仏、支那等に輸出せられ、又内地に於ても需要あり。産額過剰、粗製濫造と欧州戦争は、帽子の売行に大打撃を蒙り、小資本にて経営する者の如きは悉く倒産したるも、本所のみは此間に在りて些かの打撃なく、品質の善良資金の潤沢を以て販路の拡張を来しつつあり。所長は糸数元英氏にして同元盛氏神戸支店長たり。
(那覇市前島町1丁目、電話314番、支店、神戸市御幸通7ノ87)
沖縄県人事録/楢原 翠邦編 (抜粋と編集)


「日報の沖縄人名録(昭和12年版)」の酒造業に糸数元英の名があります。

前島町1ノ107/糸数元英
日報の沖縄人名録(昭和12年版) 
グダグダ(β) 昭和12年の酒造業



画像は糸数製帽所です。元画像は下記サイト様のもので、自分が画像加工してあります。

大正時代に沖縄に在った企業 (59) - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3352123.html

沖縄漆器株式会社

戦後(50年代初期?)の沖縄実業と文化人名録から。

琉球漆器製造販売
沖縄漆器株式会社
取締役社長 長嶺但貴
取締役 崎山嗣昌、宮平着連
監査役 安慶名克光、米次源次
沖縄実業と文化人名録 p210(抜粋と引用)


米次源次は米次源吉の縁者?
米次源吉は生没年不明ですが1894(明治28)年頃寄留、1932年初版の「沖縄県政五十年」には「米次翁はこの特産[漆器]に対する功労者である」とあるので昭和初め頃まで存命だったことがわかりますが、50年代初期の「沖縄実業と文化人名録」発行当時どうだったのかは微妙なとこではないでしょうか。

米次商店

米次源吉の米次商店です。
1・2丁目
左図で色を付けた範囲が西本町です。沖縄タイムス連載「思い出のわが町」の「戦前の西本町民俗地図」にはポインタの位置に「米次」とあります(右図参照)。
まちのたね通信に「西本町大通」と題された写真があり、そこに「米次商店」の横断幕が写っています。

那覇まちのたね通信 | 西本町大通
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=477

米次商店の場所は最初の図の位置で間違いないと思うのですが、那覇民俗地図・戦前の西本町民俗地図ともに「西本町大通」という名は探せません。


大正5年の沖縄県人事録の米次商店の紹介で、画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫のものを切り出して画質調整してあります。

音楽学校

1951(昭和26)年頃希望ヶ丘にあった音楽学校。

図は戦後の那覇の区で参考にした「最新那覇市地図」を元にしています。この地図の時点では上図のように桜坂がまだできておらず、後年この地図を改訂したと思われる「最新那覇市地図」では珊瑚座とオリオン座があります。
昭和26(1951)年6月発行のものを仮に「旧版」、後年の桜坂通りがあるものものを「新版」とします。
過去記事から。

昨年[1952年]那覇保健所長当山堅一が平和通りの東台地に住んだころは、岸本印刷所・音楽学校・珊瑚座以外に建物はなかったという。
グダグダ(β) 桜坂のでき始め


新旧での違いは珊瑚館・オリオン座がないことと桜坂通りが未通であることです。旧版を基にした最初の図では希望ヶ丘公園の丘は桜坂通りをまたいで一区10組のすぐそばまで迫っていますが、新版では桜坂通りで丘は切れています。これは道路の工事と同時に造成が行われたのではないかと考えられるのですが、他の地図では桜坂通りを挟んで二つの丘があるようにかかれているものもあります(後述)。
そして上図中の赤ポインタは旧版では「音楽学校」、新版では「那覇無尽」となっています。ちょうど12組と13組の境目あたりの丘の中央よりやや平和通り寄りにあります(上図では元地図より少しずれています)。赤ポインタは過去に存在した希望ヶ丘服装学院の位置で、音楽学校・那覇無尽は後年希望ヶ丘服装学院になったのではないかと推定しています。

上図での赤ポインタ位置は60年代中期の地図での希望ヶ丘服装学院です。希望ヶ丘服装学院は59年には雑誌広告がありますので少なくともこのころからは学校になっていたのは確かだと思われます。
音楽学校・那覇無尽・希望ヶ丘服装学院は同じ敷地だと思うのですが、この変化を著述している資料を探せていません。

希望ヶ丘の「丘」ですが過去に一ツ松尾・二ツ松尾でとりあげました。下左図は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を基にしたもの、下右図は那覇民俗地図を参考にして作ったものです。
「最新那覇市地図」の新旧版とはかかれかたが違います。

結論はまだよくわからんということです...

田村金物百貨店(やまがた屋)

沖縄商工名鑑(51年版)から田村金物百貨店を抜粋。

金物 電気 機械 水道 ラジオ部分品 大工道具 日用雑貨
一般輸出入業
やまがた屋本店
田村金物百貨店
店主 田村 真
那覇市神里原通り


この田村金物百貨店は以前神里原通り風景で取り上げた写真にうつっていた店のようです。
再掲。

那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/神里原大通り(1951)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1726


場所はみよし食堂向い(参照:沖縄主要地・主要商工年鑑51年版/第十七図表)。ここでは「田村金物百貨店」となっていて「やまがた屋」とは書かれていません。
もう少し先のほうの第十八図表には「沖縄山形屋」があります。


山形屋の社史をみてないので関係はよくわかりませんがとりあえず。

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