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生和商店/真壁朝昭

東町で中国茶を商っていた生和商店の真壁朝昭です。

真壁朝昭
1884(明治17)年首里生、没年不詳。1905(明治38)年に上京し、その帰途、上海・福州・台湾の各地を漫遊して貿易市場を視察・調査する。1908(明治41)年に田名真亮外7名とともに合資組織として生和商店を創立し、経営者となった。1911(明治44)年には店舗を那覇石門交番所のとなりから那覇警察署の側に移転拡張するとともに、福州南台にも支店を開設し、さらに大工場をも別置して80名の現地労働者を使用する大規模な福建茶の製造を開始した。さらに1916(大正5)年、那覇区東町に店舗を新築し、その営業種目も福建茶のほか、紙傘、革枕、その他の雑貨まで拡げ、福建から台湾の基隆を経由して輸入するようになった。当時、沖縄が輸入する福建茶は年間約4000万斤であったが、その50%は朝昭らの生和商店によって輸入されたという。
近代沖縄の寄留商人から抜粋


革枕というのが耳慣れなかったのですが、写真をみると中国風味ですから中国からの輸入品だったのでしょう。
参考:第6回 革枕
関係ありませんがうちの爺様は陶枕(第4回 陶枕・ガラス枕)を愛用していましたがあれも中国風味でした。
大正5年の新聞記事にも生和商店の名前が見えます。

那覇警察署は古の親見世趾である。親見世というのは御店の義で古外国貿易の事務を管掌したる公衙である。其の前を見世の前と称えている。警察の門前に2株の大きな榕樹がある、4、5年前の暴風で吹き折られて、今は殆ど幹ばかり残っているようなもんだが元は随分繁っていた。昔はこの下に夷神の小祠があってビン人仲村渠姓が専ら祭祀を司っていたそうだ。屋号を同順といって今の仲村渠呉服店がそれである。
右側は西本町5丁目で左側が東町1丁目となっている。生和商店では支那茶を購う客が腰をかけている。森醤油問屋が明るくって目立つ。県庁第百四十七銀行、農工銀行が静かに相対している。
大正5年1月22日 琉球新報(省略抜粋)

生和商店
画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」からダウンロードした「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」より切り出したものです。
【追記】画像内の文字は「生和洋行」となっていますが、当時の新聞広告を見ると福州の製造元が洋行で那覇市勧銀前が生和商店となっています。

関連:大正の仮屋の前
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上原清善

上原清善さんが亡くなられました。
小禄出身の方ですが当ブログの番外編ということで取り上げます。那覇との関わりでは戦後神里原で風呂屋を営業されています。

市民のために有効に使って下さい-と小禄出身の上原さん、雅子さんは三日、市内・壷屋にある土地(439平方メートル)を市に無償譲渡した。「時価二億円」と言われる土地だけに、寄贈をうけた市側は大喜び。さっそく本年度予算一億六千万円をかけて「壷屋児童センター」を建設し、上原さん夫妻の好意に報いることになった。
---
今回譲渡した土地は、都心部の壷屋、通称「神里原通り」に面した一等地、同土地は上原さんが、今から30数年前、県下で三番目の“ふろ屋”「神里湯」を営んだゆかりの土地で、上原さんにとって事業の“発祥の地”だという。当時一帯には水道や井戸の施設がなく、ふろ屋経営は「もうけにもうかった」、上原さんは「自分の今日あるのも神里原の土地のおかげ。買い手も多かったが、市民によろこんでもらえる施設建設を」と思い今回の譲渡となった。
友好のかけ橋 上原清善伝 p147の新聞記事から抜粋


この記事は平良良松さんが市長の時代ですので復帰あたりですね。
参考:Google マップ - 壷屋児童館

また首里久場川の団地建設にも関わられています。
篤志家の信念 上原清善の生き方
篤志家の信念 上原清善の生き方
篤志家の信念 上原清善の生き方

コザと小禄でボウリング場を経営されるなど経営者としてもなかなかのものであったようです。
下記サイトで経歴を見ることができます。

小禄のひとびと(生年順)
http://takara.ne.jp/oroku/hitohito.html

南條宏・きみ子

南條みよし(安村ヨシ)さんの師匠、南条宏さんが沖縄出身というのが気になったので調べてみました。番外編です。
引用や情報はすべて「焼け跡のカーテンコール」という名古屋の舞踊史の本によります。

南條宏(高江洲康宏)
1899(明治32)年生、1978(昭和53)年没。
那覇市に士族として生まれ、幼少より舞踊に親しむ。1912年那覇市内の小学校を卒業すると佐賀県立佐賀第一中学校に入学、1926(大正15)年早稲田大学高等師範学校卒業、同年妻きみ子と結婚。1928(昭和3)年、南條きみ子舞踊研究所を開設するがきみ子の他界により南條宏舞踊研究所と改称する。

南條きみ子
沖縄出身。1907(明治40)年生、1939(昭和14)年没。
1925(大正14)年精華女学校時代に石井小浪に師事、洋舞を習う。1926(大正15)年結婚。


宏さんは那覇士族の出身で父は実業家だったそうですが、家が少年時代に事業に失敗したため苦学をしました。苦学時代に援助をしてくれた沖縄出身の富豪がおり、その人の娘が後年妻となるきみ子さんだったそうです。
南條と名乗ったのは「南の島から、はるばる海をわたり、山を越えてやってきたから」であり、「昭和3年以降に使用」したそうです。
創作舞踊からバレエ、日舞に至るまで幅広く教えていたようで、琉球舞踊も踊っていたようです。宏さんの経歴は踊りとは遠いように思えますが琉舞なども踊っていました。
名古屋での南條スクールはかなり大きく、弟子を多数輩出しています。

宏さんは「那覇市の士族の家に生まれる」と書いてあるのですが首里士族なのか那覇士族なのかあるいは他の士族なのかわかりません。高江洲姓で名乗りが康ということなら調べられそうですが調べてません(このブログは士族籍に冷たいことをモットーとしています)。
奥さんのきみ子さんの本名は高江洲きみ子となっていますが、これが旧姓であるのかもわかりません。しかし内地の学校に学ぶことのできる財力がある以上家はかなり裕福だったのでしょう。

【追記】弟子である南条みよしさんの自伝(私の戦後史 第8集)からの情報を追加します。

ある日、南条君子先生のトウシューズをはいてバレエを躍っている写真が新聞に大きく載っていました。その記事を読んでみますと、沖縄県立第一高等女学校出身で、石井小浪先生の弟子、またご主人の宏先生も沖縄県立第一中学校のご出身とのこと。早稲田大学の文学部英文科卒業で、大学時代江口隆哉・宮操子ご夫妻にバレエの指導を受けられたということでした。
納豆売りをしながら苦学、舞踊を研究したそうで。その後も学校の教員をしながら名古屋でバレエ研究所を開設したが、現在ではバレエ一筋に生き、幾多の弟子を養成なさっていることがわかりました。
私の戦後史 第8集 p254(抜粋)

伊波冬子と四人の女

伊波と冬子の生活は、あくまで同居生活であり、戸籍上の妻ではないので、一切の公式の場所、例えば結婚式など招待があっても断っていた。しかし伊波の研究生活はいよいよあぶらが乗り、冬子もまた学者の妻として献身的な働きをする。(略)私[※比嘉美津子]もそのころ同居していたが、学者の妻として立派だと思った。
しかし、冬子には少し病的なところがあった、月末、生活が不如意になるとヒステリーを起こす。これは強度のものではなく不機嫌になり、ものを言っても返事をしない。身なりもだらっとして髪も乱れてくる。その姿からヒスだとわかる。私はある時「姉さんは良妻悪妻プラスマイナス賢妻だ」と皮肉ったこともある。冬子と私の関係は、私の母方の従兄弟で、私が子供のころは「メーダグヮーのカマルー姉さん」と呼んでいた。
「伊波普猷をめぐる5人の女性たち」の四人の方々から、冬子は至って評判が良くない。ある方が「伊波先生は私と結婚していたら、金には不自由させなかった」と。
時代を彩った女たち p122(省略と抜粋)


上の文を書いた比嘉美津子は「素顔の伊波普猷」の著者で、著書では東京の小石川で何年か同居した伊波と冬子の様子を書いています。
不仲は嫉妬かもしれませんね...

屋比久孟吉

屋比久孟吉
1900(明治13)年佐敷村生。1939年ハワイミッションアカデミスクール中退。ハワイにおいて20年近く写真業に専念する。戦後49年には戦火で物資の乏しかった沖縄に山羊を輸送。51年、キリスト・セブンスデー開拓伝道のため帰郷。そのまま沖縄にずっと居住するようになる。53年飲料水製造業を思い立ち、ベストソーダ株式会社を創立、取締役社長となる。
現代沖縄三千人より抜粋


ある年代の人には懐かしいベストソーダですが検索してみると情報はあるもんですね。

1953年10月13日那覇市5区17組(現在のどこだろう)で製造販売を開始し、当時は1本7円でその後5円に値下がりし、他のものよりも低価格ということで人気を博し、昭和50年頃まで製造されていて
http://www.cosmos.ne.jp/~norioa/bestsoda.htm


5区17組は崇元寺の真向かい、橋をわたって左手です。
参考:グダグダ 戦後の那覇の区
那覇5区

[余談]屋比久孟吉の姉の子に戦前からクリスチャンであった津嘉山澄子という人がいて、屋比久孟吉の影響を受けセブンスデーに改宗してしまいます。

【追記】
戦後ハワイから引き揚げて来た屋比久孟吉が1953(昭和28)年11月、崇元寺の一角で操業を開始、55年には民間清涼飲料水業者として初めて米軍向け販売の免許を取得、56年浦添市勢理客に工場を移転、61年には株式会社に改め、最盛期の70年頃には県内シェア17%、従業員150人を擁した。1本5セントの安さとソフトな味に人気があった。復帰後の情勢の変化もあって経営不振に陥り79年休業。

久高将正

久高将正
1888(明治21)年、東村生。1922(大正12)年那覇市美栄橋町に薪炭木材店をはじめ、以来木材業一筋に生きる。日支事変、大東亜戦争と相次ぐ戦火を経て1949年には久高木材合資会社を設立し社長に就任する。
現代沖縄三千人より抜粋


山原の人なのかなとも思いますが東村は1923(大正12)年に久志村から独立していたりしますのでよくわかりません。
参考:東村 - Wikipedia
それはともかく大正12年には美栄橋に薪炭木材を扱う店舗を持っていますが、戦前の久茂地川河口両岸は材木店や製材所が多数あり、山原から荷揚げされる薪炭の荷揚げ場所になっています。
当間モウシさんもそうなのですが新しく埋め立てられた場所に集中して進出しています。

戦後は国際通りの中央部付近に久高木材はあります。図はゼンリン69年度版を参考にしています。
当時の周辺はこんな感じ。
むつみ橋付近図
戦前相当の牧志民俗地図をみると現在の三越の後方は畑で住居もほとんどなく、久高という名前も見えません。牧志はグランドオリオンからの道と牧志ウガンの間が集落で、道向こうの三越からホテル一帯にはほとんど住居はありません。
あとそういえば久高材木店は久茂地川沿いにも店舗があったような気がします。

結論は、戦後立ち入り禁止になった区域(美栄橋等)で戦前自営業やっていた人のうち戦後すぐに再起した人は最初に開放された場所(牧志など)ですばやく営業しはじめた人がいるよね、久高さんもそういう人だったんじゃないかね、ということです。

長田紀秀・饒平名紀順

長田紀秀(饒平名)
善興堂医院
1899(明治12)年那覇市に生まれる。饒平名紀順(1870-1937)の長男。1919年大阪医科大卒、1920〜23年まで大阪赤十字社病院産婦人科に勤務、23年帰郷して沖縄県立病院婦人科部長(23〜25年)したのち1926年那覇市で医院を開業した。
戦後1946年にコザ中央病院院長、1951年から那覇市で善興堂医院を開設、診療にあたっている。
本籍 那覇市上之蔵町一丁目
現代沖縄人物三千人/沖縄タイムス社(1966)(省略と抜粋、一部追記)

※善興堂医院と善興堂病院のどちらであったかについて(自分は)あやふやです。下の船越義彰さんの文では病院、「医師 仲地紀仁」でも病院になっています。
龍界寺小路・善興寺坂
追記(2011.04.29)
饒平名紀順(1870-1937)長田紀通のひ孫。善興堂病院院主。
饒平名紀慎(1864-1908)長田紀通の孫。
「医師 仲地紀仁/仲泊良夫」p42


千原繁子さんもそうですが、長田紀秀さんも51年に那覇で自由開業できるようになり戻られているのですね。
船越義彰さんの文章で戦前の善興堂病院について触れられている箇所があります。

善興寺坂--そこはいまのどのへんだろう。郵政管理事務所と、天妃校を結ぶ線のあたりに坂があった。天妃校からおりると左手に一味亭という大和料理屋、右手が善興堂病院、少しおりて右が龍界寺小路、千原繁子先生の病院と川田のクスリ屋があった。そして龍界寺小路をはさんで市公会堂、公会堂と向かい合ったところ、つまり善興寺坂からおりてきた左手に、戦後米民政府が土地事務所として使用していた、いまの郵政管理事務所の古い建物(戦前逓信といっていた建物)があった。
なはわらび行状記 p23、24

千原繁子

大正8年、東京女子医専を卒業後、すぐに医師試験に合格した。卒業生70余人中15人が合格した。数え年22歳。東京駿河台の杏雲堂病院に勤務、細菌学、呼吸器科、小児科を研究した。
昭和3年帰郷、28歳で那覇市役所隣で小児科[千原小児科医院]を開業した。一番近いところの内科小児科のS医師が「女子供が開業するそうだが、夜、医者は辻に行くから好都合だ」と言ったそうで、私は出鼻をくじかれた。(略)
S医師のいったことは現実となって、毎夜当番医をやったことになる。しかし、それを私は甘んじて誇りに思っていた。
---
話は前後するが、私が開業する前に善興堂には、婦人科医は長田紀秀先生と仲吉先生2人で4、50人が満員。また元順病院は金城紀光先生を院長にいただいて浜松、島袋、仲地紀晃、紀彦先生がおり、外科病院としては沖縄一であったのに、数年して善興堂が分裂、そして元順の浜松、島袋先生が出て、それぞれ個人開業した。
その他に金城清松先生のところの堀口先生も個人経営となった。
カルテの余白 p150、151(省略抜粋)


千原繁子さんは沖縄の女医第一号です。明治31年那覇生、戦後は昭和27年に松尾に小児科を開業、そして昭和32年に松山町に移転し復帰まで医師をされていました。
しかしさらっと怖いことも書いてあるんですよね。以下引用しますがもう誰にもわからないことでしょう。

そのうち二年間にS医師、H内科新開業の小児科医のH氏が相次いでパントポン常習者の噂で亡くなった。S医師の言動がどうも腑に落ちない点があったのは、ああそれだったのかと思い当たった。
カルテの余白 p150、151(省略抜粋)


【追記】千原繁子さんの旧姓は渡嘉敷であったようです。
那覇市出身・渡嘉敷繁子は、東京女子医学専門学校に学び、医師国家試験に合格。東京在任中に千原成梧医師と結婚。千原繁子となった彼女は、昭和3年に帰郷して夫君と「千原医院」を開業。
http://sun.ap.teacup.com/ueharanaohiko/244.html


那覇市史から。
「球陽座」が盛んなころ、東京留学中の安里成達、成梧(後に千原と改姓)兄弟が、東京から帰省し
那覇市史資料編第2巻 中の7 P719(抜粋)

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