忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

伊波冬子の晩年

「沖縄人物シネマ/牧港篤三」に帰郷後の伊波冬子(伊波普猷夫人)の様子がありました。

昭和36年に親泊政博、宮里栄輝等が中心となって、浦添城趾に伊波霊園を設けて、婦人が遺骨を抱いて帰り、故山に迎えた。郷里に帰られてから冬子夫人は、[伊波]先生の「琉球の五偉人」を平易に書き改めたり、放送したりして生活を支えておられたが、ついに人の情けにすがり私の近くの松川に、わずか六畳の部屋を借りてほそぼそと暮らしておられた。先生のご位牌を安置してあるだけで、琉大に譲り渡した残りの先生の旧稿や遺書を包んだ風呂敷があるだけで、調度品らしいものもなかった。それからタルーヤッチーと若い頃から親しみ慕っておられた山田有功先生ご夫妻のご好意で、先生の離れ家に引き取られて余生を送られた。
沖縄人物シネマ/牧港篤三 p183(一部編集)


1959(昭和34)年の春、冬子さんは郷里沖縄に帰ってきた。冬子さんの本籍地が東京都中野区となっているため、帰郷するのにも、当時はパスポートを必要とした。生まれ島の那覇に帰っても、転々と居を移している。やがて、山田有功さんの離れの六畳間一間台所付きトタン葺きの家屋に冬子さんは住み着いた。
沖縄人物シネマ/牧港篤三 p186


伊波普猷の命日は物外忌として墓のある浦添で夏に行われています。
PR

金城キク・金城三郎

金城キク商会の創設者の金城キクさんを検索してみました。

金城キク
1909(明治42)年小禄生。1966(昭和41)年3月20日死去
父母の死去により昭和3年実践女子専門学校(現実践女子大)を中退し、那覇市で家業の建材商(旭町)をつぐが沖縄戦で壊滅。昭和25年神里原に金城キク商会設立。企業経営の一方で財団法人金城報恩会を設立、保育園や女子学生寮(和敬寮)の設立など社会福祉事業につくした。

http://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%9F%8E%E3%82%AD%E3%82%AF
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41126-storytopic-121.html


「なは・女のあしあと(戦後編)」では泉崎出身になっています。
泉崎出身かweb上の小禄出身かというのはどちらが正しいのかわかりません。「沖縄の道を開いた女性たち/新星図書出版」は子供向き読み物で小禄生と記述、「時代を彩った女たち/ニライ社」は上書の記述を大人向けに書き直した内容で小禄生、「なは・女のあしあと」のみが泉崎生まれとなっています。

昭和37(1962)年寄宮に「みやぎ原保育園」、翌年若狭に「わかさ保育園」を開設
昭和39(1964)年、東京代々木に「和敬寮」開設
沖縄の道を開いた女性たち p60(抜粋)


キクさんのお父さんは東京で学んだ人で、検索してみると船越義珍とも関わりがあったようです。

金城三郎
1878(明治11)年小禄生まれ、1903(明治36)年に東京都高等師範学校卒業、沖縄県立師範学校、高等女学校、二中、一中の教師を歴任。1920(大正9)年県会議員、二期務め1927(昭和2)年浅野セメント特約販売店設立。昭和4年逝去。

http://takara.ne.jp/oroku/hitohito.html


【追記】コメントで金城キクさんが学校教材としてとりあげられているのをご紹介頂きました。
http://www.edu-c.open.ed.jp/keiei/iinkai/syurei.html での( http://www.edu-c.open.ed.jp/keiei/iinkai/syurei/syou4/4-56syakaihukusi.pdf ※pdf注意)が金城キクさんです。

宮里定三(沖縄ホテル)

船越義彰さんの小説に「戦争・辻・若者たち」というものがありますが、大正末年生まれで辻で育てられた船越さんの周囲の人間を半分だけモデルにしたものです。その表紙裏に辻一帯の地図があり、その地図は那覇市史に掲載されている地図より範囲が少しだけ広いです。

船越さんの図では波の上通りの護国寺の向かいの天理教の隣は「沖縄ホテル」となっています。志良堂ウタキ(現松の下)の隣が天理教です。
那覇民俗地図では天理教の隣は「見晴亭」となっていますのでオーナーが変わって名前も変えた可能性もありますがこの辺はよくわかりません。小説では32軍首脳が宴会をしていたといういう描写で登場します。

戦後の大道にも沖縄ホテルというホテルがあり、首里から坂を下りて来て大道の繁華街に至る手前の右側にあります。今となっては少し古いかもしれませんがとても良いホテルだと思います。
このホテルのオーナーが宮里定三さんでかりゆしウェアを考案した人として有名です。
波の上の沖縄ホテルは戦前初めてのホテルで、戦後最初のホテルも1951年に設立された沖縄ホテルです。

県ホテル旅館環境衛生同業組合理事長や県観光コンベンションビューロー顧問など務め県観光産業の育成・発展に寄与した宮里定三氏が 1999年3月4日那覇市内の病院で死去した、86歳だった。名護市出身。
宮里氏は1941年沖縄ホテルを設立し総支配人になり、51年社長、94年から会長に就任していた。那覇市観光ホテル旅館事業協同組合長を務めたあと、 74年5月の県ホテル旅館環境衛生同業組合発足と同時に理事長に就任した。70年9月から88年5月までは県観光連盟会長も務めた。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-93449-storytopic-86.html

山田有幹

山田有幹(やまだゆうかん)
明治21(1888)年-昭和50(1975)年
大正-昭和時代の社会運動家。
那覇生まれ。一中卒、代用教員、新聞記者を経て那覇区役所に勤務。大正10年那覇市会議員となり、無産派議員として活動。15年沖縄青年同盟を結成、昭和3年労農党那覇支部を設立するが同年三・一五事件で逮捕され組織解散させられた。戦後は軍関係労働委員、沖縄民政府社会事業部長などをつとめた。


社会主義者たちで少し戦前の社会主義について触れました。しかし社会主義運動も「社会科学研究会事件」「沖縄教育労働者組合(OIL)事件」などで次第に弱体化し沈黙させられてゆくのですが運動の中心人物の一人が山田有幹でした。
OIL事件は悲惨な結末を迎えます。

この弾圧で、真栄田(一郎)ら中心メンバー四人に対する取り調べは特にきびしく、安里成忠は拷問によって予審をまたずに発狂、真栄田も刑確定のあと発狂し、両人まもなく死亡している。この事件の公判において在京の比嘉春潮ら有志の働きかけによって布施辰治弁護士が弁護人として活躍し、沖縄の無産階級に大きな感動をあたえた。
沖縄県史別巻/沖縄近代史辞典 p55


この真栄田一郎(之璞/しぼく)は伊波普猷の妻であった真栄田冬子(忍冬)の兄妹です。

伊波普猷と「新しい女たち」。沖縄組合教会設立(1916/大正5年)の頃。前列左より永田八重子、真栄田冬子(伊波冬子)、比嘉初子(富原初子)、永田美津子、永田文子。後列左より知念芳子(金城芳子)、伊波普猷、比嘉静観、伊波普成(月城)、照屋寛範。

山田有幹は伊波のサークル周辺で恋愛をし結婚をしています。
こうして見ると明治・大正期の知的サークルだった伊波普猷周辺は社会運動とも交差していますね。

沖縄の「新しい女」として知られるようになったのが以下の5名である。
富原初子、真栄田冬子、玉城オト、金城芳子、新垣美登子。

玉城の場合、伊波のサークルに出入りしていた山田有幹をつうじて社会科学研究グループにかかわるようになるが、既婚で子供もいる有幹と恋愛関係に入る。この「不倫」に対する社会の非難は厳しく、玉城はしばらくして勤めていた小学校を辞職せざるをえなくなる。のちに有幹と結婚し、生まれた息子に「冷人(レーニン)」と名付けたが、その後、子供が病死すると有幹と離婚、1927年には再婚をしてブラジルに移民として出国した。
モダンガールという問い p8、9(抜粋して引用)


参考:社会主義者たち
参考:新しい女たち

社会主義者たち

沖縄にも社会主義の波はきています。

城田徳隆さんは師範を卒業しても教師にはならずに那覇の大門の前にLS書店という書店を開いて、社会主義の書物ばかり売っていました。(略)
第一次世界大戦終結後、沖縄の教育界にいたこともある山本実彦氏が、東京で改造社を創立し、同年4月に総合月刊誌「改造」を創刊して、デモクラシー思想高揚の時代の寵児となり、官憲からは危険思想の宣伝紙として見られ、読者は社会主義危険思想家としてブラックリストにのせられるという時代でした。
ところが「改造」の発行部数は三万にも及び、県別にすると沖縄が日本一の愛読者を持っているといわれておりました。
沖縄県史物語 p248、249(省略と編集)

沖縄の歴史研究家比嘉春潮氏は、大正時代は社会主義者として、山田有幹氏や泉正重、渡久地政憑の諸氏とともにマルクス資本論などを読んでいました。
1919年、山本実彦氏によって創刊された改造社、その総合雑誌「改造」の創刊にあたっても、わたしは比嘉春潮が相談相手になったと理解しております。
改造の応募小説に当選して文学青年をうならせた「奥間巡査」は、われわれ沖縄の文楽人池宮城寂泡であったことも思い浮かべられます。
沖縄県史物語 p284(省略と編集)


比嘉春潮さんの自伝などでこのあたりの様子がわかります。糸満グループと壷屋グループがあったらしいですが、その中には座安盛徳さんなど後年の名士もいました。

以下は関係ない放言として。
今検索してみて座安さんのあれこれが出て来たのですが、当時米政府の意向に添わない出版物発行の危険性がわかっていませんね。CICによる拷問なども国場幸太郎さん(国場組とは別人)も体験されているこような状況ですので、なにごとも根回しが無ければ危険です。
CICが何をやっていたかというのは正確にはわかりませんが組織の性格上あらゆることに手が伸びていたと考えていいでしょう。そういう中での綱渡りは単純な正義だけではやっていられなかったはずですよ。
沖縄に関しては昨今<知らなかった><本当の>などしゃらくさい内地人によるルポがありますが、そんなもの知られようがなんだろうがかまやしないのです。かつてみんなが知っていて時代とともに忘れ去られようとしていたことを掘り起こして得意顔されても「だからどうした」としか言えないのですよ。

吉元栄秀

沖縄県人事録(大正5)から豪農と記された吉元さんの項を抜粋します(範囲外の名護の人です)。

吉元栄秀
国頭郡名護村屋部九四七
君は明治5年を以て国頭郡名護村屋部に生る。亡父栄順氏の長男にして夙に家督を相続し概に四女をもうけたるが、(略)
家は素とすこぶる貧なりしが意志強固なる君の厳父は専念頽勢の挽回につとめ(略)今日の財を積みたる模範とすべき成功者たり。
今や国税二百余円をおさめ郡中の豪農として将たる徳望家として声明あり。

参考:名護 屋部 - Google マップ

名護には豪農の家がいくつかありますね。
屋部の久護家 - Google 検索
旧島袋家 - Google 検索(羽地/琉球村に移築)

屋部といえば思い出すのは山入端ツルさん(三味線放浪記)。この本は成立過程にも味があります。そして兄の山入端萬栄さんのことも書かれている「眉屋私記/上野英信」も対にして読むべき本。
この兄妹のような貧困と豪農が存在する近世の沖縄というのがよくわからんのです...

上江洲フミ(料亭那覇)

辻で営業している料亭那覇の本店の歴史をまとめてみます。

昭和25(1950)年 那覇市ガーブ川沿いに「料亭那覇」を新築移転
昭和31(1956)年 那覇市辻に「料亭那覇」新築移転
昭和41(1966)年 料亭那覇本店(辻)米兵の放火で消失、料亭那覇再建
会社案内:料亭那覇 〜伝統琉球のおもてなし〜

http://www.ryouteinaha.com/?men=7


上江洲さんを人事録風にまとめます(参照したのは下記サイト)。
http://www.geocities.jp/yuminuyu/tuji15.html

上江洲フミ(料亭那覇)
大正2(1913)年、八重山黒島生まれ、久米島で育つが辻に身売りされる。平尾喜一に身請けされ第三新鶴楼のアンマー格として働き、首里出身の上江洲安儀と結婚する。昭和20年大分県に疎開するが夫は戦死。
昭和21年12月帰沖、昭和23年から25年まで「金武湾ホテル」、昭和25年ホテルを引き払いガーブ川沿いに料亭那覇を開業する。
昭和27年に辻の土地を購入し昭和31年に料亭那覇を移転させる。昭和28年には東京日本橋に料亭那覇の支店を開業させるが本店が火災にあったため昭和41年に閉店させ焼失した本店を再建する。
平成5年4月に82歳にて逝去。


上江洲さんは「一町村に一軒だけ民営のホテルが認可される」という話のもと金武湾ホテルを開業しているのですが、これで戦後に割と田舎の辺りにホテルがあった理由がわかりました。料理を出すことも可能であったホテル業は辻での技能(調理や芸事)を発揮することが出来た料亭的側面もあったのでしょうか。


図は昭和26年の最新那覇市地図を参考にしたものです(ほとんど模写ですが)。下の横線が国際通りで真ん中の水色がガーブ川(沖映通り)、中央にあるのが料亭那覇です。

山本[謝敷]宗盛(山本時計店)

琉球人事興信録より山本時計店主の山本宗盛の項を抜き出します。

山本宗盛(旧姓 謝敷)
那覇市16組
氏は明治43(1910)年那覇市上之蔵町に生る。
和歌山に渡り時計、表具、書道等の修行に没頭 技術を習得して帰郷するや、辻町端道において謝敷表具店を開業、まもなく天運繁忙を極め傍ら辻町町内会会長に推薦せられ(略)終戦に至る。
この後山本時計店を開業し、市内屈指の店として同業界に重きをなし(後略)


辻は上之蔵通りに平行して三つの道が走っており、上之蔵に近い順から、端道(ハタミチ)、中道(ナカミチ)、前道(メーミチ)と呼ばれています。辻は格子目状の町並みで三つの道に直角に交差する道もあり、その道は三つの道の間を結ぶ短い間隔それぞれが名前をつけけられています。
端道と中道の間を結ぶ道の一つに「畳屋スージ」というのがあり端道沿いに畳屋と書かれています(那覇市史内の辻地図による)。もしかしたらこの畳屋が謝敷表具店だったのかもしれません。

ついでに書いておくと「那覇市史資料編第二巻中の7」にはp132、133に「旧辻遊郭之図」というものがあり、終戦直前那覇警察が取り締まりのために作成したものに補記したものという但し書きがあります。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]