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大城ウシ(香那恵ホテル)

琉球人事興信録(昭和25)より編集抜粋します。

大城ウシ
香那恵ホテル経営主
那覇1区14組
その名もゆかしい香那恵ホテルを経営している人は幻燈まどろみ蛇味の音さんざめく往時の辻町の一角に於いて幾多の名妓をかかえ隆々たる名望聞こえた新雲楼のお主大城ウシさんである。
彼女は明治20年辻町に生る。幼少の頃より芸三線を身につけ(略)沖縄戦乱にすべてを鳥有に帰し(略)1947年5月昔の友と現在地において料亭かなえを開業するに至り今日に及んでいる。


戦後辻から各地に散って料亭等を始めた人達ですね。
明治20(1887)生まれで戦後の開業が昭和22(1947)年ですからかなりのお年です。また琉球人事興信録には家庭という項目もあり配偶者や子息(や親)の名前が書かれているのですが、大城さんの家族欄は「養子」となっています。

新雲楼は後道と天使館小路の角にありました。
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松本思明(花咲)

料亭花咲経営者の松本思明の紹介が「琉球人事興信録/崎原久 編/1950.6」にありました。抜粋編集して紹介します。
松本思明
料亭、花咲経営主
元那覇10区区長
那覇10区1組
氏は明治34年那覇市久米町に生る。規定の学業を卒るや辻町に料亭花咲を開業し、爾来市内屈指の料亭として内外の信望を博し辻町町内会□料亭組合長に推薦せられて(略)終戦に及んだ。この後花さきホテル、松島製材所を設立経営、傍ら10区区長に推薦されて復興建設に没頭して今日に至る。49年8月料亭に改称されるや繁忙を極めてその業たるや鮮やかなものがある。


那覇の料亭で戦前那覇の料亭について触れましたがそのとき図にしたのは那覇民俗地図にあるものだけで当時の新聞や記録等に名前が残るもので場所がわからないものはまだたくさんあります。
花咲は辻にありかなり有名な料亭だったようですが戦後に牧志(那覇10区)で復活しています。下の図は昭和26年の「最新那覇市地図」から場所を特定しました。ただ地図では2組にあるように見えます。
当時と現在では一銀通りのように当時無かった通りもありますし道筋が変わっているところもありますので参考程度にお願いします。当時は国映館の位置に世界館、その隣は松尾交番所があったようです。
花咲(戦後)
戦前の花咲の位置はこうなっています。

嘉数詠顕

沖縄県人事録(大正5)からですがこの人は目次の肩書きが「富豪」となっています。
上之蔵は金持ちと医者が沢山いたようですがこういう人ばっかりだったんでしょうか。


嘉数詠顕
那覇区上之蔵町二ノ六十八
家に巨万の富を有し沖縄の実業界に雄飛して勢威斯界にならびなく、徳望ある実業家として衆望をあつめ居たりしが、今や激務を避けて自邸に高臥し、専ら家運の維持経営に努め、悠々余生をたのしみつつつある君は、嘉永3年2月8日を以て那覇区上之蔵町に生る。


履歴は編集して引用します。

嘉永3(1850)年2月8日をもって那覇区上之蔵町に生る。
父詠元の三男。一男一女あるうち嫡子は詠清(農工銀行書記)だったが大正2年逝去。
詠清長男の詠憲(沖縄毎日新報記者)を嗣子とする。

明治30年 沖縄県農工銀行創立に委員として奔走
明治31年 同銀行の取締役および頭取に就任
明治39年 辞職

明治29年 那覇区会議員(二期)
明治31年 徴兵参事委員


【追記】
「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」にある「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」の画像を追加します。画像は加工して切り出してあります。
嘉数詠顕

船越義彰

生粋の(最後の)ナーファンチュと言っていいであろう船越義彰さん。残念ながら2007年にお亡くなりになられています。
web上にあるプロフィールと本のあとがきからまとめてみます。

船越義彰 [1926.12 - 2007.3.5]
那覇生まれ、1943年中野高等無線電信学校卒、旧琉球政府広報課長、旧琉球電信電話公社秘書課長、国際電信電話通信事務所。

戦後最初の詩の同人「珊瑚礁」に参加、55年の新聞連載小説「みどりの紋章」を皮切りに小説やテレビドラマ、沖縄芝居の戯曲を発表。82年「きじむなあ物語」で第5回山之口貘賞を受賞した。
乙姫劇団の顧問、創作舞踊の作詞などを手掛け、沖縄芸能界の「ご意見番」としても活躍。
「船越義彰詩集」「スヤーサブロー」「狂った季節」「遊女たちの戦争」「戦争・辻・若者たち」「なはわらべ行状記」


空手の大御所である船越義珍[1868 - 1957]さんの親戚でもありますね。本に関係やエピソードもあったはずなのですが今は思い出せません。
義彰氏のエッセイ等からも那覇の昔の様子が分かる記述を抜き出してみたいと思います。

久志芙沙子(久志ツル)

久志芙沙子/久志富佐子/久志ツル(1903 - 1986年)
1932年「婦人公論」6月号に「滅びゆく琉球女の手記」(原題「片隅の悲哀」)
父は久志助保(? - 1915年)、漢詩人
祖父は久志助法(1835 - 1900年)評定所の筆者主取で漢詩人、「顧国柱詩稿」作者
琉球処分後父が糖業に失敗し、一家は没落
一高女卒業後県内で教員を勤め、のち昭和五、六年頃上京
首里士族・安良城盛雄と最初の結婚、台湾での新婚生活、幼子・繁の病死、次男・勝也を残し離婚
年下の慶応大学医学生・坂野光と駆け落ちして再婚(名古屋)
---
近代医学が匙を投げた病から夫を救った宗教・解脱会への帰依
宗教家としての名声
子供7人の成功
医者になった長男の水死
勝也を探し出して母の名乗る
沖縄に居たらユタになっていたと語る

名前で検索して得られた情報をまとめ、追記分のデータから補足してあります。

【追記】「時代を彩った女たち/琉球新報社編」には4ページほどの久志についての文章がありますが、久志の情報は少なく、著作と当時の時代背景の説明に多くが裂かれています。
久志に関する考察は下記アドレスなどが参考になります。

http://plaza.rakuten.co.jp/tohno/4002
http://plaza.rakuten.co.jp/tohno/3012


琉球新報の仲村顕さんによる連載「眠れる先人たち」(2012年9月27日付)は久志を取り上げています。関連年表によると断筆から後は1973年の「青い海」27号にインタビューと「寄稿 四十年目の手記」、1988年に遺稿集「一期一会」があり、2005年には息子さんによる坂野興編「母と子の手記-片隅の悲哀」が書かれているようです。(2012.07.04追記)

宮里辰彦

宮里辰彦[1917(大正6)〜1993(平成5)]
那覇市生。二中、第七高等学校造士館、東京帝国大学経済学部卒。日本興業銀行勤務をへて、軍需省。戦後、沖縄民政府通訳官をへて、琉球列島貿易庁総裁となり、沖縄経済の復興にあたる。昭和27年から父が創業した琉球貿易をひきつぐ。29年デパート経営をはじめ、39年リウボウと社名変更。


http://ryukyushimpo.jp/modules/news/article.php?storyid=43087
http://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E9%87%8C%E8%BE%B0%E5%BD%A6


戦後の人事録では本籍は「東町2の31」となっています。
この住所は宮里辰雄さんの昭和12年の人事録掲載のものと同じですので親子だと思われます(嗣子辰彦君(21)とも記載)。

兼次佐一

兼次佐一元那覇市長は捉えにくい人です。
いろいろ感じるところはあるが同時代人や近くにいた人、あるいは本人しかわからない部分というのはあるんだろうと思います。また毀誉褒貶が激しい人でもあります。

お孫さん(?)が著作を抜粋してインターネットで読めるようにしているみたいです。
著作は読んだことがありますが、古い本でもあるしあまり古書店にも出回るような本ではないので貴重ではないかと思います。
http://sarangkay.exblog.jp/tags/%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%9B%B8/
※真実の落書タグが著作の「真実の落書」です。

このブログ(グダグダ)の中ではガーブ川の七不思議で登場。

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