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宮里三郎・忠一

沖縄県人事録の知念績貞の項目で「嗣子雅二郎君は宮古王宮里三郎氏の令弟にして宮古商会南洋方面の事業監督を担当し同地に活躍す」とあるのが気になっていました。
以下昭和12年の沖縄県人事録から引用しますが知念績貞との関係はわかりませんでした。とりあえずメモ代わりに。

宮里三郎
宮里百貨店主(宮古商工会長)
宮古郡平良町西里2
君は良一氏の長男にして明治7年を以て那覇市垣花町に生る。明治29年沖縄師範学校を卒業し2ヶ年の間を国頭郡羽地小学校訓導として教鞭を執りしが、間もなく実業界の人となり、宮古郡平良町に於いて商業に従事し終に今日の大を成すに至れり。目下百貨店経営の傍ら株式会社宮古商会社長、宮古電燈会社長、通船会社取締役たり、更に宮古商工会長、煙草小売人組合長其他の公職名誉職を有す。
【家庭】妻カメさん(明7)、長男良栄君(明34)、嫁春さん(明38)、次男良和君(明36)、孫康弘君(大14)、同康準君(昭5)、同喜久子さん(昭9)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)

「平良市史 第8巻 資料編6」によると没年は1945年。父母が宮古島で経営していた宮里商店が94年11月に火災の類焼で経営が行き詰まったため97年7月に宮古島に向っています。長者番付では1918年18位、25年7位、32年3位、39年2位です。

宮里忠一
宮里商店主(宮古朝日新聞社長)
宮古郡平良町西里大通
君は那覇市垣花町の人、明治30年を以て生る。宮里三郎氏の令弟にして、夙に一家をなして同地に在り、恪勤精励以て内外の信望を厚ふし遂に今日の大を成せり。今や平良有数の老舗として金物雑貨を商ひ、傍ら幾多の事業に関係を有し、家運益々隆盛の一途を辿る。
【家庭】妻キヨさん(明32)、長男輝一君(大13)、次男照男君(昭2)、三男忠昭君(昭5)、四男修弘君(昭7)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)

平良市史では1942(昭和17)年没。大正の頃宮古島へ寄留し山忠金物店経営となっています。

明治期の宮里商店(ヤマコ/)。
画像は下記アドレスのサイト様よりお借りしています。m(_ _)m

http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2056547.html
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照屋林顕

昭和12年の沖縄県人事録から。
写真は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からです。

照屋林顕
沖縄県水産会副会長
那覇市東町4ノ33
君は慶応3年那覇市久米町に生る。明治19年沖縄県師範学校を卒業し教育界に在ること21年、明治38年教職を退き実業界に入り沖縄パナマ製帽株式会社を設立その社長となり、傍ら食品会社専務に推さる。明治42年「水産立県」を念願、本県最初の発動機漁船照島丸を建造鰹漁業に乗出し、爾来水産会のため尽瘁して今日に至る。今や水産王として斯業の改良発展に貢献し功績偉大なるものあり。帝国水産会議員、県水産会副会長、那覇市水産会長、水難救済会那覇救難所長、製氷会社監査役等の要職にあり、水産功労者として昭和5年観桜御会、同7年観菊御会お召の光栄に浴し、大日本水産会伏見総裁宮殿下より表彰され昭和11年帝国水難救済会総裁宮殿下より二等有効賞親授さる。
沖縄県人事録/昭和12年 (抜粋と編集) 


沖縄県人事録(大正5年版)では明治元年生になっています。

前に阿旦葉帽子会社と軍人遺族救護で「阿旦葉帽子製造を計画し、重に字久米軍人遺族を職工としいささか救護の途を尽す」という明治38年11月の新聞記事を取り上げたのですが最初の引用の通り帽子会社はうまくいったようです。少しの違いではあるのですが、昭和12年版では「沖縄パナマ製帽会社」、大正5年版では「沖縄帽子株式会社」になっています。
あとこの人は士族です。

金城仁得

金城仁得
元壺屋農事組合専務
元那覇市議会議員
丸金デパート経営主
那覇市3区3組
氏は明治42(1909)年真和志村繁多川に生る。既定の学業を卒るや家業を継いで農業に従事、其間壺屋青年団長、農業実業組合長等をつとめて社会に貢献して終戦に至った。1946年那覇農事組合を組織し、後壷屋農事組合を設立するや専務に推挙せられ福利発展に没頭し治績多大なものがある。
1948年市会議員に出馬して当選、市政の円滑を計って今日に至る。
琉球人事興信録 1950(抜粋と編集)


神里原の丸金デパート経営主ですね。
1948年の市議選は定数26/立候補35、有権者数6660人で投票者数5717人(85.84%)、金城仁得さんは201票で9位、この一期だけやったようです。

仲田睦男

仲田睦男
沖縄興行株式会社取締役社長 琉球肥料株式会社常務取締役
明治43年生
那覇市楚辺2区3班
氏は伊是名村の出身、早稲田商業学校に学び台湾総督府普通文官試験に合格後台南州商工課庶務係長同経済統制課企画整備係長同北門郡勧業課長等の要職を歴任す。
終戦後1946年11月引揚げ、47年2月沖縄興行会社を設立専務取締役に任じ、同49年1月取締役社長に就任す。更に52年3月琉球肥料株式会社設立と共に常務取締役を兼務、傍ら琉球商工会議所綜合経済専門委員となる。沖縄興行会社は本社貿易部を真和志市楚辺に、貿易部販売部を同市蔡温橋に、アサヒセメント瓦工場を同市国場に、オキコ製麺工場を同市寄宮に、製菓工場「オキコキャラメル」を那覇市壺川に経営し何れも堅実に経営している。特にオキコキャラメル及オキコ中華そばは島内産の中輸入品に優る優秀品として好評を博し、全島に販路を拡張し今後の発展が期待されている。
琉球紳士録 1962 大宜味朝徳編 (抜粋と編集)


沖縄興行(オキコ)社長ですが戦前は台湾で要職にあったようです。

沖縄興行、あるいは仲田氏個人は北部製糖と密接だったと思われるのですがその辺の経緯を説明する書籍などは探せていません(社長だったこともあるようです)。会社沿革のページを参考にすると1953年に製菓工場、54年に製麺工場を開設したようです。
仲田氏は2001年12月に91歳で逝去されています。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-110262-storytopic-86.html

具志堅得助

具志堅得助
沖縄相互銀行頭取 沖縄新聞社社長
明治38年生
那覇市10区5組
氏は那覇市西新町の出身で大正9年2月に沖縄農工銀行書記補として勤務、大正12年沖縄産業銀行書記に就任、昭和2年南陽薬品株式会社入社、同7年に退職して事業界に入る。同年硝子製造業鉄工業を経営し事業は着々と成果を挙げ他社を圧倒して躍進の一路を辿る。昭和7年に那覇市会議員に当選政界に第一歩を踏み出す。1947年那覇市市政委員、同年那覇市市会議員に再選議長に推薦され、又民生委員を命ぜらる。同年沖縄群島議員に当選す。現に沖縄相互銀行頭取の他に沖縄火災保険会社社長、紅房社長、那覇薬品取締役、沖縄旅行社取締役、沖縄新聞社社長、第一倉庫会社監査役、沖縄交通会社監査役、那覇陸運会社監査役、琉球日産会社監査役、琉球商工会議所理事等の要職にある。
(中略)
先に「沖縄朝日紙」の社長に就任するや直ちに「沖縄新聞」と改題し、巷間伝はる左傾新聞としての誤解を一掃し、同紙をして不偏不党真に社会の木鐸としての使命の遂行に万全を期し不動の身構えを示された。好漢具志堅得助氏の存分の活躍が一層期待される。
琉球紳士録 1962 大宜味朝徳編 (抜粋と編集)


戦前からの大物ってとこでしょうか。
(自分的に)面白いのは後段の左傾新聞ってとこなんですが、大宜味朝徳編集の人事録ってとこを考えると味わい深いものがあります。

城間康雄

城間康雄
沖縄陶器株式会社重役
那覇市1区1組
氏は祖先伝来陶器業を営む家庭に生を享け、其盛名を傷けず今日の大を成す。明治27(1894)年那覇市に生まれ、学業を卒へるや家業に精勤、祖先より斯界に奮迅する事今日230年に及ぶ。大正6年海兵団に入団、海軍下士官として欧州戦争などに参加、欧州諸国、地中海方面に活躍して戦勝章を授かる。昭和17年沖縄全島戦時統合に依る工業組合長に推され、其間亦政界への進出も目覚しく那覇市議会議員に当選、政治、経済の大御所として広く其名を知られ、戦後兄弟相協力して陶器業の機械化をはかり沖縄工業の発展向上に尽する見るべきもの甚大なり。
琉球人事興信録 1950(抜粋と編集)


市場通り(52年) 2に沖縄陶器があります。
沖縄陶器株式会社で検索すると「壺屋博物館建設物語」というpdfがヒットしますが、その中に「城間康裕沖縄陶器株式会社社長」という名があり、上で引用した琉球人事興信録の家族の項にも「二男康裕」とありますので息子さんなのでしょう。
※人事録の引用の際には家族欄は基本的に省略しています

壺屋の姓は城間、高江洲、小橋川などがありますが、城間康雄さんの家も引用文の通り代々陶業を生業とされてきたのでしょう。

知念績貞

昭和12年の沖縄県人事録から知念績貞さんです。

知念績貞
砂糖委託商(マル三倉庫経営)
那覇市西新町3ノ7
君は明治8(1875)年を以て首里市儀保町に生る。大正10年砂糖委託商を営み丸三倉庫を経営して今日に至る。現在那覇商工会議所議員、沖縄糖業互助会評議員等の要職にあり、嘗ては沖縄糖小組合評議員たりし事もある。(中略)今や市内屈指の砂糖委託倉庫として家業隆盛の一途を辿り、財力とともに其企業的手腕を謳わる。嗣子雅二郎君は宮古王宮里三郎氏の令弟にして宮古商会南洋方面の事業監督を担当し同地に活躍す、趣味は囲碁。
【家庭】妻ツルさん(明17)、嗣子雅二郎君(明35)、嫁ヒデ子さん(明38)、孫貞男君(昭7)、同みち子さん(昭5)があり頗る円満である。
沖縄県人事録(抜粋と編集)


まず「西新町3ノ7」。

沖縄タイムス掲載「思い出のわが町」の「戦前の西新町民俗地図」には3ノ7の位置に「知念」がありますのでここが知念績貞さんの丸三倉庫だとおもわれます。


前森五良

昭和12年の沖縄県人事録から。前森さんは慶応元年生ですから昭和12年当時は72歳くらいになります。

前森五良
大和自動車商会主
那覇市西新町3ノ8
多年村会議員として自治に盡して功績を挙げ、今や繁雑なる陸上交通運輸業に携れる旁ら、居村の発展の為め只管心を砕きて日も尚ほ足らず、与那城村の長老として村民敬慕の的たる人に前森五良君あり。君は慶応元(1865)年10月を以て中頭郡与那城村字平安座に生る。夙に一家をなし農事に従事して精勤し、傍ら村会議員に挙げられ、村政の為に多年盡瘁
[*1]せる与那城村屈指の有力者なり。昭和3年1月御大典記念事業として大和自動車商会を創立し自動車運輸業に従事して今日に至る。目下那覇屋慶名、那覇金武の二路線を有し家業逐年隆盛を極めつつあり。
沖縄県人事録(抜粋と編集)

*1 盡瘁(尽瘁/じんすい)全力をつくし、自分のことはかまわずに苦労すること。
http://www.weblio.jp/content/%E7%9B%A1%E7%98%81

那覇民俗地図や沖縄タイムス連載「思い出のわが町」での「戦前の西新町民俗地図」では大和自動車はありませんが、国場組社史掲載の「昭和初期の那覇市街図」には存在します。

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