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當眞嗣松

昭和12年の沖縄県人事録から當眞嗣松さん。

當眞嗣松
當眞タクシー経営主
那覇市西新町3ノ2
君は明治30年を以て首里市金城町に生る。昭和6年那覇市に於いてタクシー営業のトップを切り爾来恪勤精励して多大の信用を博め、家業逐年流星の一途を辿つて今日に及ぶ。目下タクシー組合の組合長たり、業態又発展を続け、多数の高級車を擁し市内屈指の営業主としていよいよ将来の大成を期待さる。
沖縄県人事録(抜粋と編集)


地図は西新町(昭和4)からで、「西新町3ノ2」は2丁目へ渡る橋の横あたりです。那覇民俗地図や沖縄タイムス連載「思い出のわが町」での「戦前の西新町民俗地図」では當眞タクシーはありませんが、国場組社史掲載の「昭和初期の那覇市街図」には当真タクシーとしてあります。
写真も残っています。

那覇まちのたね通信 | 那覇(交通)/當真タクシー/戦前/昭和のはじめの頃のタクシー
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1343
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新垣義堅

新垣平尾バスの新垣義堅さんです。沖縄大百科事典からまとめます。

新垣義堅
1898(明治31)年国頭間切辺戸生、1965(昭和40)年没。
国頭尋常高等小学校卒業後上京し自動車学校入学。帰郷後沖縄自動車に運転手として就職し、1923年金城清松らの後援を得てあらかき自動車商会を設立。34年に南陽自動車商会、38年に朝日自動車商会を吸収合併。39年に統制令によって平尾バスと合併し新垣平尾バスとなり、その専務に就任。バスだけでなくタクシー部門(あらかきタクシー)も設置、その後満州でもタクシー会社を経営する。


新垣平尾バスについて。

新垣バス(1923年設立)と平尾バス(1923年設立)が統制令により1939年新垣平尾バスが設立、那覇名護間を運行する。
沖縄戦で壊滅的な打撃を受けるが戦後再建、54(昭和29)年に昭和バス(現琉球バス)に合併されるまで営業した。


戦後の沖縄本島のバス路線事業は1950年4月1日に会社を設立した沖縄バスに始まり、1950年 - 1951年には14社(*1)が乱立。
うち8社の合併や買収などで誕生した昭和バス株式会社と青バス株式会社が合併し1964年7月に琉球バス交通の前身である琉球バス株式会社が発足した。
※沖縄バス、共同バス、首里バス、三共バス、沖縄交通(桜)、那覇交通(銀)、合同バス、昭和バスあらかき平尾バス、協和バス、東陽バス、第一交通、青バス、那覇陸運
琉球バス交通 - Wikipedia


新垣平尾バスは戦後復活したけども1954(昭和29)年に昭和バスに合併され、その昭和バスも1964(昭和39)年に琉球バスに合併されたという流れのようです。
ですが沖縄協同バス株式会社で扱った「沖縄実業と文化人名録」では「取締役社長 平尾喜一、専務取締役 新垣義堅」となっていてよくわからんとこです。また沖縄実業と文化人名録は発行年がはっきりしません(50年代の初期なのは確か)。

【追記】1950年の琉球人事興信録から抜粋します。

新垣義堅
協和旅館経営 沖縄協同バス専務
戦前新垣バスと言へば知らざる者なし沖縄流通業を掌握し実業界に君臨して其の名を馳せたる新垣義堅氏は明治32年国頭村字宜名真に生る。郷学を卒へるや決する所ありて出覇、金城内科医院に勤務したるも将来自動車職の有望なるに着眼し、之が経営を志し上阪して自動車学校に入り運転の技術を習得して帰県、沖縄自動車商会に勤務し大正12年独立して新垣自動車商会を開設し事業隆々として向上の一途を辿り沖縄交通業界の異彩として県下を風びし盛業を極めたるも終戦となり休止の止むなきに至る。されど氏の才能は凡庸の及ぶ所に非ず虎視眈々機の至るのをまち大成するものとして逸す可からざる人材なり。1946年協和旅館を設立するや腕にものを言はせて隆々たる盛業振りを示し1950年1月いよいよ沖縄協同バス株式会社設立し、交通業界の権威者たらんと氏の将来期してまつべし。
琉球人事興信録 1950(抜粋と編集)


関連:グダグダ(β) 白山療養園 (金城清松/金城内科医院)
参考:グダグダ(β) 千歳橋通り/浮島通り(50年代初期) (協和旅館)

仲本興正

浮島通りの由来となったホテル浮島のオーナー、仲本興正さんです。

ホテルうき島
ダンスホールうき島
南洋群島帰還会長
仲本興正
那覇市10区12組
氏は明治24(1891)年那覇市に生る。学業を卒ゆるや家業の傍ら刻苦勉○以て沖縄県巡査採用試験の難関を突破し、警察界の人となる。大正9年警部補に累進すると共に選抜されて東京警察講習所に入所、法学の万全を期して大正11年同所を卒業して勇躍母県にかへり衆望を一身に受く。翌年南洋庁に出航を被命、昭和4年には抜擢されて警部に任官、更にサイパン島沖縄県人会長に推され、同6年には南洋日日新聞社を創立し、其の社長として操こう界に奮迅、傍ら南劇場を経営、尚ガラパン町副総代、パラオ沖縄県人会長などを歴任、在留県人の良き指導者として声望厚く、1948年帰還するや宏壮極まる大ホテル「うき島」近代設備をほこる「ダンスホール」を設立、爾来家運隆々として商勢日々○昇る。傍ら空手同好興道館長を勤め尚南洋群島帰還会長を勤める風来堂々たる紳士なり。
琉球人事興信録(1950)


ゼンリン地図69年版での浮島ホテルはここ。

国場真一

1954年の沖縄名鑑から国場真一さんです。

丸國マーケット経営主
壷屋町内会長
国場真一
明治27年10月10日生
氏は那覇市壷屋の出身にして明治40年那覇尋常小学校を卒業す。陶器の名産地壷屋にあって陶器製造業に従事(略)
終戦後は壷屋に現在の丸國マーケットを新築し貸店舗として市民に提供広く顧客を擁して繁栄を極めている。氏は現在壺屋町内会長として活躍し、かつては所得長者番付のナンバーワンとして盛名を謳われ面目を施した。
沖縄名鑑(1954) p77(省略と抜粋)


昭和25(1950)年の那覇市内の多額納税者に7位で名前があります。

(1)高良一/劇場、(2)真栄田義郎/劇場、(3)金城真行/土建、(4)仲井眞元楷/劇場、(5)仲村忠信/商業、(6)山城思太郎/土建、(7)国場真一/商業
那覇市内の多額納税者(S25)


丸国マーケットがいつ出来たのかはちゃんと探せてないのですが1950年にはあったというのは確かそうです。
那覇市内の割当地土地評価でも丸国周辺は市場通りに次いでの高評価ですので儲ってたんでしょうね。

関連:グダグダ(β) 51年の土地評価(割当地 2)

上江洲由正

戦前パナマ帽製造会社を経営していた上江洲由清さんを取り上げましたが、その息子さんである上江洲由正さんも取り上げてみたいと思います。
自伝である「大同火災と私の人生」からです。

大正6(1917)年那覇市松下町で生まれる。北谷村屋良小学校、那覇尋常小学校、那覇尋常高等小学校、那覇市立商業学校卒業。
昭和13(1938)年都城歩兵第23聯隊へ入営、上海へ憲兵として配属、終戦とともに中国側へ拘留される。昭和24(1949)年巣鴨刑務所へ移送、昭和27(1952)年仮釈放され沖縄へ戻る。
昭和29(1954)年6月父由清死去、同年7月号名会社沖縄製帽代表社長に就任。
昭和30(1955)年沖縄農産工業株式会社取締役社長(パイン関連)。
昭和36(1961)年球陽自動車保険相互会設立、昭和37年同社専務取締役。
昭和38(1963)年共和火災海上保険株式会社常務取締役、昭和39年同社代表取締役専務、昭和40年同社代表取締役社長。
昭和46(1971)年12月大同火災海上保険株式会社設立、代表取締役社長就任。
大同火災と私の人生 p211、212(抜粋と編集)


年表には「沖縄製帽」の項目は一ヶ所のみでその後どうなったのかは書かれていません。
「大同火災と私の人生」には門中についても触れられていますので引用します。

私たち上江洲家は李姓である。(略)門中宗家の当銘家の屋敷は首里汀志良次にあったが跡嗣ぎが絶えて、現在私が李姓門中会長を引き受け、宗家の親元祖をまつっている。
李姓一門の多くは、廃藩の頃に首里を離れて各地に住み着き、それぞれの土地に定着して成功しており、門中の誇りとするところである。思い出すだけの名前を挙げると、戦前の一中教諭で戦後首里市長になった兼島由明、沖縄文教図書の当銘由金、組踊の大御所・真境名由康の諸先輩がおられたし、若手には前具志川市長の当銘由親らがいる。名に「由」が付くのは李姓の特徴で、首里、那覇にある「当銘」「上江洲」「兼島」「真境名」「長嶺」具志川の「当銘」「長嶺」というような姓はほぼ門中一族である。
糸満にも「野原」「内間」「上江洲」「長嶺」があり、東風平にある按司墓を拝んでいる。こちらも李姓の分家と言われている。
李姓門中のお墓は、旧那覇市浄水場の上側、天久の高台にあって、墓のナー(庭)も広かった。
---
父由清は母マカトを娶り、二人の間に三男一女をもうけた。首里士族の出で、廃藩の頃に那覇に下りて若い頃からパナマ帽の製造販売に従事して戦後も家業を盛りたてるために大いに働いたが、病を得て昭和29(1954)年死去した。現役で軍隊に行っており、明治生まれの気骨のある人だった。母は当時の沖縄女性がそうであるように常に夫をたてる温和な人柄であった。昭和47年病没。
大同火災と私の人生 p205〜207(抜粋と編集)


姓と名乗りについてはっきり書いてあったので引用してみました。お父様は上江洲由清さんで明治24年那覇市松下町生まれ、兵役後に製帽関係の仕事をして独立しています。
また由正さんが商業学校を卒業し製帽会社を手伝うころには沖縄には7つの製帽会社があったそうですが、沖縄県人が経営する会社は上江洲由清さんの会社のみであったようです。本文中にはパナマ帽製造に関する思い出などがあるのですがこれは別項で取り上げたいと思います。

関連:グダグダ(β) 大同火災 (社長を務める)
関連:グダグダ(β) 上江洲由清

呉振綱

どんな人かはさっぱりわかりませんが広告がありました。

新茶入荷
五月二十八日入港の基隆丸より
第一階新茶多数入荷致候
夏期の飲料としては質がよく香がよく衛生上にも逸品であります
特に勉強します、早く御求め下さい
那覇市東町4ノ35大門ノ前通り
源春茶行
呉振綱

沖縄朝日新聞 1925(大正14)年6月18日


もうひとつ。

拝啓私儀数年来○華洋行と共同経営致来候処本年貳月源春茶行と改名し独立致候
弊店独立以来常に信用本位として製品に留意し台湾茶の混入絶対にない為一般の信用厚く販路非常に拡張致し居る○○に各位の御引立の賜を奉謝候
処が近々弊店の印に類似品続出台湾茶を混入して不正販売する者○之○に承り候へば何卒今後弊店商標御注意の上猶ほ一層の御引立を乞ふ
弊店の商標には不詳の(名前呉振綱)と認め置き候へば其点に深くご注意願仕候
那覇市東町4ノ5大門通り
源春茶行
呉振綱
※○は不明文字
沖縄朝日新聞 1925(大正14)年3月10日


お茶の店はたくさんあるのですが不正販売はどこだったんでしょうか...

川崎正蔵

寄留商人でもうちなーんちゅでもありませんが沖縄と意外なところで関わっていた人間ということで番外編。

川崎正蔵
川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、天保7年7月10日(1836年8月10日) - 大正元年(1912年)12月2日)は日本の実業家、政治家。
---
明治4年(1871年)上京し、明治6年(1873年)帝国郵便汽船会社副社長となり、東京、琉球間の郵便航路開始に尽力した。同社は明治11年(1878年)に三菱汽船会社と合併する。
明治10年(1877年)大阪に官糖取扱店を開き、また琉球反物の運送販売により巨利を得て、念願であった造船業を開始。
川崎正蔵 - Wikipedia


川崎重工の創始者は薩摩人ですか。薩摩人で砂糖と反物でぼろもうけとなれば寄留商人の姿と重なります。
大阪・東京の糖商のことも知っておいた方がよさそうだけど大変そうだ。

沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)での尚家

「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」に「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」という人事録があります。その画像がダウンロード可能ですので尚家をまとめてみます。
以下の画像はすべて「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」からダウンロードし、自分が画像加工・修正をしたものです。
説明はすべて「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」のものですが、wikipedia他と食い違っている所もありますのでご注意。

尚典。尚泰長男、元治元年8月2日生。
参考:尚典 - Wikipedia
尚典尚典

尚昌。尚典長男、明治29年9月17日生。
参考:尚昌 - Wikipedia
尚昌尚昌

尚旦。尚典三男、明治23年12月生。
尚旦尚旦

尚順。尚泰四男、明治6年4月6日生。
参考:尚順 - Wikipedia
尚順尚順

尚秀。尚泰第4子(尚順の弟)、明治22年9月生。
参考:尚泰王 - Wikipedia
尚秀

尚光。尚泰第5子、明治23年12月26日生。
尚光尚光

尚琳。尚泰次男の尚寅(Wikipedia)の長男。明治24年12月24日生。
尚琳尚琳

尚球。尚泰次男の尚寅の次男(尚琳弟)、明治25年9月23日生。
尚球

画像加工は一応字が読めるように努力しましたが元画像でブレているものはどうしようもありません...

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