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高良盛一(なみさと商会)

なみさと商会の高良盛一氏のプロフィールを人事録より引用します。

高良盛一
1907(明治40)年那覇市生まれ。
二中卒、のち並里商会を設立し代表者となる。阪急繊維取締役社長、並里商会代表、興南高理事、新生デパート理事。
本籍 牧志町


本籍が那覇市牧志町だということは牧志に古くから住んでいた人なのでしょうね。牧志のムートゥヤーは高良さんと嘉数さんで、あのへんにはこの二つの姓を持った人が結構います。
なみさとは平和通り入り口からむつみ橋にかけていくつかの店舗があったようですからその辺の土地を所有していたのでしょう。
あと「興南高理事」についてですが興南高校の建学の精神という文に名前がありました。

学園は昭和37年、終戦後の荒廃した中で、沖縄の将来を憂い、沖縄県の経済的・政治的自立のために沖縄県の将来の担い手の育成が急務であることを痛感し、高邁な理想と見識を持つ同志の高良嘉永氏、高良郎栄氏、高良盛一氏、高良忠一氏、高良真一氏、高良文雄氏、高良徳栄氏、高倉幸次郎氏及び当時文教局諮問委員の山城篤男氏が浄財を提供して創立された。
http://senior.konan-h.ed.jp/detail.jsp?id=6958&menuid=3033&funcid=1


高良ばっかりじゃねーかというツッコミはやっちゃいけないんでしょう(笑)。
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安村善太郎(安村書店)

平和通りには安村書店がありました。1958(昭和33)年の住所録から引用します。

安村書店(合資会社)
社長 安村善太郎
本店 牧志町1-791
支店 千代田区神田神保町1-46


この安村さんは出身や経歴がいまのところさっぱりわかりません。
東京に支店があるってのはどういうことなんでしょうか。

崎浜秀主

沖縄県人事録(昭和12)から崎浜秀主さんです。

崎浜秀主
那覇市立商業学校長
那覇市上蔵町2ノ34
君は那覇の人、明治9年を以て上之蔵に生る。明治33年沖縄県立中学校を卒業して早稲田大学に学び、明治37年同大学文学科を卒業するや、直ちに迎え入れられて日比谷中学校及び海城学校の講師となりしが、同年9月辞して帰郷し、翌10月より45年1月までを沖縄県師範学校教諭兼県立高等女学校教諭として敏腕をふるい、同45年より大正14年までを那覇商業銀行専務取締役となり、翌15年6月再び教育界に返り咲き那覇市立商業学校長に補せられて今日に至る。此間大正2年に那覇市会議員に推され、同5年より15年まで沖電社監査役取締役たり、大正10年県会議員に当選、翌11年県参事会員に推さる。高等官4等正6位、天資謹直にして温厚、高風親しむべき人格者なり。


非の打ち所がない大物ですねぇ(笑)。
辻の家主では大正2年に辻に貸家を4軒所有していることになっています。とはいっても貸家業は女性陣が行っていたのかもしれません。
戦後は教育方面ではなく銀行畑を歩んだようです。

1876(明治9)年〜1962(昭和37)年 教育者、銀行家。那覇生まれ。早稲田大学卒。県人初の沖縄県師範学校教諭。のち市立那覇商業学校校長。戦後は沖縄中央銀行頭取、農林漁業中央金庫理事長を歴任。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41473-storytopic-121.html

大嶺政寛

とりあえずweb上にあるプロフールをまとめてみます。

大嶺政寛
1910(明治43)年〜1987(昭和63)年、那覇市久米生まれ。二中、沖縄県師範学校本科二部(1年)卒。沖縄第二中学などにつとめる。昭和8年春陽会展初入選以後,半世紀にわたって沖縄独特の赤瓦屋根の風景をえがきつづけ,「赤瓦屋根の政寛」とよばれた。沖縄民芸協会会長。


県内で良く目にする風景画の作者です。
ここからが本題なのですが、オランダ屋敷 2で引用した「美麗島まで」の作者である与那原恵さんの著書「わたぶんぶん」に大嶺政寛さんの妹さんが出て来たので引用します。

「あれはね、兄貴の絵だよ。兄貴は絵描きさ。大嶺政寛というんだけどね」
「兄貴はあんたの大叔父さんの南風原朝光とも仲がよかったんだよ。兄貴やチョーコーの画家グループが戦前の那覇にあってさ、あんたのお母さんの里々ちゃんもそこにいてわたしも知ったんだよ」
おばちゃんは那覇の久米で生まれて第一高女を卒業。後輩たちは「ひめゆり部隊」として若い命を落とした。そののち代用教員をへて上京し、会社づとめをしたり、洋裁で身をたてたりしながら暮らした。戦後はおばちゃんのお姉さんが嫁いだ沖縄出身のひとが新宿で経営する沖縄料理の店を手伝っていて、四十なかばになってじぶんの店「壺屋」をもつことができたという。
わたぶんぶん p45、46 (抜粋)


戦前の画家グループと久米出身ということで無理やり取り上げてみました(笑)。「わたぶんぶん」は古波蔵保好の「料理沖縄物語」へのアンサーとなっています。またおばちゃんに関しては「サウス・トゥ・サウス」により詳しいエピソードがあります。

当間重民

沖縄県人事録(昭和12)から当間重民の項目を引用します。

酒造業 當間重民
那覇市垣花町2ノ4
由来本県実業界に学閥の士甚だ少く、これ本県実業界が目覚ましき発展をなし得ざる一因なりとまで称せられる。茲に於いてか當間君は学識才腕兼備の実業家として、斯界の要求せる恰好の人物たり。君は明治33年を以て那覇市若狭町に生る。大正7年沖縄県立第一中学校を卒業し、進んで早稲田大学高等師範部英語科に学び、同14年同校を卒業して一年志願で入営し陸軍歩兵科少尉に任官す、満期除隊後は酒造業に従事、傍ら消防組本部小頭このほか在郷軍人関係2、3の公職を有せり。酒造業に着手せしは昭和10年3月にて、創業日浅しといえども業績見るべきものあり特に県外輸出に対し最新の注意を払い、品質の向上と販路拡張に努力して一躍声価を高めて居り、家業逐年隆盛の一途を辿り居れり。資性温良にして恭謙、然も情誼に熱く思慮頗る周密、大成を期待される青年実業家なり。趣味読書、洋楽。


後年の那覇市長も昭和12年では新進の酒造業者です。
同じページに兄の当間重剛の項目もあり、兄弟揃って顔写真があるのですが印象がまるで違います。顔の作りは確かに一緒なのですが、兄の強面と違って弟の重民さんは穏やかな顔をしていて、豪腕でならした兄と市長在職中に苦労して亡くなられた弟の運命の差まで感じさせます(妄想)。

国場幸太郎(人民党)

建設会社国場組の国場幸太郎ではなく人民党の国場幸太郎です(とりあえず略歴などは後で)。
国場さんは戦後に沖縄に入り60年代には内地へ行ってしまうのですが、そのいきさつは不可解なところがいろいろあってこの時期の人民党はよくわからないことだらけです。
ともあれ参考になるページをご紹介。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/kokubakotaro.html

当時の人民党の姿勢への批判も後年口にされていたようです。
政治関連ははこのブログの対象外ですがとりあえずメモ代わりに。

高倉幸次郎

高倉コーポレーションの高倉幸次郎さんの略歴を「高倉幸次郎追想録」からまとめてみました。
本の中にも年譜はあるのですが、寄せられた文章の中(船越義彰さんのものなど)からより詳しいものになるようにしてみました。本の中の年譜とはすこし異なりますがこの辺の食い違いは原本をあたって判断して頂きたい。
文責は自分にあります。

•大正11(1922)年、首里系士族の高江洲清忠・ウシ(旧姓宜保)夫妻の次男として生まれる
※壷屋生・石垣生(年譜)の両説あり
•高江洲一家八重山に移住
•昭和4(1929)年登野城尋常小学校入学
•昭和5(1930)年那覇にひきあげる
•昭和10(1935)年久茂地尋常小学校卒業、父の親戚をたよって石垣尋常高等小高等科へ進学
•卒業後那覇へ戻り松永ペンキ店に勤める
•昭和18(1943)年徴兵され南方へ、佐世保で復員し沖縄へ戻り基地作業(大工)等従事、その後友人と下駄屋を始める
•昭和26(1951)年、貸家業・商業・不動産業開始、材木輸入事業、国際不動産株式会社
•昭和32(1957)年、T・K商事合資会社設立(後の高倉商事)
•昭和36(1961)年、アメリカン・ベンダース株式会社設立
•昭和37(1962)年、東洋音響株式会社設立(東京都新宿区)
•昭和42(1967)年、沖縄国際観光株式会社設立(大倉不動産)
•昭和47(1972)年三雅商事株式会社設立、三幸商事合資会社設立(東京在)
•平成2(1990)年2月逝去
※高倉コーポレーションはこれだけではなくすべて書いていません


学園は昭和37年、終戦後の荒廃した中で、沖縄の将来を憂い、沖縄県の経済的・政治的自立のために沖縄県の将来の担い手の育成が急務であることを痛感し、高邁な理想と見識を持つ同志の高良嘉永氏、高良郎栄氏、高良盛一氏、高良忠一氏、高良真一氏、高良文雄氏、高良徳栄氏、高倉幸次郎氏及び当時文教局諮問委員の山城篤男氏が浄財を提供して創立された。
http://senior.konan-h.ed.jp/detail.jsp?id=6958&menuid=3033&funcid=1


興南高校の設立メンバーでもあり、土地の提供も行ったようです。戦後は実家の土地(壷屋)を利用して事業を始め、土地を購入していって不動産業に発展してゆきました。
ジュークボックスとの関わりはわからないのですが、昭和32年に渡米した際にジュークボックスに触れ、それ以降関わっていったようです。

[ジュークボックスは]沖縄では米軍基地のクラブなどで利用されていた。昭和30年代になって米軍払い下げ品や、アメリカから輸入するなどで市中にも新しい時代の音楽が流れた。その先駆をつけたのが幸次郎であった。 p208

その後政治は諦め、そのころの那覇の中心部の神里原で、丸金百貨店、材木輸入事業等、沖縄の復興に努めた。
それから仲本為美を社長に、私[高倉]が専務となり「琉球バーゲン株式会社」を設立して本土の「隅田組」の下請け会社となり野菜、肉魚、日用雑貨等を納入する仕事をやった。 p243


その後高倉コーポレーションは息子さんに代が替わり、パームヒルズ(ゴルフ場)などを手がけています。パームヒルズはもともと高倉ではミカン畑として使われていました。
それと国際通りの高倉ショッピングモール(モルビー)も有名でした。

幸次郎さんは戦後沖縄の立志伝中の人ですね。

山里永吉

「沖縄を語る 金城芳子対談集」という本がありますがその中に山里永吉のことがすこしでてきます。
とりあえず山里永吉のプロフィール。

山里永吉
1902(明治35)年-1989(平成5)年 
大正-昭和時代の画家、作家。
那覇生まれ。田河水泡,村山知義と交遊、「マヴォ」同人となる。昭和2年郷里の沖縄にかえり,脚本や新聞小説をかく。戦後は琉球博物館長、琉球芸能連盟会長。日本美術学校中退。
脚本に「首里城明渡し」,著作に「沖縄人の沖縄」など。

http://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E9%87%8C%E6%B0%B8%E5%90%89
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-43233-storytopic-121.html


辻に貸家を作ってジュリからお家賃をせしめる。これは収入の最たるもの。辻町1丁目1番地の私[金城芳子]の家一帯は山里永吉の家の貸家でした。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p112


辻は左上の紫の一帯、一丁目は端道の側です。
山里永吉の家は上之蔵の丸山漆器店のようで、那覇のえーきんちゅの暮らしがうかがえます。

関連:グダグダ(β) 山里永吉関連

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