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護得久和子

1920(大正9)首里生まれ、父今帰仁朝英、母延子。母が神職として奉仕するため12歳の頃から中城御殿に住む。夫は護得久朝剛。

夫婦ともに向家です。
この人は義父・護得久朝章が1956年に設立した沖縄写真店(富士フィルム代理店)に入社します。沖縄写真店(那覇市牧志1丁目345番地)はのち富士写真商会。1970年に本社社屋落成(久米二丁目33番地の1)。1991年には西原に新社屋が落成し沖縄富士フイルム販売になります。
この会社はデジカメの逆風を越えられなかったようです。

富士写真フイルム(本社神奈川県)の特約店として49年営業してきた沖縄富士フイルム販売(本社西原町、護得久朝正社長)が写真、印刷、医療用商品などの営業業務すべてを富士の子会社3社に営業譲渡し、[2005年]11月30日で事業を閉鎖する。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-7660-storytopic-4.html


牧志にあった店舗は10区9組(昭和33年の広告写真から)ですので現在のOPAの並びあたりになります。
久米の旧社屋はここ。
久米2丁目33番1号 - Google マップ
久米の土地は新垣バスのものであったようで、当時持ち主の新垣さんは浮島通りで旅館を経営していたそうです。

以上すべて「ちからのかぎりに/護得久和子」(1995)からです。
この人は若い頃に尚家の内部で行われる祭祀の近くにはいたのですが加わってはおらず、風景としての描写にとどまります。沖縄のフィルム史、戦前の尚家の様子などに興味のある方向けでしょうか。
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真和志の業平

面白いとこがあったので抜粋。

1942(昭和12)年、初子は六年勤めた西新井小学校を辞めて帰郷した。結婚の話があったからである。相手は県立二中の先生だった。ところが初子が選んだ伴侶は宮里栄輝であった。後日、それを知った東京の初子の弟らはカンカンに怒った。それにはこういう経緯があったからだ。
宮里栄輝。当時私立開南中学校の教師。「真和志の業平」とうわさされるほどのプレイボーイで、悪名はそのころ那覇中で評判だった。二人は栄輝が以前に県立図書館に勤めていたころからの知合い。栄輝との縁談が持ち上がるや、初子の元に栄輝を中傷する悪宣伝や雑音がドッと入ってきた。友人や親戚もこぞって反対した。周辺があまりに反対するので、勝ち気な初子はそれに余計に反発、「私が栄輝を立ち直らせてみせる」と宣言、強引に結婚にこぎつけたのである。
「時代を彩った女たち」より抜粋


現代でもよくいるタイプの夫婦じゃないか(笑)。

宮里初子
1908(明治41)年東町生まれ(二階ヌ石川小)、父石川正徳、母モウシ。那覇市立高等女学校、第三高等女学校教員養成所卒、以降教師。1958(昭和33)年立法院議員。
1990(平成2)年死去。
「時代を彩った女たち」より抜粋


この夫婦についてはご子息の書かれた「<ウチナー>見果てぬ夢 -宮里栄輝とその時代」が詳しいです。

新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美

まず新嘉喜倫篤 (あらかき りんとく)。
1892(明治25)年〜1961(昭和36)年
西本町生まれ。早稲田大学を卒業後、那覇市西本町に新星堂書店を開店、その一方で沖縄体育協会の設立に参画し、スポーツ振興に尽力した。那覇市会議員も務めた。那覇市出身。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-40146-storytopic-121.html
そして夫人の新嘉喜貴美。
1895(明治28)年〜1995(平成7)年。
西本町生まれ、菓子屋(屋号スーヤーデーク)、父景述(税官長)母マカメ。1915(大正4)年結婚、旧姓久場。
「時代を彩った女たち」より抜粋


西本町の恵まれた出身同士が結婚したわけです。
新嘉喜貴美さんは幼少時は伊波普猷宅近くに住み、漢那憲和や伊波からプレゼントを貰い使用人を使うような環境で育っています。それはともかくとして興味深いとこを抜粋したいと思います。
関連:グダグダ 伊波普猷生家跡・クバチカサ
関連:グダグダ チコンキ・蓄音機

新嘉喜は家が広いのでよく選挙事務所に使われた。

1927(昭和2)年本好きの夫倫篤が、新星堂書房を始めた。美津濃の運動用品の特約、新星堂野球チームは、人気者の知名士が集まり、波上祭の相撲大会の主催、東恩納寛惇の『憧憬集』の初版も出した。本はただ読みも許し、那覇の知識人、スポーツマン、勤め人、近くの楽器店からスピーカーで流す民謡を聞きに、泊からも年寄りが集まり、茶菓子をサービスして皆の集会所だった。武士の商法で、月末払いは集金できず、月々の東京への本代の支払いは家計で補うほどだった。

1948(昭和23)年那覇市厚生委員会、児童福祉委員の仕事についた。
戦争で孤児になった子らが、市場が閉まった後、空き箱に寝泊まりしているのを聞き、貴美は暗くなってから、ひとりで市場へ出かけた。ボスの子を探したら、7、8歳の小さな子がボスの「ター坊」で、こんな小さな子がボスかと思っていると、箱からぞろぞろと子供たちが出て来たのには驚いた。
「時代を彩った女たち」より抜粋


その後孤児たちは牧志にあった市役所にあらわれたので風呂散髪をして食事を与えたそうです。

参考:グダグダ(β) 西本町の店舗名 (西本町の新星堂)

当間モウシ

東町の仲毛で材木店を営んでいた当間モウシです。

当間モウシ
1858(安政5)年〜1942(昭和17)年
那覇西新町生まれ、鹿児島出身の浜崎武兵衛と結婚し男女二児をもうけるが離別。浜崎から木材と牛についての知識を得て牛博労と材木店(当間材木店)を営む。
時代を彩った女たち p22(抜粋)


この人はなかなか痛快な人で、大正2年の東町の大火で自らの店舗も焼けている最中にも関わらず復興需要を見込んで即座に与那原の材木店へ人力車を走らせて買い占め、翌日火事のニュースを知った材木商を悔しがらせたそうです。
また暇な時にはダシカマボコやみそを作って売り、財産ができると辻に貸家を持つなど商魂の逞しさは並ではありません。

当間材木店は松田橋のそば、東4丁目8番地にありました。
当間材木店
当時の東町の川沿いは材木店がいくつかあったようで、松田橋をわたった対岸にも材木店がありました。那覇民俗地図をみると東町4丁目は線路から海側が市場、陸側には鹿児島材木店や材木店と書かれています。もう少し川をさかのぼると久茂地小学校近くには製材所があります。海運に便利だったんでしょうね。

南條みよし/南条みよし(安村ヨシ)

沖縄の地でバレエ・洋舞の研究所が開かれたのは戦前である。来沖した石井漠舞踊団公演に魅せられた南條ミヨシ(安村ヨシ)は、周囲の反対を押し切って名古屋の南條宏(本名・高江洲康宏)に内弟子としてバレエを三年間師事した。帰省後は1937年(昭和12)年から幼稚園や首里の自宅で指導にあたったが、戦争が近づいてくると「バレエ」という言葉を使うことも禁止され、逆に軍歌に振り付けをするようになったという。
1950(昭和25)年には大道の婦連会館の隣に、1958年には久茂地に研究所を開き、57年には首里とあわせて三つの研究所の合同の発表会を行うまでになった。
1962年の8月には「南條舞踊賞」が南條みよしに贈られ、那覇劇場で合同発表会を開き、南條ゆり子、南條喜久子、富原千智、長崎佐世、高良幸子ら、現在の沖縄のバレエ・洋舞界を牽引するダンサー・指導者たちが一堂に会した。
なは・女のあしあと(戦後編) p395〜397(抜粋引用編集)


現在のバレエ(とフラメンコ)の関係者は南條みよしさんのお弟子さんが多いということですね。
当初「南条」と表記していたのを「南條」に訂正したのですが両方の表記があるようです。どちらが正しいのかというのがわかりませんのでその旨ご了承下さい。

【追記】「私の戦後史 第8集」に「南条みよし」さんの自伝があり、そこからの情報を追記します。
ここからは冒頭の「なは・女のあしあと」につながります。

1915(大正4)年、泉崎生、父平安座朝輔(警察官)、母マカト、一男三女の長女。祖父母が甲辰小の門のとなりで文房具屋をしており、そこで生まれる。
警察官の父のもと毎年転校するような暮らしを送る。1933(昭和8)年二高女卒業、西本町の島田医院の薬局に勤め看護婦の勉強をしていたが、旭館で行われた石井漠公演に魅せられ勤務後一人で踊りの練習を始める。新聞記事で南条君子の写真を見て県出身ということを知り内弟子希望の手紙を送る。


余談として改姓のことなど。

しばらくして私の名前の「平安座というのは、読みづらく、朝鮮の名前に似ているから変えましょう」ということになり、“平山”に変わりました。
私の戦後史 第8集 p256

仲村 渠

詩人の「仲村 渠(なかむら かれ)」です。
1905〜1951(明治38〜昭和26)、詩人。本名・仲村渠致良。那覇生まれ。北原白秋主宰の『近代風景』に参加。詩作を行う。1932年ごろ詩人グループ、榕樹派を結成。戦後は『うるま新報』記者。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-42393-storytopic-121.html
仲村渠呉服店仲村渠呉服店
右は仲村渠呉服店です。

「沖縄人物シネマ」から引用します。
兄は軍人で、那覇でも屈指の呉服店の経営者であった。仲村渠さんは兄から資本を分けてもらったのか那覇市辻町の石門より入口角に余り売れない半襟屋を営み、美人の奥さんと暮らしていた。
半襟屋の店先は、友人たちのたまり場となっていた。友人とは元毎日新聞論説委員の古波蔵保好氏、琉球新報の社長(戦後)になった池宮城秀意、私[牧港篤三]を含めて雑誌「那覇」同人の詩人仲間だった。
沖縄人物シネマ/牧港篤三 p166(一部編集)


半襟(半衿 - Wikipedia)というのが手頃な商売であったからなのかどうかはわかりませんが詩人らしい(おしゃれな)商売だよなとは思います。
図で示した仲村渠呉服店は見世の前の超一等地、「辻町の石門より入口角」は図では辻(緑色)下角辺りでしょうか。
名乗りと姓から推測すると仲村渠致元の縁者でしょうね。

仲村渠呉服店の写真は下記サイト様よりお借りしております。m(_ _)m
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3000330.html

関連:グダグダ 大正の仮屋の前

癖のある夫婦 2

癖のある夫婦、池宮城積宝と新垣美登子の話の続きです。
下で引用した船越義彰さんの「狂った季節」は沖縄戦の経験と戦後暫くの経験をまとめたものです。引用は戦争が終わり米軍による規格住宅ができはじめた住宅難の頃の話です。

新垣美登子さんにもいろんなエピソードがありますが、夫である(あった)池宮城さんも大概な人だなと思わされます。この夫にしてこの妻あり、あるいはその逆なのでしょうか。少しついていけません...

私の規格住宅に古波鮫弘子さんが同居していたことがある。古波鮫さんは女流歌人として知られた方であり、久志以来のお付き合いであった。古波鮫さんが同居しておられたお陰で私は池宮城積宝氏を知ることができた。池宮城氏は沖縄の文学史に異彩を放つ存在で、私のような文学青年前期の者でもその名前は知っていた。その池宮城氏が我が家に来られるときの記憶はどうしたことか月夜の光景である。そして池宮城氏はきまって米軍の大きな携帯電灯をぶら下げておられた。昼をあざむくばかりの月光の中では電灯の必要はなかったはずだが今でも天才池宮城積宝氏の真意のほどが測りかねる。
池宮城氏と古波鮫女史の懐旧談は短歌が中心であった。いろんな歌人の作品が話題になったが、今は、かろうじて積宝氏の二首を覚えているだけである。

萠え出づる緑が岡にまろねして
果てなき海の果てしぞを思ふ

老いぬれば美登子の○○のかほりさへ
古酒のごと尊く思ゆ
狂った季節/船越義彰 p167、168

癖のある夫婦

「新しい女」の新垣美登子、放浪歌人の池宮城積宝、この癖のある二人が夫婦というのも(略)。

私の記憶に間違いがなければ旧那覇市の一角、上之蔵通りの真ん中程にあった新垣医院の二階とおぼしき部屋か、それとも植え込みの奥の座敷あたりからその声は響いてきた。もちろん、若い女声、それもかなり張りのあるソプラノで歌をうたっていた。何の歌だったのか忘れたが、歌声は移動するかのように急にきこえなくなった。歌声の主は大胆であたりかまわぬといったおてんばぶりを発揮していた。
後に歌声の主は新垣美登子さんだとわかった。

美登子さんの扮する女性に男性が言い寄る場面、つまり美登子さんが濡れ場を演じている場面で、客席で観劇していた[池宮城]積宝氏がたまりかねて、大声で「幕、幕、幕」と叫びだし、お陰で芝居はぶちこわしになった話は有名である。
沖縄人物シネマ/牧港篤三 p173、175(省略と編集)


新垣美登子さんは若い頃のエピソードなども自分で書いています。しかし読んでみても金持ちのわがまま娘がお転婆やってやがんなとしか自分には感じられません。年とってからもいろんな話があるようですが、そのエピソードもあまり変わりありません。
「新しい女」であるための必要条件は、なによりも生活の不安がない程度の資産だったというのは明白でしょう。

【追記】とはいうものの「那覇女の軌跡」を読むと、いいところのお嬢さんが戦前に髪結いとして自立し、戦後も職業婦人育成のために力を貸したことも書いておかないとフェアじゃないかと思い直しました。
興味のある方には「那覇女の軌跡」をお勧めしますが、小説類はともかくエッセイ類はあまりお勧めしません。

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