長田紀秀(饒平名)
善興堂医院
1899(明治12)年那覇市に生まれる。饒平名紀順(1870-1937)の長男。1919年大阪医科大卒、1920〜23年まで大阪赤十字社病院産婦人科に勤務、23年帰郷して沖縄県立病院婦人科部長(23〜25年)したのち1926年那覇市で医院を開業した。
戦後1946年にコザ中央病院院長、1951年から那覇市で善興堂医院を開設、診療にあたっている。
本籍 那覇市上之蔵町一丁目
現代沖縄人物三千人/沖縄タイムス社(1966)(省略と抜粋、一部追記)※善興堂医院と善興堂病院のどちらであったかについて(自分は)あやふやです。下の船越義彰さんの文では病院、「医師 仲地紀仁」でも病院になっています。
追記(2011.04.29)
饒平名紀順(1870-1937)長田紀通のひ孫。善興堂病院院主。
饒平名紀慎(1864-1908)長田紀通の孫。
「医師 仲地紀仁/仲泊良夫」p42千原繁子さんもそうですが、長田紀秀さんも51年に那覇で自由開業できるようになり戻られているのですね。
船越義彰さんの文章で戦前の善興堂病院について触れられている箇所があります。
善興寺坂--そこはいまのどのへんだろう。郵政管理事務所と、天妃校を結ぶ線のあたりに坂があった。天妃校からおりると左手に一味亭という大和料理屋、右手が善興堂病院、少しおりて右が龍界寺小路、千原繁子先生の病院と川田のクスリ屋があった。そして龍界寺小路をはさんで市公会堂、公会堂と向かい合ったところ、つまり善興寺坂からおりてきた左手に、戦後米民政府が土地事務所として使用していた、いまの郵政管理事務所の古い建物(戦前逓信といっていた建物)があった。
なはわらび行状記 p23、24PR