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上江洲由清(沖縄製帽)

沖縄県人事録(昭和12)から制帽業の上江洲由清さんです。

上江洲由清
制帽業(パナマ帽製造販売業)
那覇市松下町2ノ13
君は明治24年を以て那覇市松下町に生る。明治44年徴兵適齢に際して久留米聯隊へ入営し、大正2年満期除隊となるや、直ちに実業に志して株式会社共三組那覇出張所に勤務し、恪勤精励して重く用ひられしが、大正12年同店那覇出張所引揚げに際して服部長商店に転勤しこれ又十余年を勤積して多大の信用を博し、昭和8年1月遂に独立して製帽工場を自営し今日に至る。同業に従事すること実に三十有余年にして、含蓄ある経験による君の経営には他に見るを得ざる優れたものあり、家業逐年隆盛を極めて居り。


除隊後に勤めたのは「共三組那覇出張所」となっています。
この「共三組」と「近代沖縄の寄留商人/西里 喜行」で出てくる「三共帽子商会」が同一のものであるのかそうでないのかはよくわからなくなって来ました。共三組となっている「沖縄県人事録(昭和12)」は当時のもの、「沖縄県写真帖/親泊朝擢編」は1917年(大正6)年の発行です。この違いは事情がわかるまでそのままにしておきたいとおもいますのでご了承下さい。
とりあえず同一のものと見なして話を続けます。

浜崎藤次郎(1875〜?)
鹿児島生まれ。叔父の藤兵衛(煙草元売捌店)を頼り、1890(明治23)年来沖、住み込みで働く。1908(明治41)年久米村に浜崎製帽所を設立。その後運輸業と漁業も開始する。
1915(大正4)年には過当競争を避けるため同業者の平尾喜三郎と協力して三共帽子商会を組織する。
1918(大正7)年那覇区会議員当選。
また平尾喜三郎の項目には「1915年には製帽業を開始、那覇の美栄橋にアダン葉帽の三共組帽子商会を設立して相当の成績を上げ」ともあります。
グダグダ(β) 浜崎藤次郎


戦前の那覇市松下町2丁目は現松山周辺で、司令部や県立病院があり、松尾山を中心とした一帯です。
参考:グダグダ(β) 松下町(昭和4)
参考:グダグダ(β) 旧那覇の町名(西側)・親見世


「目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版」67ページにはサイオン橋通り会会長として名があり、「沖縄製帽」の項にも名前が見えます。

技術賞に輝く伝統の沖縄パナマ帽子
沖縄製帽
上江洲由清 那覇市安里468番地
目で見る琉球・琉球写真案内 1963年版 p249

※代表者名については間違いの可能性あり

息子さんである上江洲由正さんの自伝を参照すると、戦後もパナマ帽子製造業を営み、昭和29(1954)年に亡くなられたようです。
関連:グダグダ(β) 上江洲由正
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園田実信

園田実信
ローズ写真館 ローズ美粧院 経営主
那覇市3区11組
氏は明治32(1899)年那覇市垣花町に生る。大正12年長崎高等簿記学校を卒へ、長崎県に於いて税務官吏を勤めたが大正15年沖縄県庁農務課に職を奉じ、じ来10余年誠実職務に勉○し昭和4年農林主事補拝命、 同8年 沖縄県属に任官県勢の向上に努力貢献した。同12年之を辞し上京東京写真学校に写真技術を学んで同15年之を卒へると同時に帰県、上之蔵に於いてローズ写真館を開業し終戦に至る。戦後現在地に於いて再び復活、尚夫人は美粧院を営業、目下両々相まって頗る繁栄を極め今日を迎えている。
琉球人事興信録(1950) (抜粋と編集・直し)


神里原大通り(52年) 2では神里原にあることになっています。

沖縄写真史-年表
http://rca.open.ed.jp/city-2002/photo/4nenpyo/index.html

町田宗正

琉球人事興信録(1950)から町田宗正さんです。

町田宗正
大正食堂経営主
那覇市10区9組
氏は大正3(1914)年那覇市牧志町に於て生る、郷学を卒へるや、上阪昭和10年4月大阪市関西料理学校卒業、徹頭徹尾洋食の研究に没頭して、洋食の殿堂たる神戸市在東洋ホテルに招聘され洋食の粋を蒐めて外国人をして驚嘆せしめ、更に大阪市大洋軒グリルにコック長として敏腕を揮い錦を故郷に飾り、昭和13年那覇市西本町キング食堂に懇ぼうされてコック長を勤め沖縄の洋食王としてうたわれ、戦後1947年5月那覇製パン工場を経営1949年4月現在の大正食堂を設立、自ら其の店主として、多年の技りょうを発揮し同業界より嘱望されている。


牧志出身で関西方面で活躍し昭和13年帰郷、その後は市内で飲食業経営のようです。
戦後の区
参考:グダグダ(β) 戦後の那覇の区

10区9組は国際通りの現在のOPAのある角一帯です。

宮城譲治

1950年の人事録からパラダイス通りの宮城譲治さんです。

宮城譲治
ニュパラダイス経営主
那覇市10組[ママ]6組
氏は大正2(1913)年を以て首里市汀良町に生る。郷学を卒へるや青志おさへがたく進んで関西大学に学び之を卒へるや迎えられて日活映画脚本部に入り後大阪朝日新聞社記者となり其敏才は認められて将来を属目させられしも期する所とありて之を辞し新大阪ホテル、レストランアラスカ、兼大阪商業会議所食堂の支配人として采配をふるい阪神地区に名声を轟かす、昭和19年12月南洋に渡航シンガポール東亜交通公○南方ホテルれい明支配人として活躍終戦となり 1946年2月帰郷し米軍部隊の通訳として郷土復興に貢献し同年5月ニュパラダイスを開設、オキナワ唯一のダンスホールとして一般に知られえい業隆盛を極め今日に至る 氏は社交に長じ商才に秀で内外の信用大なり
琉球人事興信録(1950)

参考:グダグダ(β) パラダイス通り
参考:グダグダ(β) 戦後の那覇の区

ニューパラダイス経営者は下記アドレスの「オキナワ・ストリートウォーカー」では伊藝教永さんとなっています。
http://www.okinawajoho.net/pc/street/paradise/index.html
「那覇市旧跡・歴史的地名地図」では山形屋裏の位置(ストリートビュー)にニューパラダイスがあった事になっています。オキナワ・ストリートウォーカーも伊藝さん本人にインタビューしていますし確かなものだと思いますが、この食い違いがなぜなのかはわかりません。

長山冷凍/長山悦元

1958年の住所録から。

長山冷凍(合資会社)
仮事務所 那覇市6区18組
第一工場 久米島具志川村大田区実着
食用蛙移殖、冷凍蛙輸出、凍結蛙処理加工
輸出入通関業務、和洋小鳥卸並に販売
代表 長山悦元


6区はこのあたりです。
長山悦元の名で図書館を検索してみると「沖縄振興事業としての食用蛙/長山悦元/1957.2」という本がひっかかります。
また1926(大正15)年には沖縄でも食用蛙が扱われていたようです。

米国種の食用蛙の一匹五銭のお玉杓子を、裏の小溝に放しておいたら、三年目に東京へ十五円にうれトテも美味しかったと高貴の方からお墨付が下ったと飴ン棒の砂糖煮のような棚ぼた話しに誰も彼も稲時をやめての俄養蛙家-
滋賀県水産試験場から、その配布を受けているところが(略)沖縄、台湾等そのお玉杓子の数が、京の三十三間堂の仏の数よりも六倍も多く十八万八千五百三十六匹というドエラい頭かずだ
農家の副業に最も適する食用蛙の培養のしかた

大阪朝日新聞 1926.11.25(大正15)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00492580&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1


もっとも沖縄では戦前から市場で蛙も扱われていましたのでそんなに驚くことではないのかもしれません。

大正5、6年頃の話だが「堂小屋敷のタンメーも時折来ていたようである。タンメーはブチグヮー(細長い竹の棒)で草むらをたたきながら大溝に沿って歩いてゆく。蛙がびっくりしてとびはねると、それをぱっと捕え腰に下げたティールにいれていた。タンメーの仕草が面白く、子供たちはタンメーの後を追っかけてあそんでいた。タンメーは安謝川まで行くと溝の反対側に回りナグモー向け(注:那覇向け)に進み蛙を捕りながら帰っていった」という。
安謝誌 p29、30

蛙は皮をはいで、もも肉2本つながった形で市場で20個くらいで3-5銭で売っていた。
カルテの余白/千原繁子 p74

高相杰夫人

辻美人第演劇大会はひきつづき大人気にて、一昨夜は初日より観客者増え、殊に初日のうす暗き舞台が徳田商店の寄贈にかかる9個のガス燈にて白昼の如く光、舞子音楽隊はこれがために一段の見ばえありき。12時打出し。
当日の観客が殊に人目をひきしは支那婦人鄭氏の観臨にして、舞子等の手踊りをさも珍しそうに打眺めながら、気色満面、何やら連れの男とささやきなどして極めて愉快に見えたりき。
(大正2年5月6日)
【註】鄭氏とは大門前の占春魁主人・高相杰(こうさいしゅつ)氏夫人のことで、2、3日前革命騒ぎをおそれて福州から呼び寄せたばかりで、新聞はインタビュー記事を二日つづけて掲載していた。
沖縄の遊郭 p639


那覇の東町大門前の<占春会>(福建人で書家・詩人・茶商の高相杰[こうしょうけつ]経営)の手伝いをするが、
グダグダ(β) 呉賢貴


高相杰は「こうさいしゅつ」「こうしょうけつ」どっちでしょうか?

喜屋武元持

沖縄県人事録(昭和12)から喜屋武元持さんです。

喜屋武元持
那覇市通堂町1ノ2
米穀商
通堂実業界の大立物喜屋武元持君を紹介す。君は明治11年を以て首里市崎山町に生る。父の代より酒造業を営み居りしため、明治31年頃原料米仕入部を大阪市に設置し、自ら之が仕入に当つて米穀商としての経験を積み、同37年酒造業より米穀商に転じて今日に至る。目下米穀の傍ら、セメント肥料を商ひ、他に砂糖委託部、石炭部等を兼営し、本県実業界の王座を占めて家業何れも隆盛を極む。
【家庭】妻カマドさん(明11)、長男元省君(昭9)、次女静子さん(大13)


喜屋武元持さんは砂糖委託でもかなり儲っていたようです。

委託商ももっぱら旧那覇とくに西新町に集中した。たとえば委託商の数は前出『沖縄県糖業要覧』の記録によれば。1923(大正12)年期に36あげられているが、そのうち西新町12、旭町5、西本町2、通堂1、東町1、不明4となっている。またこれらのうち取扱額の大きいものをあげれば、[下一覧]などである。
---
屋宜宣忠商店/旭町/35406挺
喜屋武元持商店/西新町/28518挺
新里康昌商店/西新町/23401挺
大城加那商店/西新町/20783挺
照屋秀幸商店/西新町/20073挺
那覇市史通史編2 p335


新里康昌さんの名も見えますね。
引用文の後半には1924(昭和2)年の扱い額上位の名もありますが喜屋武元持商店は三位です。

喜屋武元持商店/西新町/69781挺
那覇市史通史編2 p335


関連:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 3
参考:グダグダ(β) 新里康毅

我喜屋良徳

沖縄県人事録(昭和12)から我喜屋良徳さんです。

我喜屋良徳
薬種商
那覇市松下町1ノ10
君は明治27年を以て国頭郡今帰仁村字勢理客に生る。郷学を卒へて直ちに実業に志し、那覇市楠見薬店に店員となりて精勤すること十ヶ年、多大の信用を博して重く用ひられるところありしが、大正8年8月独立経営の為に同店を退き、同時に現住所に於いて薬種商を営み今日に至る。今や市内屈指の薬舗として発展し、声望隆にたるものあり、更に一段の大成を期待さる。

我喜屋薬舗

場所は「戦前の久茂地村民俗地図」を参考にしました。県庁側から御成橋を渡り、マークヤードスージをまっすぐ行って久茂地大通りを左折した右手です。
「戦前の久茂地村民俗地図」では「我喜屋(くすり)」と書かれていますが、昭和初期の那覇市街図(国場組社史掲載)では「我喜屋薬舗」と書かれています。
我喜屋さんは後年琉薬(琉薬 - Wikipedia)の社長も務められたようです。

1955年7月2日 代表取締役社長 我喜屋良徳就任
沿革 | 琉薬

http://www.ryuyaku.co.jp/history/index.html


検索してみると1958(昭和33)年のオキナワグラフに人物紹介で掲載されているようです。手元の人事録には写真も載っているのですが青年といった風貌で、オキナワグラフでの63歳時の風貌との差がなんとも年月を感じさせます。
オキナワグラフは電子書籍化されていて試し読みができます。

オキナワグラフ 1958年4月創刊写真ニュース誌  1958年11月号
http://okinawa-ebook.wook.jp/detail.html?id=212086


関係ないのですがマークヤードスージには宮古宿跡(現琉銀?)があります。

マークヤードゥ /maakujaadu/宮古宿
宿の名。宮古の役人の宿泊所。1609年まで、先島関係の上納事務のすべてを行っていた。通堂町の那覇埠頭(現在の沖縄製粉付近)にあった。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51575

宮古宿跡

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