古波鮫唯成さんの手記に面白い箇所があったので引用しておきたいと思います。
私はジープで基地内を30分ほどぐるぐる回って運転したら、「OK!」とすぐその場で運転免許証を手に入れ、大山米軍キャンプから牧港の軍作業現場へ向かったことを覚えている。
那覇市内では自動車運転教習所(現在那覇市役所)も出来上がり、多くの人達が集まった。練習用の車はアメリカ製の大きなセダン(リンカーン、プリモス、フォード等)で、運転席に座ると両手両足がようやくハンドル、クラッチやブレーキにとどく状態だった。恐る恐る練習して本物の免許証を手にした時飛び上がるほど嬉しかった。
希望を胸に -戦後六十年目の手記-/古波鮫唯成 p18(抜粋と編集)古波鮫さんは1945年に一中を卒業され、60年代からは泉崎で英語塾を開いていました。また英語塾以前は米軍従業員の教育にも関わられています。復帰前に泉崎のイングリッシュセンターに通われた方も多かったのではないでしょうか。
薪の運送でとりあげた那覇市史では下泉のフナングヮで薪関連に関わっておられた方で古波鮫唯施さんという方がおられました。姓も名乗りも同じですし英語塾の場所も川沿いですので縁者の方なのかもしれません。
沖縄イングリッシュセンター学院
http://www.geocities.jp/okinawaec/T1.htm戦前の運転免許は運送・輸送関係者以外にはほぼ取得されておらず、そのほかには軍で車両関係に携わった人間が少しいただけのようです。
参考:
グダグダ(β) 新垣義堅 (戦前からの自動車関係者)
グダグダ(β) 自動車運転免許 (戦後の運転免許について)
※この項は「戦後の自動車運転教習所(作業中)」から独立させました。
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