高良嘉永さんがアイスキャンデー製造を手がけた話を自伝から引用します。
高良さんが昭和26(1951)年10月に熊本から帰郷すると牧志一帯にあった自分の土地は割当土地として人が住んでいて、新県道が通ってはいるものの静かだった牧志部落は繁華街になっています。
沖縄に帰ってきた当初、一番珍しかったのは、米国産のコカコーラやバヤリースジュースであった、本土ではやっとラムネが出回りはじめた頃である。
国際通り沿いにあった国際劇場は、当時那覇で唯一の興行場で、いつも映画や芝居で大賑わいだった。その道向いの私の土地(現在の高良産業ビルの敷地)に住んでいた国吉氏が安謝へ引っ越すことになり、私に家を譲ってくれたのだが、しばらくして別の人から、そこでアイスキャンデーを製造販売したいとの申し出があった。1952(昭和27)年のことである。
申し出のあった当山氏と奥間氏がそれぞれアイスキャンデー製造機を一台ずつ設置し、私が土地と家を提供することで話がまとまり、三者で共同経営することになった。
キャンデーは飛ぶように売れた。午前3時頃から晩の9時頃まで自家発電で機械を連続運転して、毎日3000本を製造した。目のまわるような忙しさであった。売り子が30名程いて、1本5円売りのキャンデーを3円で卸していた。売り子も多種多様で、自転車の後ろに荷物台をつくり、キャンデーをのせて走る青年、キャンデー箱を頭に載せて売り歩く小母さん、キャンデー箱を脇にかかえて市場内を売り歩く若い女の子らで店は大いに賑わった。
お陰でその年の夏場は30万B円の利益を得て、税務署に申告するほど儲ったが、翌年は、自家発電をやめて桜坂の準電気業者から受電して製造機を運転したところ、操業時間が短縮されてしまい、利益は皆無であった。そういう訳で、2年目であえなく操業中止となる。
高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり p105、106(抜粋と編集)このブログでは「沖縄主要地主要商工年鑑」の51、52年版を使って50年代初期の那覇市内の繁華街の様子をまとめています。カテゴリの
市場では公設市場などだけではなく繁華街を含めた商業地を扱っています。
またブログ上部の「MENU」をクリックする検索窓のあるウインドウが開いてブログ内検索ができるのですが、ここに「アイスケーキ」と入れると「沖縄主要地主要商工年鑑」のいくつかの図が該当します。おそらく50年代初期には那覇の繁華街にいくつかのアイスキャンデー・アイスケーキ販売製造元があり、さまざまな販売方法で売られていたんでしょう。
アイスキャンデー売りがアイスクリン売りの元祖みたいなもんだとすると下手したら親子三代で経験している人がいるかも(笑)。
参考:
アイスクリン 沖縄 - Google 検索PR