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沖縄園芸品宣伝審査会(昭和14)

「昭和沖縄園芸発展史」の資料4、昭和14年3月30日に東京中央卸売所で行われた審査会の会報から「宣伝審査会出陳目録」の真和志村の箇所を抜粋します。
ちなみに那覇は垣花、住吉、儀間、山下、首里は20組合、離島を含めて30組合が出していたようです。

松川/甘藍2
国場/甘藍2、菜豆4、ビート2、人参3
繁多川/蕃茄4、甘藍2、菜豆4
川田/蕃茄2、菜豆2、セルリー1
真地/蕃茄2、甘藍2、菜豆4、セルリー2
泊下/蕃茄4、甘藍2
与儀/甘藍2、人参2
大道/蕃茄2、菜豆2、ピーマン1
「昭和沖縄園芸発展史」宣伝審査会出陳目録(p326、327)/(表より数字を抜粋)


受賞者一覧表(p328、329)では蕃茄で真地・繁多川(2等賞)と大道・泊下(3等賞)、セロリーで川田と真地(2等賞)、人参で国場(3等賞)、菜豆で大道と川田(3等賞)、ビートで国場(3等賞)が真和志村から受賞しています。
一等賞(4組合)こそ逃していますが、2等賞(12組合)のうち4組合、3等賞(20組合)のうち6組合が受賞というのは良い成績なんではないでしょうか。
昭和に入ってから真和志村では蔬菜作りが進められたようで、その成果が出てきているのがうかがえます。

川田というのはわからないのですが、集落を基礎としない組合があった可能性もあるのかな?自分が知らない屋取?

参考:グダグダ(β) 泊下(ティマシチャ/トマシチャ) (真地近くの屋取)
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繁多川の豆腐(戦後)

「繁多川100周年記念誌 繁多川」(p290)から戦後に豆腐作りをしていた家。
現在も何軒か作っているようです。



昔はアルミの寸胴に豆腐入れてベルを鳴らしながら売りにくる人がいましたがいつ頃いなくなったんだろか...

58年度固定資産税額番付

市民の友(1958年2月)掲載の「58年度固定資産税額番付」から。但し「税務署ではこのほど58年度固定資産税(個人、法人)の税額の第25位までの番付表(旧那覇市のみの分)を発表した」とあります。

上岡作太郎(7区 貸宅地業)386839
具志頭得助(10区 銀行頭取)81205
長嶺将蒲(寒川区 貸宅地業)38183
糸嶺篤弼(10区 貸宅地業)36131
高良 一(4区 社長)32634
辰野元造(6区 商業)31941
高良郎栄(5区 貸宅地業)29267
高良嘉永(5区 会社員)28714
慶田喜代治(美栄橋 貸宅業)28518
佐久川嘉道(4区 貸宅地業)28284
市民の友 1958年2月1日 第85号


法人は、琉球海運、沖縄配電、沖縄映画配給株式会社、沖縄製粉株式会社、国映館、オリオン興行株式会社、国場組、琉球水産株式会社、第一相互銀行、沖縄セメント工業株式会社、琉球銀行、沖縄山形屋の順になっています。
個人の11位以下は畳みます。

尚順と花百合

昭和沖縄園芸発展史の「沖縄の移出園芸を推進した人々」から抜粋します。

昭和6年2月、小禄の園芸部ではじめてマスクメロンの経済的試作を行った。園芸知識の普及、理解を求める第一歩として、当時の県会議員の各位の来場を請うてマスクメロン栽培の現状ならびに試食会を開催した。その時の品種はスカーレットとアーリーフエボリットの2種で割合好評であった。それが新聞記事となり、尚順さんのお目にとまったとみえる。その次の朝、男爵は人力車で例の羽織袴で来場されてひどくお叱りを受けた。こんな園芸上の問題は真っ先に私に見せるべきではないか、議員などにそんなものを見せて何になる、一文の価値もないよといわれた。これには私は一言もなく、各種メロンを数個献上して以て自分の不明をおわびしたのである。
その後、男爵はただちに園内[桃原農園]に二棟のガラス室を建設しマスクメロンの営利的栽培に乗り出され、しかも生産品を園内見学者の試食に供し弱冠の代価をとっておられたようである。
男爵は桃原農園のほか国頭郡伊豆味に果樹園を開き、各種の柑橘類、枇杷、パイナップル、茶の栽培をはじめられた。沖縄における果樹園らしい果樹園は尚順さんによってはじめられたのである。
さらに花百合の生産輸出については特に力を入れ、当時沖縄より移輸出する花百合根の過半数は尚順さんの手によってなされていたのである。彼は偉大なる園芸研究家でありしかも園芸業の合理的経営者であった。沖縄の園芸業の発展、啓発に関する男爵尚順の功績はけだし不滅というべきであろう。
昭和沖縄園芸発展史 p377、378 (抜粋と編集)


昭和12年の月刊琉球に掲載された桃原農園食料品部の広告にはメロンがあります。
尚順とは関係ないかもしれませんが、戦前は天久、安謝、繁多川は百合根が有名であったようです(参考)。
オチもなく旧那覇・真和志との直接の関係はないんですがメモ代わりということで...

真和志村の園芸出荷組合(昭和9)

「昭和沖縄園芸発達史」の資料2、「園芸出荷組合事情」の「二、出荷団体」(p251、252)の表から抜粋します。「出荷組合設立成績(昭和9年2月末現在)」(p247)では部落生産出荷組合は昭和6年に18、昭和7年に77、昭和8年に120設立されているようです。

所在地(組合長)|組合名|地域|組合員数|設立年月日|出荷品目
国場(渡嘉敷光雄)|国場|部落|35人|5.5.-|茄子、蒜、甘藍、里芋、ビート
安里(宮城亀千代)|安里|部落|33人|5.6.-|同 上
大道761(富山嘉吉)|大道|部落|17人|7.9.18|同 上
銘苅776(謝花賢善)|名護松尾|部落|21人|8.1.23|同 上
古波蔵(徳元八一)|島尻郡農会農場|農場|1、[ママ]|6.11.1|同 上
識名(新垣清栄)|識名|部落|20人|8.8.1|甘藍、蕃茄、胡瓜、菜豆
繁多川(金城幸仁)|繁多川|部落|15人|8.8.1|同 上
安謝(宮城春烈)|安謝|部落|15人|8.7.31|同 上
銘苅(仲本為美)|多和田|部落|30人|8.1.17|同 上
上間(嘉数弘義)|上間|部落|15人|8.8.1|同 上
仲井真(佐久本兼信)|仲井真|部落|15人|8.8.1|同 上
松川(知念 松)|松川|部落|25人|8.8.1|同 上
真嘉比(比嘉憲与)|真嘉比|部落|20人|8.8.1|同 上
「昭和沖縄園芸発達史」 p251、252の出荷組合団体/昭和9(表より抜粋して編集)


銘苅は名護松尾原と多和田原で別の組合になってますね。
この組合設置の動きはけっこう大きかった印象を受けます。

反布同業組合と久米村婦人

反布同業組合と久米村婦人
久米村の婦女子は多く反布小売行商に従事せるが同業組合の発議せらるるや彼等は卒先之に賛同したりしに何者の誘惑に由りしか近頃同業組合の設立を以て或23商人の野心に出てたれば右組合の検査は彼等に不利を与ふものとなし昨今苦情を鳴らして反対の挙動に出んとする由なり目今信用地に墜ちつつある本県反布の現状を知らず只目先きの小利計りを貪る彼等の挙動実に嘆ずるに余ありと当業者の一人は語れり
明治33年11月13日 琉球新報 沖縄県史資料編16上 p137、138


久米婦女子の出稼ぎ(明治37年1月)や反布商の奸手段(明治43年3月)と関連していますが、明治33年から10年以上たっても「奸手段」と書かれてしまうくらい変わらなかったということになります。

昭和初期のトマト生産高・作付面積/輸出数量

「昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸」(p356)の「戦前における主要移出野菜の生産の推移」という評からトマトのみ数字を抜き出します。

年次|作付面積(ha)|生産量(kg)
元年(大正15)|12.6|25125
2年|15.7|23250
3年|29.7|49500
4年|29.7|24000
5年|26.7|34125
6年|42.2|92625
7年|57.6|117750
8年|103.0|169500
9年|108.2|177375
10年|87.8|144000
11年|88.7|145500
12年|75.2|123375
13年|86.2|141375
14年|77.0|126511
15年|83.0|160381
昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸 p356 (一部数字のみ抜粋)


この増加には農業試験場の後押しと組合の設置が影響しているようです。
同じ本の「戦前における主要移出野菜の生産と移出」からトマトのみ。

年次|生産数量(kg)|移出数量(kg)|移出率(%)
11年|251125|28440|11.3
12年|123375|39780|32.2
13年|141375|33750|24.0
15年|160381|123370|43.4
昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸 p357 (表から数字を抜粋)


生産量も上がって輸出割合も半分近くになっています。
昭和沖縄園芸発展史(p361)の「昭和12年移出野菜種別価額」では、総額396891円の内訳は、キャベツ(61%)、トマト(17%)、冬瓜(7%)、西瓜(4%)。数量だとキャベツが77%、トマトが10%で、移出野菜の殆どをこの2つで占めていたようです。
この当時のトマトはパラフィン紙に包まれ緩衝剤(水苔)と箱に詰められて内地へ運ばれていたようです(参照:沖縄県農業試験場百年史 p602)。

久米女の喧嘩(明治33)

那覇に於ては旧3月3日より78日頃迄は3月遊ひと唱へて業を休み各所の年少婦人は数十人一団体を作り「波上」又は三重城辺へ繰出し各々鼓を打ちて舞ひ遊び又は渡地の浜に船を泛べて遊ふを例とせるは世人の知る所なるか久米に於ては仝所の年少女子供は大門西門の2団体に別かれ双方とも鼓を打ち悪口を為すの悪習慣ありとの事なるか去6日即ち旧3月7日の晩の事なりとか西門方の女大将國吉マツル(当24)か数十名の娘連を引卒して池宮城の門前を通行したるに兼て仝所には大門方の女将軍池宮城カナ(当21年)始め湖城カメ(当16年)外二三十名の女兵勇共群をなし屯集してありしか今しも西門方の女軍隊の通行するを見て一同手を打って嘲笑したるにぞ女なからも一方の大将たる國吉マツルは大に怒り直に繊手を堅めて大門方の女兵の面部を打擲したるより双方とも摑合ひの色消し騒きを始め為めに國吉マツルは身体に負傷したりとかにて此旨警察へ訴へ出てたる由なるかは是非曲直は暫く措き双方とも斯くの振舞ひは女の身として○ても/\と呆れるの外はなし
明治33年4月9日 琉球新報 沖縄県史資料編16上 p94、95


3月遊び関係でのもめ事です。
旧那覇は狭いのに字が更に2つに別れて対立してるというのは暮らしにくくなかったんでしょうか...

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