「なは・女のあしあと」からカラシヤー(貸家)についてです。
那覇では数件の「カラシヤー(貸家)」を経営する貸家業者もいた。貸家を経営したのは主として那覇や首里の資産家で、その場所は主に西本町や若狭町であった。このほかにも農村出の資産家がガタ(西新町)に貸家を経営した例も少なくない。
(略)また、泊の船着き場を中心とした新屋敷(現在の泊北岸)などにはヤンバルの人たちが経営した貸家も多かった。
(略)
金融業者(いわゆる高利貸し)が不動産取引に転じていった例もある。那覇などの都市区では、担保流れの土地建物の処分を通して不動産業へ転身していった例が一般的に見られた。農村の「高利貸し」は、農村金融を「業」として営むほか、ほとんど例外無しに「模合」の座元となっていた。
農村の資産家は、貧農に貸し付けた元利の回収の方法として模合を活用した。借財返済に困窮した貧農は強制的に模合に加入させられ、模合の落札金をもって借金の元利返済にあてた。担保流れの土地はウェーキ(資産家)のもとに集積されて小作地となったり他に売却されたりした。ウェーキは農村金融を通して不動産取引に手を広げていった。
なは・女のあしあと p122、123(省略と編集)富が富を生むという資本主義のサイクルがまわりはじめていますね。略した部分に堂小屋敷について述べられていますが割愛しました。
まとめると那覇の中心部が那覇と首里の資産家、新しい埋立地の西新町が地方の資産家、新しい区域である泊新屋敷は山原出身者です。旧那覇では従来の資産家、そして周辺地域では勃興しはじめた新しい資産家たちの投機対象という感じでしょうか。わかさ民俗地図などには貸家という表示のある建物が見えますが、そこはここで述べられるような貸家だったのかもしれません。
那覇市史の「ブリ屋敷(群屋敷)」の項目も引用しておきます。
ブリ屋敷は都市部、特に那覇に多くあった。ブリは群れの方言で、高倉が群立しているのを「ブリグラ」と呼んでいるのと同義で一ヶ所に集まっている意味である。
そこで「ブリ屋敷」は大きな屋敷に数棟の建物があって、その建物は一部屋と台所付きのものも、現代風に表現すると「1DK」が数戸連なっているいわゆる棟割り長屋であった。こういう棟割り長屋が数棟ある屋敷を指しているが、また一戸建ての建物が数棟建っている大きな屋敷もあった。
群屋敷は屋敷および建物まで大地主の所有のものと、屋敷は大地主のもの、建物は住人のものということもあった。
那覇市史資料編第2巻中の7 p229、230
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