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1950年の長者番付

「なは・女のあしあと(戦後編)」から引用します。

1950年3月の長者番付をみると上位30位まで那覇、糸満を含む南部地域に集中し、密貿易ブームから貿易庁ブーム、自由貿易への流れの中で財を築いたことがうかがえる。
注目すべきは、上位20位の中に女性が6名も入っていることで、業種は、雑貨、劇場、飲食店、旅館・料亭の経営者等となっている。すべて那覇市の在住者で、中部や北部地域で女性が皆無であることをみれば、商都那覇に女性の活躍を促がす素地があることがわかる。
なは・女のあしあと(戦後編) p173、174(省略と編集)

1951年2月、待望の民間貿易が開始、貿易解禁とともに銀行にはLC(信用状)を開設する輸入業者が列をなし、貿易庁ブームにのって商売の基礎を築いた女性たちも加わって「LC時代の到来」と呼ばれた。(略)
過当競争にあった輸入業者は1953年頃にはかなり淘汰されていた。
なは・女のあしあと(戦後編) p172(編集)

1950年2月、那覇市へのオフリミッツ(米軍人、軍属の住宅地域への立ち入り禁止令)が解除され、米兵が民間地域で買い物をすることができるようになると、小売業やサービス業を営む女性たちはてぐすねひいて米兵が街へ繰り出す週末を待った。当時の那覇市は空軍基地をはじめ、多くの米軍基地を抱える基地の街であった。8月に旧市街地が開放されると、映画「八月十五夜の茶屋」のモデルとなったといわれる料亭ができ、数年のうちに辻町、波之上一帯は米兵相手の料亭やキャバレー、クラブ等が営業する歓楽街へと変貌していった。
なは・女のあしあと(戦後編) p173(編集)


まとめると、「1950年度の沖縄県長者番付の上位30位までが南部地域に集中、上位20位の中に女性経営者が6人はいっていてすべて那覇市在住者である」という感じでしょうか。
船越義彰さんの「狂った季節」の中でも玉城親慶原(だったかな?)にいた義彰さんが復興する那覇の様子を聞いて那覇へ移り住む描写があります。

今ではわかりにくいのですが現在の自衛隊那覇基地は米軍飛行場、小禄ジャスコ一帯も基地でした。小禄の基地時代を自分は覚えていないのですが開放地と呼ばれた返還後暫くの様子は覚えていますし、基地周辺に米軍相手のバーや売春街の残滓があったのも記憶しています(今もわずかにあるか)。
米兵相手の辻のステーキハウスももう無いですし、現代の若い人に伝えようと思うとと意外とめんどくさいですね...
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