1950年に人口5万人足らずであった那覇市は、54年9月に首里市と小禄村を合併して人口11万人になり、57年に真和志市と合併、人口18.7万人の都市になってさらに膨張を続けていた。その頃には那覇女とならぶ商いにたけた糸満女性たちも商売の本拠地を那覇へ移し、宮古や八重山、大島からも移住する人々が増えた。(略)
食料品や衣類、雑貨から建材まで女性たちは多様な商品を扱っていたが、看板に「卸・小売り販売」の文字が多くみられたのは零細な小売業者まで競ってLCを開設して商品を輸入したからであろう。市場が小さいせいもあるが、沖縄経済は機能未分化のまま推移し、輸出1に対する輸入の割合は7〜10という極端に輸入に頼った経済であった。
なは・女のあしあと(戦後編) p181、182(省略と抜粋)現在への変化の兆しですね。離島の人達の移住の開始です。
ただ同時期には収容所から戻れない人の発生、土地割当制度、極端な住宅不足が同時進行しています。離島から移住してくる人がいる一方収容所から戻れない人もいるというちぐはぐな状況で、さらには土地接収による集団移動もあります。
機能未分化という指摘には頷けます。昭和の時代くらいまでは那覇市内にも個人経営の商店がまだまだたくさんあり、大概は女性が日用品を広範囲で商っていました。また自分で作って(作らせて)自分で売るような女性衣料品店も機能未分化の名残といえるかもしれません。
平和通りの宮古出身者、離島出身者が経営する飲み屋、むかしよくあった「さしみ屋」を経営した糸満出身者などなど那覇をよく見るとあの時代の名残は少し前までいくらでもありました。
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