まず那覇の周辺部にあった宿小(ヤール小、ヤードゥ小)。
ヤードゥグヮー(宿小)というのはというのはもともと地方出身者が那覇の旭町や西新町などに「那覇宿」を経営して、郷里のものが那覇へ出て来た場合に宿泊させた施設である、島尻の宿小は旭町に多く、中頭や国頭の宿小は西新町や泊の新屋敷にあった。
林産物をヤンバル船で運んできた人達も、宿小で「出荷と売り時」の検討をした。宮古や八重山の宿小は渡地にあった。
昭和期になると、通堂付近には離島の慶良間・久米島・粟国・伊是名・伊平屋などの宿小が軒を連ねるようになった。
なは・女のあしあと「ヤードゥグヮー(宿小)」 p124、125(省略抜粋)「近代における地域漁業の形成と展開」から抜粋します。
そしてカマボコ製造は、鰹節製造を抜いて那覇の水産加工品の首位についた。ただ製造者は那覇の人ではなく、那覇に居住した糸満婦人が多く、その夫は南洋方面に追い込み網で出漁していた。
[カマボコ製造の]場所は、糸満宿小が集中する東町の糸満集落である。昭和初期に数戸であった那覇のカマボコ屋は、数年のうちに20戸位に増えた。昭和16年の沖縄県蒲鉾工業組合の組合は54人なので、その後も増加している。カマボコ製造は、一戸1〜2人で動力機を据えたものは少なく、糸満婦人の生業として営まれた。カマボコ製造の社会的な役割は、一方で消費市場を拡大し、他方で追い込み漁やマグロ漁業の魚価の下支え、過剰漁獲物の処理を通して漁業の発展を促したことである。
近代における地域漁業の形成と展開 p55(省略編集)
図は那覇民俗地図を参考にしました。すぐ北は市場ですからなにかと便利そうでもありますね。
「近代における地域漁業の形成と展開」では消費市場の未発達さゆえ規模が小さいことや、内地商人によって内地市場向け商品が開発され経済が活発になってゆく過程も書かれています。またダシカマボコが市販の調味料によって姿を消し、カマボコは本来の食用になってゆくということにも触れられていますが、これは大正期に沖縄そばにカマボコが入るようになったのにも影響しているでしょうね。
いろんなことが絡み合っています。
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