那覇市史にダシカマブク(出汁蒲鉾?)作りの様子があります。春先のトビウオの季節に行商から買い、家族や手伝いもいれて大掛かりに作ったようです。
次は蒸し上がった蒲鉾をござの上に芭蕉の葉を敷いて冷めるのをまつ。冷めたら蒲鉾の端に穴をあけてチサヰ(裂藺)を通して径10センチくらいの輪に結んでおく。
翌日は蒸した蒲鉾を干す作業だ。これは家によってはやり方は違うが前日のチサヰーをを通した蒲鉾を小さい笊に入れて下男がもって台所のカマドの上の天井に登る。まず大カマドの上のタムン棚といって燃料にする薪を積み重ねた棚にはしごをかけて登る。天井裏のくらいところに屋根の煙出しからのわずかな明かりが漏れてくる。ここ屋根裏のの桁を利用して数本の中くらいの竹竿を吊るしてある。これに蒲鉾を通して吊るしてゆく。
蒲鉾は屋根裏に吊しっぱなしでおいて使う分だけその都度おろしてくる。包丁もよいが鰹節削りや大工の使い古しの鉋にかけて薄く削って使う。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p333、334(省略編集)大正までの蒲鉾の主原料は糸満漁民が多獲するトビウオ、グルクンで、多くが糸満で製造され地元で消費されていた。
那覇では蒲鉾は各家庭の自家製で、2〜3月のトビウオ時期に行商の糸満婦人からトビウオを買って作り、日陰干しにして使う分だけ削ってダシをとった。このダシカマボコは高価なカツオ節やコンブの代用品だったが、市販の調味料が出回る昭和初期に姿を消した。その後、カマボコは本来の食用となりその製造も那覇で行われるようになった。
近代における地域漁業の形成と展開 p54、55(省略編集)糸満のものは普通のカマボコ、那覇ではダシカマボコで昭和には廃れたという感じでしょうか。ということはカマボコの本場は糸満で、それが糸満人によって那覇で普及したということになるのですね。
那覇市史からもうひとつ「だし」関連を抜出しておきます。
フカの肉は細長く切り塩づけにして天日に干したものをソージリーという。大きな魚は骨を取り、小魚は丸のまま煮て干し、おかずにしたり「だし」を取った。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p330PR