もやしは水を選ぶ。明治から大正にかけ若狭町に、2、3の業者があって、私の伯母もその一人であったが、大市場に出すと泉崎物には負けると、仲買人が語っていた。そして主に場末の小市場に持って行くようだった。
自分の井戸は、水も豊富で、浅くて使い水には何の不自由も欠点もないが、もやしを作る小屋は、50メートルぐらい離れた下茂門という家の井戸の側に造り、毎日20籠ずつ育て、卸していた(明治40年)。
現在の琉球石油本社の右角向かいの岩陰の井戸で、小屋から出して1日3回、夏は4回水をかける。その時間を、近所の主婦たちは見計らって洗濯をしていた。温かく、洗濯には最適だった。夏は3日で仕上がって、冬は5日ぐらいかかるようだった。上っ面は細長く、安売りされ、多人数の家庭向きだった、1籠が卸で40銭、豆は一晩漬けたもの4升入れる。高さ一尺ぐらいの籠に芭蕉の葉を敷いて入れ、やはり葉で蓋をする。
芭蕉葉は、松川あたりの女たちが、50枚くらい束ねて6銭くらいで売りにきた。
カルテの余白/千原繁子 p62、63

現在の那覇中学校近辺でのお話ですね。
左は73年のゼンリン地図で確認した琉球石油本社と千原小児科、右は昭和初期の若狭です。那覇中学校(戦前那覇商業)の敷地は変わっていませんので、琉球石油本社近くにあったもやしの小屋もそのあたりでしょう。
関連:
グダグダ 那覇商業跡千原繁子さんの小児科医院あたりは73年当時は松山ですが、昭和初期には若狭です。現在の若狭大通りは那覇中学校より海側ですが、戦前の通りは陸側を通っていて住所の境目(若狭・松山)もそこが境になります。
参考:
旧那覇の町名(西側)・親見世もしかしたら千原さんの医院は戦前からの敷地に作られたのかもしれません。
下茂門は屋号かなと思ったら姓であるようです。
——当時、沖縄出身の医者の割合いはどれくらいでした。
古賀[花子] そうですね……医員はぜんぶそうだったですよ。部長では婦人科の饒平名(長田)紀秀さん、眼科部長の下茂門英信さんなんかがいました。
尖閣諸島開拓時代の人々 (2)シモジョウ 下茂門 沖縄県。下条の琉球形。
シモジョウ 下門 沖縄県、兵庫県、大阪府。沖縄県うるま市での屋号からの明治新姓。ほか。
人名力 : 日本姓氏語源辞典 おおよそシモ~シモソ聞き慣れない姓だからといって安易に判断してはいけませんね...
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