才の神にある祖母の家の裏の砂糖樽大工(タルガーゼーク)の娘モウサーに、叔母が風呂敷包みを渡して、何事かを語っていた。私がモウサーについて行った所は、久茂地川のほとり、照屋質屋である。モウサーは私に、屋門でまっておれと言ったが、同級生のムタルーの家であるから、しばらくしてから行ってみた。1円20銭の金が渡されるところであったが、眼鏡のおじさんが、「これはお前の家のものではないだろう。ユカッチュジンだもの」と言うとモウサーは、「ほんとうは、この子の家の着物です」と白状した。カキジャーの絣だった。
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すぐにうけ出せない人は毎月利子を納めるが二割だったという。利子も納めず、期日迄にうけ出せない者の質草は流されて、市場の古着商の女たちが買い取る。これにもお得意があって、三人くらい組を作って質屋へ行き、取り混ぜて三つの山を作りくじ引きで仲良く分け合うことになっていた。
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昭和の初め頃、市役所の裏に、市営質屋ができて繁盛した。主任は琉球新報社の渡口政憑[※ママ]さんの母堂で、以前質屋をやっていて、目利きだというので任命されたのであろう。その頃から旧家の質屋業が一つ一つ消えて行くのがはっきりした。経済情勢の変化か、或は、後継者が学校出で、他の職業につくようになったせいかもしれない。
カルテの余白 p53〜57(省略と抜粋)文中の渡口政憑は渡久地政憑だと思われます。
古着市ですが、新品が一番良いけども買えないので古着を買うといった感覚だけではなく、すでに仕立てがされていて値段が手頃であるところから身近な存在だったようです。このあたりは既製品で大量生産の布地を当たり前のように着ている現代人にはわかりにくいですね。
質屋は那覇女の商売として営まれました。
高額な物品を換金できるわけではないですし、主に庶民階級の着物を質草として扱っていました。庶民の小額金融として質屋は機能していたのでしょう。
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