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安謝のその後

密貿易時代の安謝の続きです。
安謝誌に掲載されている沖縄タイムス記事から。

安謝港は市の北部海岸にあり、近世和歌文学の白眉とされた才人、平敷屋朝敏及びその一派が奇禍により処刑されたところとして名高いが戦後は那覇、泊の使用が自由にならなかったころ、沖縄本島中心地と全琉の離島を結ぶ列島内の門戸として重要な役割を果たして来た。その人口も50年1200余名が52年には2100余名に増えた。しかし全琉各地からの無籍者が多数ここに留まって生計を営んでいたから実際人口は常に1万人近く保っていたようだ。
52年末、奄美大島の日本復帰が実現して、多くの奄美人が郷里へ引き揚げて行き、さらに泊港の築港がすすみ、離島航路の小型木造船も泊港に入出するようになったため、その後の安謝は日に日に寂れるばかり。港がはなやかに栄えていた当時は料亭、旅館の数も多く旅行者相手の商店も軒を並べ、沖縄でも最も大きな劇場に数えられた安謝劇場なども建ち、いん賑を誇っていた。
いまでは街も昔の活況がみられず、商業地域というよりはむしろ住宅地域に変貌してしまった。街の人達は昔の夢がもう一度かえってくることを望んでいるようだが、その淡い望みは港の浚渫、桟橋の改修等を要請しつづけているが今後とも泊港のサブ・ポートの役割を果たす程度で大した発展も期待は出来ないと見る向きもある。
沖縄タイムス 1956年7月24日[引用元は安謝誌 p366](一部省略)


那覇の中心部には劇場があったようにここ安謝にも劇場がありました。
新聞記事は57年ですが、すでに民間貿易も始まってしばらく経ち、神里原も寂れ始めて国際通りへシフトしている時期です。
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