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安謝港の復興

戦後すぐの安謝港です。

松岡政保氏を会長に安謝港復興期成会が結成され那覇市や琉球政府に新港建設促進の陳情を繰り返す。当時、極端に物資の乏しい時期であったが大島航路が開設され、沖縄から貿易庁売り出しの洋服類、布団カバー、毛布、反物等アメリカ製品が、大島からは米や木材が主で、牛、ビール等が輸出入され、交易が盛んに行われた。安謝港が商業基地として俄然脚光を浴びる。

安里賢勇を長として仲仕組合が結成され、安謝の若者が総出で働くようになる。組合員の賃金も高く五日毎の勘定で2000円(B円)から3000円を得ていた。当時の役場職員の平均給与が4000円前後で如何に安謝区に潤いを与えたかはかりしれない。港は盛況を極め、酒場や料亭、旅館が繁盛し大島・沖縄間の旅客の往来も繁く、旅行会社も看板やサンドイッチマン等を立て宣伝に力を入れた。船の出入麹には、人、人で港をうめるほど賑わったものである。
安謝誌 p228(一部省略)

岡野区は、 1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。

住吉区は、旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、垣花全体が軍に接収され、土地を失ったので、安謝の海岸一帯に部落を作り、移住し、旧名称のまま住吉区と唱えることにしている。
真和志市誌 p275
グダグダ 岡野区/住吉区(安謝)


1946年に松岡政保により復興計画がたてられ、大規模に工作隊の移住が行われています。ここで考えておきたいのは那覇中心部は未解放、那覇の港である那覇・泊の両港が民間使用できなかったという事情です。
川沿いの寿屋の元工場敷地は大規模な平地であり港のそばでもあることから物資集積所に最適だったのでしょう。安謝誌の記述には「貿易庁」の名前が出てきてるので大体の時期、そして貿易品目もわかります。

「空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代」では大きな船から伝馬船によって物資を陸揚げする様子も書かれています。大きな船がつけられるほどの港ではなくまだ伝馬船に頼ることが多かったわけです。
上で引用した安謝誌の記述の横には、安謝港仲仕組合の前での記念撮影と伝馬船に乗った人たちの二つの写真が掲載されていて、ブロック造りのしっかりした「安謝港仲仕組合」の前に30人以上の男達が写っています。

安謝のその後で引用した記事では1万人以上がこの周辺に居住し、密貿易を含めたさまざまな物資関係の仕事に就いていたわけです。つかの間の繁栄でしたが復興に大きく寄与したことは間違いありません。
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