1963年の市民の友の座談会から抜粋します。
もたついた合併問題
面積は全国でビリだった
[徳田]小学校の鉄筋-那覇尋常や泊はいつごろ出来ましたか。
[島袋]最初に出来たのは泊でした。
[徳田]当時、洋風建築をつくれと熱心な市長がいたとか-
[古堅]昭和2、3年で、あれは小嶺[幸慶/S3~S6]市長ですか。
[島袋]小嶺市長は熱心な方でした。プールもあの人が作った。スポーツに理解のある人でした。
[徳田]那覇の近代化-水道が出来たとか、道路が改修されたとかどのように変化があったか、また区画整理は大変だったでしょうね。大門前通りとか、ヤージョー(屋門)があって…。今の久場川町問題みたいに…。
[真栄田]昭和16年頃、合併問題で調査したことがありますよ。都市は道路の占める率が30%から40%でなければならない。それが那覇の場合、たったの8%ですよ。当時の面積は5平方キロありました。面白いことには昭和15年、市は全国で204あったが、面積では首里が203番目で那覇は204番目でした。いかに市として小さかったかがわかる。人口では那覇が75位で密度は2位でした。それで当間(重剛)市長時代[S14~S17]に合併が叫ばれたのです。
[古堅]沖縄市ですね。
[儀武]首里は偉い人が反対した。
[長嶺]小禄も絶対反対(笑)。
[真栄田]15年(※昭和)ですよ。丸山芳樹さんが合併問題で来たのは。
[古堅]真和志は賛成でしたか。
[翁長]反対でした。合併できなかったのは、小禄、真和志、それにスイウエーグニという風にセクショナリズムが濃厚だったからですね。地域根性が強く、“ナーフワンチュニ、クソビラリーネーデージ”(笑)
-那覇人の下敷きにされては大変-そういう気持ちがあったんですね。それが戦後はのびのびした。
[儀武]首里は最後まで反対だった。
[長嶺]戦後合併を進めたのは私ですよ。
[儀武]首里は心配しましたよ。
[翁長]取り残されると大変だから(笑)
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)丸山芳樹は都市計画の専門家、久場川町問題は団地建設をめぐるあれこれだと思われます。
那覇は小禄・真和志・首里と合併しても小さな市であることは今も変わりがありません。
歴代市長は下記アドレス参照。
http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htmまぁ、戦前の首里は首里ウェークニですし(笑)、小禄や真和志は農村地帯で文化が全く違います。
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