首里山川町と与那覇堂村にあったらしい山川カラヤーの話です。
参考:
松川の原名
[山川カラヤーは]いわゆる「首里カラヤー」として鳥小堀カラヤーと共にその一翼を担ってきた。俗に観音堂カラヤーとも言っている。
瓦は明治40年頃までは焼いた。石灰も崇元寺の前の船着き場から珊瑚礁の石灰岩を運んできて白フェーに焼いて藁を切り込んで漆喰にした。
(略)
瓦を焼かなくなったのでよそから買うことになったがそれでもムチヌヤー(ムチ=漆喰塗る者)の左官は17名はいた。現在も10名程もいて結構仕事はあるが、瓦屋根が地方にも建つようになったせいかここから分散していってしまった。(後略)
那覇市史資料編第二巻中の7、p342やはり瓦焼きと漆喰はワンセットのようです。安里川の水運も今となってはなかなか想像しにくいのですが往時は伝馬船が薪や珊瑚を運んでいたのでしょうか。
文中の
「現在も10名程もいて結構仕事はあるが」というのはこの巻が発行された昭和54年より前の話になります。
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