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新庁舎落成座談会 2

新庁舎落成座談会の続き。

大城/那覇市民はどうしたものか。昔からナーハイバイのようですね。
長嶺/たしかに団結心はまだまだといえる。
当間/みんないっぱしのサムライと思っているのだろう。偉い人が何かいうと、すぐ「クサムニーシ」とくる。
本社/戦前は「那覇気質」が強かったようですが、長嶺さん、那覇の外部にいての感じはどうでしたか。
長嶺/ぼくなんか、ナーハンチュはこわかったよ。よくソーミナー(メジロ)取りが小禄に来て、屋敷内を荒らしまわっていたが、みんな「ナーハンチュ」とおそれいったものだ。
当間/サムライとしては、下の方だったので、いなかにいってあばれていたんだな。
山里/那覇市内でも「トマインチュ」「クニンラー」などと派閥があったくらいだからな。中でも泉崎だけは、本島につながっているため「はしうち」だといって大いばりしていたな。ほかは浮き島のため、外地人だなんていってね。
当間/しかしまあ、よくもあんなちっぽけな市でわいわいしたもんだ。10・10空襲で焼け野が原になった那覇市を見たらほんの一つかみしかないのでびっくりした。

本社/戦前の偉人、奇人伝をひとつ...。
大城/当時の三代偉人としては漢那[憲和]少将、岸本[賀昌]参事官、伊波[普猷]文学士の三人がよくいわれましたね。岸本参事官の子どもには「参事官の太郎」と呼び、二代目までもてはやされていた。
当間/参事官といったって、内容は琉球政府の参事官みたいなものさ。
長嶺/要するに、部長候補生といったものだな。たしかに頭脳はあったんでしょうな。
当間/山田真山さんも都計の仕事かなんかで役所にいたことがあるが、「500円の月給ではオレの三日間の生活費しかない」とタンカを切ったりして上司をおどろかせたものだ。とにかく名物男だった。
山里/山田さんの金の使いっぷりは、たしかに見事だった。
琉球新報 1965年9月17日[那覇市議会史p386から抜粋] (抜粋と編集)


参考:岸本賀昌 - Wikipedia
参考:漢那憲和 - Wikipedia

当間重剛さんも士族だったと思うのですがばっさり切ってますね(笑)。
湧田は「はしうち(橋内)」の気取りが鼻につくので那覇人はサバカチと言っています。

東ボンボロー、西ハーガー、久米村(クニンダ)ビタタイ、湧田サバカチ、久茂地ヌヰー、若狭町サラグヮー、壺川ホーホー、泊マースー、垣花ヒヨー。
---
湧田には、富裕な旧家が屋根門、石垣を構えたのが多く「橋内」と誇っていたのに、それには目もくれず、湧田の先(地蔵堂の上方)に居たという、しがないサバ(草履)づくりで代表させたのが皮肉だ。
グダグダ(β) 那覇人気質 2
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