屋根獅子の歴史紹介のサイトから。
まづ、その発生に因んで、明治以降瓦葺の家屋が増加するにつれ、壺屋の荒焼窯の職人達の中から瓦工へ転業するものがあった(小橋川永仁氏)ということに注目します。というのは、この職人達が瓦葺のムチゼーク(漆喰左官)を兼ねて、各地で漆喰製塑像をつくりはじめたと考えられるからです。
屋根獅子の様式、形式、素材 (抜粋)
http://www.zyyms.net/yanejisi3.htm
この4種類の窯は、それぞれ規模や形式の違うもので、上焼屋の窯は登窯様式の袋窯で、荒焼屋のそれは登窯様式のトンネル窯、窯小焼は荒焼窯の規模を小さくしたもの、また、アカムヌーの窯は今日の石灰を焼く窯の結構に似たものであったといわれています。
上焼窯はいうまでもなく釉薬のかかったものを焼き、今日でもその伝統は連綿として続いています。また荒焼窯は、今では一基だけしか残っていませんが、明治36年、7年頃にはその窯数およそ40にも及び隆盛をきわめていたとのことです。
この窯で焼かれたものは、方言で「カーミ」と呼ばれている穀物や酒、味噌などの貯蔵に用いられた素焼の壺類、水ガメ類等が主でありました。
ここで注目すべき点は、この窯こそ屋根獅子やお獄用の魔除獅子等が、注文によって、焼かれた窯であったということと、いまひとつは、時には屋根瓦を焼くこともあったという事実であります。
屋根獅子のつくり手 (抜粋)
http://www.zyyms.net/yanejisi4.htm荒焼で作られていた屋根獅子が上焼で作られるようになる経過と、瓦の需要増での荒焼職人の瓦工への転身などですね。
壷屋の隣りにある牧志周辺には瓦窯や石灰窯があったようですが、これらは明治以降のことなのかもしれません。
参考:
グダグダ(β) 島小(前島)沖縄では古くから瓦をつくり、瓦屋根を葺き、それを漆喰で固めていく職人及び大方これ等の人々で構成されていた部落を、総括的に、又は個別に「からやー」と呼んでいます。
戦前は、その中で「那覇からやー」と「首里からやー」がよく知られていました。那覇からやーは、今の那覇高等学校グラウンド西側にあった部落をさしているが、ほかに牧志部落にもあったようです。
首里からやーというのは、元来観音堂北側の大通り下の部落のことで、行政区画上は山川町になっている。首里にも、もう一つ鳥堀にからやーがあったらしく、どちらも首里からやーと呼ばれ、まぎらわしいのでこれと区別するため、翁長氏は自ら「観音堂からやー」と呼びならしているようです。
観音堂からやーは近年(戦後も含めて)まで部落のほとんどがこれらの職人で占められていたが、今では本職の職人は2、3名しか残っていません。この部落には、部落東端に瓦焼窯も残っていたといいます。年数にして今から55年位前だということで、大正の初期にあたります。
この事実からみて、この時期を前後する頃から「からやー」というこれまでの総合的な性格から、はっきりと職業的に瓦づくりと左官の分業がはじまったのではないかと考えられます。
したがって、漆喰製屋根獅子づくりのにない手は、それ以前は「からやー」と呼ばれた職人達で、それ以後は「ムチゼーク」と呼ばれている瓦葺屋根左官達であるといえます。勿論この二者は本質的には同一の職人なのです。
屋根獅子のつくり手 (抜粋)
http://www.zyyms.net/yanejisi4.htm関連:
グダグダ(β) 山川カラヤー観音堂の交差点から細い道を下りてどこかの横道にはいると、瓦を積んであった記憶がありますが現在はどうなってるんでしょうか。
那覇高校グラウンド西側の「那覇カラヤー」は手持ちの地図などには表示がありません。【追記】見落していましたが県庁裏のあたりがカラヤーです(那覇民俗地図)。
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