琉球新報の1965(昭和40)年9月17日に当間重剛を交えた座談会が掲載されていたので抜粋してみたいと思います。
本社[琉球新報]/当時の市長選挙はどんなものでしたか。
当間重剛/区会議員が指名して、内務大臣を通して天皇までいった。任命権は一応、天皇だった。
大城朝亮/戦前の市長はいまの市長より格は上だったわけですね。
本社/今の主席と同じですね。
当間/当時は選挙権も多額納税者のごく一部にしかなかった。だから「税金を上げてくれ」という人も多かった。「対外的信用」ってわけさ。せいぜい十何票も取れば、議員に当選できた。
長嶺秋夫/いまもそうあってほしいですね。その方が銀行からの借り入れもしやすくなる。
本社/ところで、こんどの完成した新庁舎ですが、本土の類似市に持っていくとどうですか。
長嶺/人口が30万以下の都市としては、いい方だ。同クラスの市では、那覇市におよぶものはちょっとない。もっとも45万人を目標に、あすの大那覇市にそなえて建設してあるわけだから...。
当間/じゅうぶんスペースもとられており、いい庁舎だ。しょっちゅう作りかえるわけにもいかんし、そのくらいはあったほうがいい。
本社/当間さん、そのころの市政について一つ...。
当間/ノンキなものだった。戸籍課の職員等、タバコぼんを前にキセルをポンポンたたきながら、市民と対応していたよ。市民の方がペコペコ頭を下げてね。
山里永吉/あのころは、公僕なんていう精神がまるっきりなかったからね。なにしろナハンチュ(那覇人)の最高の出世は、役所吏員になることだった。
当間/ぼくが、役所にはいったころは出勤簿等もめちゃくちゃだった。欠勤しても「欠勤」とはしなかった。「所労(しょろう)」疲れておりますということで堂々たるものだった。
山里/新聞記者もノンキなもので、ゲタバキ、ユカタ姿でゆうゆうと市長室をカッポしていた。
琉球新報 1965年9月17日[那覇市議会史p386から抜粋]出席者は以下。
当間重剛/ラジオ沖縄社長/元那覇市長/元主席 1895(明治28)年生
長嶺秋夫/立法院議長 1908(明治41)年生?
山里永吉/琉球文化連盟副会長 1902(明治35)生
大城朝亮/那覇市教育委員PR