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コーガン山


那覇民俗地図にある川畑工場は寄留商人の川畑黙志による鉄工・鋳物工場です。地図にはこの工場と同じあたりに「コーガン山」、そのそばに「ハーリー屋敷」という表示があります。
コーガン山のほうがわからなかったのですがそれらしい記述を見つけました。

広厳寺(こうごんじ)は、かつて沖縄県那覇市若狭町1丁目に位置した臨済宗寺院です。山号は万年山。開山は芥隠承琥(?〜1495)で、景泰年間(1450〜57)に建立されました。建立当初は沖縄県那覇市久茂地町1丁目の久茂地川左岸に位置していましたが、万暦37年(1609)薩摩の琉球侵攻によって焼失。若狭町1丁目の護国寺の東南、天尊廟に隣接して再建されました。琉球処分後に廃寺となりました。

広厳寺が位置した地点は、東恩納寛淳(1882〜1963)はその著『南島風土記』において、「泉崎橋から県庁通りに曲がる河岸、現在川畑鉄工所附近を「コーガン」屋敷と称へ、その辺一帯を「コーガン」と字称してゐるが、或は広厳寺の最初の所在で、再興の時に波ノ上に移転したのではないかとも考へられる」と指摘している(東恩納1950)。


「コーガン」は共通しているのですが「山」はついてませんね...
図中の「コーガン山」()は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」では「コーガン山跡/甲辰尋常小学校跡」となっています。
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荒神堂


コージン
神の名。航海安全の神とされ、コージンロー kooziNroo [荒神堂]にまつられていた。近代には渡地の村の守護神、また遊女たちの守護神としても拝まれた。サンポーコージン saNpookooziN[三宝荒神]ともいう。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50670

通堂通堂

写真はギリギリ写っているのかなと思いますがどれかはわかりません。

才の神(セーヌカン)

さて那覇の西町と東町の地は埋立で人口が増えてきた。その土地に首里の巨刹とちがって小さい祠堂がある。恵美須堂・薬師堂・荒神堂、さらに久茂地に才の神(セーヌカン)・湧田の地蔵堂などがあった。この中で湧田の地蔵堂は三叉路の中央にあって赤瓦屋根の中央に擬宝珠をのせた八畳間くらいの平屋だった。正面と左右をあけた石壁で囲まれた中央に石の円柱が立って上部は大きく六角形に切りとって屋根裏を支えている。大正の頃までは数コの石欄と石階も三段はあった。(略)
荒神堂も移築したから元の姿はわからない。同時にこれらの祭祀の模様も不明のままである。渡地の遊郭からも拝んだというが、二十日正月のジュリ馬の頃で沖縄の方法でビンシーで拝んだという。従ってこれらの夷神や三宝荒神などの信仰が根付いたかどうかもわからない状態である。才の神に至っては塞の神ときいたが、石だか石敢當だかよくわからないという。以上の信仰の定着は不明だが、名称が地名や屋号みたいに残っている。例えば「堂順の仲村渠」「堂ヌ前ヌ岸本」「地蔵仲地」「荒神ヌ前」などといっている。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p67


才の神(セーヌカン)と荒神堂はここです。
才の神・荒神堂
恵美須堂(夷堂)は大正の仮屋の前を参照して下さい。
「カルテの余白」に才の神近辺の様子が書かれてあるので引用します。

明治39年、才の神のランプ屋といえば有名で、若狭町から夕方ホヤ一つ買うにしてもそこまで走らなければならない。那覇で唯一のランプ屋で、片手間にちょっとした学芸品も売っていた。そこの長女うめのは松山小学校の同級生で(略)
裏にいるというトウチャンの返事にまわって行ったら、オッカンが高い岩の裾の、子供が一人立って入れそうな穴に向かって線香を立てて口の中でブツぶつ言いながら拝んでいた。穴の中には石ころがあった。「オッカン、それは何?」と質問をしたら「セーヌカンのウカミだよ、拝め」と言った。余談となるがこの店のトウチャンは沖縄に素手で渡り、飴の湯をかついで売り出したのを振り出しに、ランプ屋を始めてから成功し、後日、昭和の初めには大門通りに手広く雑貨商をやるようになったが、あれから二十何年経っていたのでうめのの姿はなかった。
カルテの余白 p47、48(抜粋省略)


那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/福田商店/戦前/サイノ神下/(1917年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1015

大正の仮屋の前

大正5年の琉球新報記事、シリーズ物の「那覇23町」から県庁前通りを引用します。
左図は明治初年、右は昭和初期です。

県庁前通り(自警察至藤井呉服店)
那覇警察署は古の親見世趾である。親見世というのは御店の義で古外国貿易の事務を管掌したる公衙である。其の前を見世の前と称えている。警察の門前に2株の大きな榕樹がある、4、5年前の暴風で吹き折られて、今は殆ど幹ばかり残っているようなもんだが元は随分繁っていた。昔はこの下に夷神の小祠があってビン人仲村渠姓が専ら祭祀を司っていたそうだ。屋号を同順といって今の仲村渠呉服店がそれである。
右側は西本町5丁目で左側が東町1丁目となっている。生和商店では支那茶を購う客が腰をかけている。森醤油問屋が明るくって目立つ。県庁第百四十七銀行、農工銀行が静かに相対している。昼間は沖縄の政治家実業家大星はここに集まっているが夜は寂しいもんだ。県庁のあるところは元仮屋のあったところで、古薩州派遣在藩奉行所の公館であった。後内務省の出張所である。この通りを仮屋の前といっていた。(略)歩いているとアーク燈の光で眩いばかり輝いて藤井呉服店と徳田店とが目につく。藤井呉服店では美しい若い女等を番頭と相対して反物の柄を見ている。夜の呉服店は美しいものだ。なお私は近い未来にデパートメント・ストアを見るであろうと思いながら通堂辺に進むと暗いところからいきなり「旦那!」という車夫の声に驚かされた。歩くのが億劫になったから、この車に乗って帰った。(21日午後7時)(白水)
大正5年1月22日 琉球新報(省略抜粋)


ビン人は久米三十六姓のことです。ビンは門がまえに虫、閩と書きます。

参考
グダグダ 久米村人(クニンダ)の宗家

アカチラ(赤面・明津浦)

若狭町のアカチラです。図では夫婦岩のあたりに赤面原とあります。

アカチラは赤面とも明津浦とも書いてあることがあって当て字なのかと思っていましたがどちらも正しいようです。下記引用の「アカツラ」の項目で琉歌が引用されていてそれぞれの字で読まれた歌が紹介されています(歌は引用しません)。

近世の若狭町海岸砂汀地。南は潟原、西は上之毛でユーチヌサチが海に突き出していた。アカツラともみえる。
潟原から当所を通り、上之毛を巡って辻に至る道をアカチラ道と称した。アカチラの東の海中に夫婦瀬(ミートゥジー、夫婦岩とも)があった、標高5、6メートルの二つ並んだキノコ岩で潮が引けば徒歩で渡ることができた。「琉球使録」は「亀山」と記している。
アカチラからユーチヌサチ、若狭町村の北海岸一帯は那覇の女性の浜下りの場で、夫婦岩は船遊びの場であった。
角川辞典 p156(省略と編集)


「昔の那覇と私」では流れ舟として船遊びが紹介されています。
当時は伝馬船もたくさんあったのでちょっと奮発して仲間内で遊ぶよい息抜きだったのでしょうね。

流れ船というのは女性のグループが「ぬちゃーしー」で金を出し合い、伝馬を借り切って幕を張り、ごちそうをしこたま持ち込み、小鼓を乱打してはやしたて、日がな一日歌い興じて遊んだ船のこと。はたらきものと定評のある那覇女たちも三月三日は天下ご免の開放日で、結いたての髪が根元からひっくり返るほどのおおはしゃぎで唄い踊る、ほんとに「すまてのかられぬ(住み心地がよくて去り難い)」那覇の港であった。
昔の那覇と私 p63

平和館近辺

西町にあった平和館です。
平和館
平和館そのものについては今回は触れませんが、島袋全幸さんの「昔の那覇と私」からその場所について描いてある箇所を引用します。

ランプの時代(大正の初年頃)であるからまだ平和館はなかった。あそこは渡久地という旧家の屋敷跡である。
昔の那覇と私 p86

この場所(※平和館)は商店の軒並につらなる人通りの多い石門通りにほどちかく、また上之蔵通りから真教寺方面に通ずるカーブをなした場所に理髪館や飲食店、それに簡易宿の多い至近距離にあって立地条件もよかった。
那覇市史資料編第2巻中の7 p786


電気会社設立以前の風景ですね。平和館は大正8年寄留商人(尾花・立住)によって作られています。
明治41年生まれの島袋さんは西町育ちで生家の近くの風景にあった料亭を記憶しています。

那覇の西町にあとで活動写真の平和館が建った次の通りに玉川屋という大和料理屋があったが(略)
昔の那覇と私 p86

新屋敷周辺

泊の新屋敷、高橋町、上之屋の一帯です。
右上が昭和4年の那覇市地図で下が現代の地図に当時の道と史跡を書いたものです。


ずっと勘違いしていたんですが、泊(高橋町)のメーミチ・ナカミチ・クシミチはあまり変化していません。那覇民俗地図では泊市場の下辺りからそれぞれの三つの道が出ていますが、上之屋民俗地図で泊から火の神嶽の側を通り新屋敷へ向かう道と泊市場から外人墓地へ繋がる道の二つがはっきりしたことで三つの道の位置も大体わかりました。
道路の直線化などはあるのかもしれませんが道筋としてはあまり変化はないです。

上之屋部落は泊の北で泊とくっつくように存在しており、図でピンクでしめした道の両側に客馬車駐車場などがありました。
オレンジで示した泊浄水場の北側は天久部落です。

立法院

現在の県庁の敷地にあった立法院です。
現在の県庁よりも緑が深くて敷地にも余裕があったような記憶があります。


写真はこんな感じ。左の方が現代に近く、右は1955(昭和30)年頃らしいです。
立法院立法院(1955)
那覇市内のバス(銀バス)は那覇高校前を通って立法院そばを通るのが多かったのですが、大概渋滞していてこの建物を横目で見つつうんざりすることになるわけです。あの頃は夕方どきに山手線並みの込み方をしていたことがあった(今は知らない)。

1952年4月1日、定員31人(任期2年)の議会として発足。
1953年12月26日、奄美地区が日本に返還される。
1954年2月1日、民政府布令第57号「立法院議員選挙法」改正第5号により、立法院議員の選挙制度が「中選挙区制」から「小選挙区制」になる。また、民政府布令第68号「琉球政府章典」改正第6号により、定員が29人となる。
1954年7月29日、立法院新議事堂が完成し、移転する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/立法院


Wikipediaを参考にすると1955年は完成直後のようですね。この建物は「立法院議事堂」で、復帰後も「県議会棟」として使われていましたが1999年に取り壊されました。
あの辺りは面影はあまり残ってません。道路沿いの緑地にソテツやガジュマルの緑が見えてなかなか趣のある場所だったんですが新しく開発したところはどうも緑が薄くなります。
それと復帰前、というか琉球政府時代のことを忌むような風潮もあって保存にも消極的だった記憶があります。(復帰前からあった)那覇市役所ももうありませんしあの時代の遺産というのはほんとに少なくなって来ています。


余談ですが星克(ほし かつ 1905.4.9-1977.5.25)が最後の立法院議長だったんですね(1968年12月7日-1972年5月14日)。名字でわかりますが沖縄の名字ではありません。
この人は新安里屋ユンタで有名ですが共産主義政党調査特別委員会でも有名です。

沖縄県民は復帰の1972.5.15とサンフランシスコ講和条約(1952.4.28発効)の関係、9.7の降伏調印と6.23の牛島司令官自決のズレの理由もちゃんと憶えておきましょう。

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