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波の上プール

現波の上ビーチになっている波の上プール。
波の上プール

図はゼンリン71年版を参考にしています。
現在の砂浜の位置に風呂桶のようなコンクリの箱がありそこに潮の満ち引きで海水が出入りする(!)という方式だったようです。磯のタイドプールを人口で作ったような感じか?
プールの横の海上にあるのが海中店舗。全部木造で杭の上に店があるだけのものでかなりぼろぼろだった記憶があります。ちなみに、ひかり、あさひ、へいわ、みつわ、日の出、わかさという名前のようです。店からぜんざいなど食いつつ下を見るとウニだらけ、足元の板の隙間から海の光がちらちら反射しているのが見えるくらいボロでした。
公園側にはスケート場(オレンジ)があり、現在公園になっている敷地には民家(ピンク)。この公園一帯を旭丘と呼び、公園敷地内の民家はのちに撤去されています。

戦前の動画もあります。

OKINAWA in the 1930's - YouTube
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=Vj8zVLcFh-8#t=71s
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円山号

東町にあった円山号です。写真は下記アドレスのサイト様よりお借りしています。
大正時代に沖縄に在った企業 (28) - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2842527.html

円山号

写真の建物はコンクリ造りになる以前でしょうね。場所は見世の前から孔子廟に向けて大門前通りを進んだ那覇郵便局の向かい辺りになります。
親見世
の斜め向かい、「便」の字がある辺りです。また大門前通りと線路に囲まれた一帯を仲毛(ナカモウ)と呼びます。

大門前通りの建物は、概ね明治末期から大正年代に断てられたもので、木造平屋が多く、二階建ては、初めは藤島洋服店のみであったが、あとで二十件余になった。1935年(昭和十年)平尾本店向かいに表三階一部四階の沖縄では初めての鉄筋立ての円山号百貨店がお目見えし、大門前通りの名物となった。山形屋に続く二番目の百貨店であった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p298


関連:グダグダ 円山号/尾花仲次

旧崇元寺橋(安里橋)

崇元寺橋の旧位置についてです。
旧崇元寺橋

沖縄県歴史の道調査報告書(4)に記述がありましたので引用します。

現在の崇元寺橋はやや東よりの上流に架けられており、元の位置は(略)仲程商会の道向かいの長谷場商会と仲宗根冷凍機の間から入り、川向の茶甚マンションと旭農機商会の間に抜ける安里川にかけられていたようである。1951年の米軍作成の地図にはその間の川の中に二基の橋脚らしきものが描かれている。
沖縄県歴史の道調査報告書 〈4〉 p133 (部分的に編集)


ピンクが旧位置です。
図は小さい方が少し前の地図です。現在もう無くなっている店舗もありますが仲程商会は健在で、その他は過去のゼンリン地図から確認しました。
バイパス道が通った近年の崇元寺橋の架け替え以降地形もかなり変化したのかなと思っていたのですが川の分岐点が削られた以外はあまり変化していないようです。バイパス的に川の上に架けられた道路がcやdから仲吉橋までの道を使われない道路にしてしまったので大きく変わった印象があったのかもしれません。

新村渠(ミンダカリ)

新村渠(ミンダカリ)です。
とりあえず美栄橋の説明を真和志市誌から引用します。
新村渠(ミンダカリ)

美栄地・新地・美栄橋
久茂地の川沿いで、小字河原端(カワラバンタ)から新村渠(ミンダカリ)に至る一円の地域は、長虹堤築造後、上昇した新地である。普門地(フムンジ)潟原ともいい、又は内潟原とも唱えられていたが、享保18年(1733)内潟原の新開地を住宅地として解放したときの規模は、内潟原は久米村に属し、之を美栄地と名付け、西の海及び外潟原の南辺は那覇に属し、前島一帯の西辺りは泊に、南辺りは牧志に付属することになっていた。
(略)
美栄地という名称については、当時この地が新開地であるという意味に於いて新地(ミィヂ)と呼ばれ、好字を撰んで美栄地又は美栄地村とも呼ばれている。
(略)
尚、今の美栄橋は享保年間、新開地当時「中の橋」よりも南表東、北表東の両区域に当たるところで、この屋敷数はあわせて八十八ヶ所で却って川の西側、今の久茂地町よりも多くなっていたが、その後衰えて、真和志間切に編入されたものである。
真和志市誌 P73


浮き島1
1452年の長虹堤構築から300年ですっかり陸地化してしまった新村渠。
久茂地町の範囲はこの図、美栄橋は久茂地町の対岸一帯だと考えて下さい。この図も参考になるか?
この新村渠は庶民の町であったようです。

七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973

長虹堤周辺

前島と牧志の境目であった長虹堤そばの前島島小(シマグヮー)について書いてきました。
島小(前島)
島小 2(前島)
島小 3(前島)
このなかで十貫瀬付近に入り江があり現沖映通り下のガーブ川から通じていたという記述がありました(島小 2)。

十貫瀬飲食街をしばらくゆくと久茂地川沿いの道路とT字型に交差する道がある。
やや大きな溝が流れ、道路の下に暗渠を設けて久茂地川に排水している。
この右手の(略)T字型道は、昭和4年の「那覇市全図」では久茂地川の入り江になっている。
明治10年頃作成の「琉球那覇港及び首里城間之図」では、この入り江はさらに深く入り、現在のダイナハの東側のガーブ川に通じる川になっている。
沖縄県歴史の道調査報告書 〈4〉 p133 (部分的に編集)

島小図

上の記述は「沖縄県歴史の道調査報告書 〈4〉」のp133からの引用ですがp132からも引用して紹介します。

今はこの辺一帯に民家立ち並んでいるが、最近までも左右田圃の相田を4、5尺の高さで走り、浮道の面影をとどめていた。
南島風土記 東恩納寛淳


私が現在の那覇中学校の地点に会った那覇市立商業学校(旧制)へ、首里から約一時間くらいを要して、徒歩で通学していたころは崇元寺橋(安里橋)を渡って、牧志の一角に入ると、そのあたりは瓦屋(カラヤー)らしく、民家の軒下には、板のように薄いウミイサー(珊瑚石)だのムチ(しっくい)に混入する切り刻んだわら等が、こんもりと積み上げてあって、一種独特なその蒸れる匂いが、むんむんと鼻をついてきたものだが、大体この辺からは、昔、浮き道、あるいは長虹堤といって海中道路の形をなしていた。
高さが約2メートルに、道幅がほぼ3メートルぐらいある浮き出た道路の北側は海水にひたされ、干潮時には、それが塩田に早変わりするし、南側は一面陥没した畑になっていて、この辺一帯、昔は海であったという名残りをとどめていた。(中略)
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973


泊前島誌の「島小周辺要略図(戦前)」には多数の漆喰屋(ムチャー)が記載されていました。

漆喰は石灰を必要としますが昔は珊瑚が利用されたようです。
参考:ムチ/漆喰

>南側は一面陥没した畑になっていて、この辺一帯、昔は海であったという名残りをとどめていた。
引用元の報告書でも低湿地帯であったという結論が出されています。
「戦前の牧志町民俗地図」では沖映劇場があったあたりは湿地帯と記載されています。那覇民俗地図ではむつみ橋から沖映劇場くらいまで(かどうかはっきりしませんが)が畑、その先の現在の美栄橋周辺は土地の利用状況が記載されていません。
ともかく地勢は低地で川沿いの湿地であったというのはまちがいないでしょう。
そこからガーブ川が二手に分かれていたのかは分かりませんが、二つの流れに挟まれた三角形の土地は三角州以外の何ものでもありません。

バクチャヤー(辻)

ユーチヌサチ・スーヌサチで少しバクチャヤーについて触れたのですが調べたので書いておきたいと思います。

バクチャヤー
<博打屋>のこと。辻原墓地帯にあった一大洞窟を指していう(現那覇市西町 沖縄ガス付近)。琉球国旧記[1731]によれば
「那覇の北、一洞窟あり、深くして風雨を遮る。人屋に似たり」として昔、多くの博徒が集まって博打を打ったところからこの名がついたとある。その後墓地帯となったが、第二次大戦前までは乞食などがここで雨露をしのいでいた。洞窟の上は芝生が生え旧暦三月三日のお重びらきには格好の場所でもあった。
沖縄大百科事典

ユーチヌサチ・スーヌサチ
図ではdと書いてあるスーヌサチの後ろってとこでしょうか。沖縄ガスのgoogle mapリンクです。
google map :沖縄ガス 沖縄県那覇市西3丁目13−2

過去記事の辻原から引用(の引用)します。
1951年から行われた那覇市若狭町、辻原の墓地整理事業をあげることができる。那覇の若狭、辻原の各墓地群は沖縄を代表する墓地として戦前から有名であったが、1951年に米軍の軍命をうけて、那覇市都市計画課がその撤去事業を開始したのである。米軍の意図は、両墓地の土を掘削し、その土を用いて泊護岸の埋め立て・整備を行うことにあったようである。
戦後沖縄の火葬 : 那覇若狭町、辻原の墓地整理をめぐって/加藤正春

泊の埋立用に名高い名跡の辻原墓地をぶっ壊したということです。

スーヌサチ /suunusaci/(名詞) 地名 潮の崎
地名。辻の名所であった岩壁のこと。戦後、開発によって削りとられ、現在は平坦な土地となっている。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50896

スーヌサチは岸壁ということですが、波の上は岸壁で、ユーチヌサチも岸壁(だったらしい)ですから海沿いの一帯は石灰岩の岸壁が連続していたのでしょう。波の上にも洞窟があるらしいですけども、洞窟はだいたい石灰岩の土地にあるものですから辻原の岸壁沿いに洞窟があることは不思議ではありません。
バクチャヤー /bakucajaa/
那覇若狭にあった貧民窟。こじきやハンセン死病患者。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN30120

那覇に限らず療養所ができる前は死病・業病として恐れられたハンセン病の患者は人里から少し離れた海岸等に隠れ住んでいたという記録が結構ありますからこれも不思議ではありません。那覇の大繁華街からほど近いバクチャヤーは都市のおこぼれを貰うには最適の場所だったのかもしれません。
東京の四谷鮫河橋とかを思い起こさせる話です。

那覇潟原

前島と那覇の間にあった那覇潟原です。

七つ墓から美栄橋を渡りイベガマまでの道のそばはミンダカリと呼ばれ市街化されています。このミンダカリから海側が那覇潟原です。
前島は前島板橋グヮーから兼久までまっすぐ集落の中央を道が通り、中の橋からの道は直角に交差し、集落は現在のように格子状に区画されています。

イベガマのそばにはカタバルマチグヮーがありました(約450坪)。
図の正確性についてですがイベガマ、潮渡橋の位置は特定されています。現在と変わらない場所にあるのは那覇中(那覇市立商業学校)、久茂地小です。
久茂地橋の現在位置は赤く表示してありますが過去の位置は久茂地よりにありました。

ユーチヌサチ・スーヌサチ

那覇のユーチヌサチとスーヌサチです。
ユーチヌサチ・スーヌサチ

ユーチヌサチ(雪の崎)は若狭町、現在の小学校あたりです。スーヌサチ(潮の崎)は辻町で削り取られてしまって跡形もありません。
説明を引用します。

ユーチヌサチ /'juucinusaci/(名詞) 地名 雪の崎
地名。海に突き出た石灰岩の丘。那覇市若狭町二丁目にあり、拝所があった。現在はそこに若狭小学校がある。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51806
スーヌサチ /suunusaci/(名詞) 地名 潮の崎
地名。辻の名所であった岩壁のこと。戦後、開発によって削りとられ、現在は平坦な土地となっている。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50896


ユーチヌサチ後方には上ノ毛という場所があり墓地となっていたようです。また上ノ毛のそばには坊主墓と護道院がありますがそこは黒金座主(耳切坊主)がいた場所です。
スーヌサチ周辺には硝子工場や那覇市立屠場がありました。またバクチャヤーと呼ばれた貧民窟も存在していたようです。

バクチャヤー /bakucajaa/
那覇若狭にあった貧民窟。こじきやハンセン死病患者。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN30120

ムヌクーヤー /munukuujaa/(名詞) 物乞い
乞食。物乞い。辻町のバクチャヤーに集まって生活していた。中にはその大将であるムヌクーヤーテーソーがおり、乞食たちを取りし切っていた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51725


物を乞う人(ムヌコーヤー)の大将(テーソー)が仕切ってたわけですね。
海岸沿いはこの世とあの世の境界、聖なる場所にもなり穢れが吹きだまる場所にもなりやすい気がします。

【追記】ユーチヌサチは雪の崎となっていますが、景観が斧(ユーチ)に見えたことから斧の崎(ユーチヌサチ)とも言ったようです。

ユーチ /'juuci/(名詞)
意味:小型のおの。手おの。よき。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN41460


那覇まちのたね通信 | 都市計画/終戦後のユーチヌサチ
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2106

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